1 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/01(火) 13:46:39 ID:
2 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/01(火) 14:08:46 ID:8+ualRHC
実際に出たトリビア
愛の兜をしてた戦国武将がいた
愛の兜をしてた戦国武将がいた
4 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/01(火) 15:18:21 ID:dq8Y1bQb
豊臣秀吉は
指が6本ある。
指が6本ある。
5 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/01(火) 15:27:20 ID:em30lhHy
豊臣秀吉は
生まれにコンプレックスがあり、晩年には「俺の母親は、天皇の寵愛をうけて俺を産み落とした」と、起きたまま寝言を言っていた。
生まれにコンプレックスがあり、晩年には「俺の母親は、天皇の寵愛をうけて俺を産み落とした」と、起きたまま寝言を言っていた。
6 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/02(水) 07:50:35 ID:5FW/d34B
フロイス『日本史』豊臣秀吉編 I 第16章(ペーパーバック版)
「彼(秀吉)は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六
本の指(seis dedos)があった。眼がとび出ており、シナ人のように
鬚(barba)が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき
策略家であった」。
ぶさいく秀吉
「彼(秀吉)は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六
本の指(seis dedos)があった。眼がとび出ており、シナ人のように
鬚(barba)が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき
策略家であった」。
ぶさいく秀吉
8 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/03(木) 00:52:30 ID:ETuZpVr9
信長は逃げるのが上手かった。
10 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/04(金) 19:16:22 ID:H/Dh1EU1
穴山梅雪は
家康らに殺された可能性がある
家康らに殺された可能性がある
12 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/30(水) 16:51:54 ID:DsH+px6j
伊達政宗という
小惑星がある
小惑星がある
194 : 人間七七四年 : 2008/03/25(火) 23:15:57 ID:oVcLz95x
>>12のネタに被るけど…。小惑星の中には伊達政宗の正室の名を冠した物もある。
有名だけど対になる話なので。一応補足すれば伊達政宗とめごを名付けたのは同じ人。
有名だけど対になる話なので。一応補足すれば伊達政宗とめごを名付けたのは同じ人。
13 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/31(木) 14:18:04 ID:kjuyS6JO
真田幸隆は
実は幸綱が正しい
実は幸綱が正しい
15 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/31(木) 15:50:16 ID:fFSJPl4j
浅井長政は徳川家光の祖父。
ホント
ホント
16 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/08/31(木) 18:13:25 ID:fBjNng3N
>>15
今川氏真の祖父は武田信虎
いろいろある。
今川氏真の祖父は武田信虎
いろいろある。
17 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 00:40:14 ID:cF5Hnjo8
逃げる時、怖すぎて
脱糞した天下人がいる
脱糞した天下人がいる
29 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 17:35:36 ID:LCXzCIvi
>>17
しかもその屈辱を晩年まで忘れないために、絵師に描かせたというのは、
大河ドラマ作中で紹介されちゃった超有名な話
しかもその屈辱を晩年まで忘れないために、絵師に描かせたというのは、
大河ドラマ作中で紹介されちゃった超有名な話
19 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 13:27:21 ID:qAEaS5lt
武田には
武田信長という武将がいた
武田信長という武将がいた
21 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 14:57:13 ID:4MqdH/3X
武田二十四将は
一堂に会したことがない
一堂に会したことがない
61 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/10(日) 23:16:49 ID:S044UvwR
>>21
三国志の蜀の五虎将みたいなもんかw
三国志の蜀の五虎将みたいなもんかw
64 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/11(月) 03:59:34 ID:9jkt7sZD
>>61
単に機会がなかったと言うことではなく
一番年上と一番年下では半世紀差があるとか
単に機会がなかったと言うことではなく
一番年上と一番年下では半世紀差があるとか
22 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 15:07:19 ID:4MqdH/3X
宮本武蔵は
関ヶ原の戦いに西軍として参加していた
関ヶ原の戦いに西軍として参加していた
23 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 15:24:12 ID:8lSj6CRe
武田信玄は
明治の板垣退助と親戚である。
明治の板垣退助と親戚である。
25 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 15:35:12 ID:8lSj6CRe
北条早雲は 一度も自分のことを「北条早雲」と名乗ったことはない。
27 : 剥離 ◆plyspK9YWM : 2006/09/02(土) 16:56:29 ID:9SQsA4oX
溝口秀勝の子孫と俺は
知り合い。小学校の先生をしている。
知り合い。小学校の先生をしている。
30 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 17:57:51 ID:usUGge60
上杉家の主要財源は
他国で狩った奴隷売却利益
他国で狩った奴隷売却利益
31 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/02(土) 18:27:52 ID:8lSj6CRe
徳川家康が描かせたという例の絵は
三方が原のかなり後(家康の死後かもしれない)に描かれたものである。
根拠:冬なのに、裸足で草鞋を履いているのは不自然。
ポーズが半跏思惟、神となった家康を後世に描いたものである
可能性が高い。
三方が原のかなり後(家康の死後かもしれない)に描かれたものである。
根拠:冬なのに、裸足で草鞋を履いているのは不自然。
ポーズが半跏思惟、神となった家康を後世に描いたものである
可能性が高い。
35 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/04(月) 21:33:13 ID:5rUJDsLi
家康と於愛(秀忠の母)は、血の繋がりのない従兄弟
37 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/04(月) 23:31:21 ID:8XKx73w2
俺からも一つ
服部半蔵は
松尾芭蕉かもしれない
服部半蔵は
松尾芭蕉かもしれない
38 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/05(火) 00:21:18 ID:Gm8hYsQj
豊臣秀頼は実際は
石田三成の子供。女好きで多くの側室を持っていた秀吉に子供が出来なかったのは種が悪かったから。それなのに茶々に子供が出来たのは三成が豊臣家の事を思い跡取りを作る為に親しい間柄にあった茶々とねたから。
石田三成の子供。女好きで多くの側室を持っていた秀吉に子供が出来なかったのは種が悪かったから。それなのに茶々に子供が出来たのは三成が豊臣家の事を思い跡取りを作る為に親しい間柄にあった茶々とねたから。
40 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/05(火) 00:34:30 ID:jrCPYHfs
>>38
大河厨の妄想か…
大河厨の妄想か…
39 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/05(火) 00:31:23 ID:aKlqmmcJ
秀吉の実子じゃない類は三成説よりも
大野治長説の方がどっちかってと有力
大野治長説の方がどっちかってと有力
42 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/07(木) 01:47:46 ID:fCulTNaM
太りすぎて
馬に乗れず逃げ遅れ、討ち死にした部将がいる
馬に乗れず逃げ遅れ、討ち死にした部将がいる
45 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/07(木) 23:44:04 ID:Vwz1hN9u
>>42
該当人物が有名ドコロで二人いるな。
該当人物が有名ドコロで二人いるな。
48 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/08(金) 00:49:45 ID:GCuqBgrl
>>45
東海一の弓取りと肥前のクマーッ!さん?
東海一の弓取りと肥前のクマーッ!さん?
53 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/09(土) 02:29:32 ID:wY1fFEPF
本当に義元が馬に乗れなかったのか疑問なんだが…。
54 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/09(土) 04:25:42 ID:8ugOp943
確か藤堂高虎も結構な肥満体だったとか。
43 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/07(木) 01:51:43 ID:ftocQWbz
猿にお前以上に出世したぞ。と偉そうに話しかけられた元天下人は
落馬が原因で逝去
落馬が原因で逝去
46 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/07(木) 23:46:38 ID:uRpB3yMn
丹波八上城攻めにおいて明智光秀の母が磔にされたというのは
ガセ
ガセ
47 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/07(木) 23:56:24 ID:KOf/3dL2
大阪の夏の陣で、
伊達政宗は手柄のために味方を一斉射撃した。
言い訳は、「伊達の兵法に敵味方の区別はない」
伊達政宗は手柄のために味方を一斉射撃した。
言い訳は、「伊達の兵法に敵味方の区別はない」
49 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/08(金) 21:13:27 ID:hkmqoli9
>>47
凄い言い訳wwwww
凄い言い訳wwwww
50 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/09(土) 00:57:44 ID:vJxgGUH1
すごw
57 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/09(土) 04:44:54 ID:6SSUpVQY
武田信玄は浮気したことを詫びる手紙を男の出したことがある
58 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/09(土) 07:28:02 ID:GOldyIem
尼子経久はケチなクセして 人に物をあげる癖がある
60 : 名無しさん@お腹いっぱい。 ◆ccqXAQxUxI : 2006/09/10(日) 22:49:52 ID:urELS/VS
http://wiki.livedoor.jp/zaki6/d/FrontPageに書かれてあったが、桶狭間合戦と足利義輝暗殺事件は当時の日付で同月同日だったらしい。
62 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/11(月) 01:00:35 ID:VAprPie+
山本勘助は
実は素晴らしい剣豪だった。十数名に囲まれ切り捨てた。
実は素晴らしい剣豪だった。十数名に囲まれ切り捨てた。
63 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/11(月) 01:08:50 ID:8b7vtl0c
今川義元は信長飛躍の踏み台が如き扱いになっているが
優秀な人物で、海道一の弓取りとまでいわれた傑物であった
優秀な人物で、海道一の弓取りとまでいわれた傑物であった
65 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/11(月) 05:47:20 ID:oT0N2hJR
島津義弘に差し出された肉を奪い取って食べた俺の先祖
188 : 人間七七四年 : 2008/03/10(月) 16:51:45 ID:PvZXHJUj
>>65
どゆこと?
どゆこと?
219 : 人間七七四年 : 2008/06/23(月) 23:18:56 ID:uP+Yco+e
>>188
中馬だったかな。
殿様は最後の最後は切腹するんだから食わんで良い、
守る俺たちが食う、という理屈。
中馬だったかな。
殿様は最後の最後は切腹するんだから食わんで良い、
守る俺たちが食う、という理屈。
221 : 人間七七四年 : 2008/06/24(火) 02:30:05 ID:o9t/Q1oZ
鶏肉や獣肉もたまには食うからそれじゃないかな。
ところで>>219に書いた話は、関ヶ原からの撤退時の話ね。
ところで>>219に書いた話は、関ヶ原からの撤退時の話ね。
504 : 人間七七四年 : 2015/12/15(火) 12:54:25.91 ID:h2a01oXK
>>188
島津奔るって小説に載ってるよ、発禁になったけど
島津奔るって小説に載ってるよ、発禁になったけど
69 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/11(月) 12:52:09 ID:0+HqctY/
座頭一は、実は
目が見える。
目が見える。
70 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/11(月) 13:06:38 ID:QtFTYU/y
>>69は 思いっきり字を間違ってる
71 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/12(火) 14:04:25 ID:zU6sa/aa
宮本武蔵は
島原の乱で 名 も 無 き 農 民 に大怪我を負わされた。
島原の乱で 名 も 無 き 農 民 に大怪我を負わされた。
72 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/14(木) 05:02:05 ID:w04qzQQv
戦国時代に八十四歳で 子供をつくった坊さんがいる。
本願寺の法主で名は蓮如。十三男十四女の子だくさんであった。
生涯で五回結婚(次々に妻が死んだため)し、最後の子が産まれた二ヶ月後に死亡。
石山合戦で織田信長と争った本願寺法主顕如は彼の孫の孫である。
本願寺の法主で名は蓮如。十三男十四女の子だくさんであった。
生涯で五回結婚(次々に妻が死んだため)し、最後の子が産まれた二ヶ月後に死亡。
石山合戦で織田信長と争った本願寺法主顕如は彼の孫の孫である。
73 : アラジン : 2006/09/14(木) 16:57:23 ID:IIPgPvb5
これは事実! みなさんがよく眼にする、聖徳太子の絵は、本人の絵ではない! 源 頼朝のよくみる絵も、本人じゃない! 足利尊氏の絵も(馬に乗っている絵)も本人じゃない
74 : アラジン : 2006/09/14(木) 17:02:49 ID:IIPgPvb5
武田信玄の肖像画(ハゲ頭の絵)も本人じゃない!正確には、畠山義継ってヤツらしい
75 : アラジン : 2006/09/14(木) 17:07:50 ID:IIPgPvb5
鎌倉幕府の創立は1192年と、誰でも知ってるこれも正確じゃないらしい! 本当は1185~1189年の間らしい。正確な年は分からないが1192が違うのは事実らしい
78 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/14(木) 21:01:12 ID:V8PeEp0S
斉藤道三が油売りから国主にのし上がったというのは
ガセ
ガセ
79 : あ : 2006/09/14(木) 21:51:18 ID:W9ErdM8n
徳川家康は三方が原の帰りに
食い逃げをして店主から追われた。
地元の創作話らしいけどね。
食い逃げをして店主から追われた。
地元の創作話らしいけどね。
83 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/15(金) 11:54:32 ID:voWTviyN
山県昌景は
身長130cmの小男でしかも兎口症
これくらいは戦国好きなら常識だが
穴山梅雪は
鼻がなかった。
身長130cmの小男でしかも兎口症
これくらいは戦国好きなら常識だが
穴山梅雪は
鼻がなかった。
85 : アラジン : 2006/09/15(金) 16:42:12 ID:0cibedR7
武田信玄と高坂 昌信(弾正)が、できてたのは有名な話。信玄から昌信宛ての恋文もある。それを見た信玄の奥方は激怒したとか…
87 : アラジン : 2006/09/15(金) 16:58:49 ID:0cibedR7
家康の嫡男・信康の妻(名前忘れた!)と、家康の妻で姑の瀬名と、もの凄く仲が悪かったらしく、信康とも不仲になり、妻が自分の父・信長に信康と瀬名が武田家に通じてるとデマを言って、それを信じた信長は激怒して家康に二人を殺させたらしい
91 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/15(金) 19:38:52 ID:voWTviyN
>>87
信康母子殺害は 家康主導だった。
信康母子殺害は 家康主導だった。
88 : アラジン : 2006/09/15(金) 17:13:03 ID:0cibedR7
秀吉の手形が残ってるが、運命線が手前から指先まで続いてるが、実はこれは自分で手に傷をつけたものらしい… 実際に秀吉は自ら作った運命線以上の運命を経験するがね
92 : アラジン : 2006/09/15(金) 20:17:34 ID:0cibedR7
ルイス・フロイス等が書いたとされる、信長の超リアルな水彩画がある。 俺、その絵を見て驚いた!男前。ヒゲは長くて、頬はこけてて、鼻は高く、顔長若い時の役所光司に似てた
93 : アラジン : 2006/09/15(金) 20:41:27 ID:0cibedR7
秀吉は優秀なエンジニアである。秀吉が生まれた集落は優秀な技術者たちが集う村だった。墨俣一夜城の時地元民の技術者たちと通じていたからこそ実現できた日本で初の下水道を作ったのも彼だし、四畳半一間という和室の定番な形を考えたのも彼が最初。
94 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/15(金) 20:52:36 ID:gCb4Brbw
信長の水彩画なんてあるのか。スケッチ画と日本絵は観た事があるが。
どこに保管されているんだ?閲覧出来るの?
どこに保管されているんだ?閲覧出来るの?
95 : アラジン : 2006/09/15(金) 20:59:01 ID:0cibedR7
>>94 オリジナルは残念ながら、第二次大戦中に燃えてしまったが、写真は残っているどこにあるかは知らない。俺はテレビでそれを観たから…
96 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/15(金) 21:06:21 ID:voWTviyN
絵と写真は違うからね。
絵なんてものは当人を美化して描くものだ。
当然、宣教師も信長をおだてねばならない立場だし、
写真のように決め付けるのも何だかと思うが。
もっとも幕末の英傑を移した写真も
相当、修整や化粧(男がするんだよね)などで美化しされてるのだが。
絵なんてものは当人を美化して描くものだ。
当然、宣教師も信長をおだてねばならない立場だし、
写真のように決め付けるのも何だかと思うが。
もっとも幕末の英傑を移した写真も
相当、修整や化粧(男がするんだよね)などで美化しされてるのだが。
97 : アラジン : 2006/09/15(金) 21:17:09 ID:0cibedR7
>>96 写真じゃないよ!1500年代だで!水彩画を写した写真が残っていると言ったんだよ。本物は燃えちゃったから…
98 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/09/15(金) 21:35:01 ID:voWTviyN
>>97
文の前半も読んでよ。宣教師の書いた信長の絵なら、
当然、信長をおだてるために美化されていることが予想されって事だ。
文の前半も読んでよ。宣教師の書いた信長の絵なら、
当然、信長をおだてるために美化されていることが予想されって事だ。
102 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/10/05(木) 17:30:51 ID:dA5K40Mr
>>96
それはあてはまるようであてはまらないと思う。当時の美的感覚もあるし、西洋と日本でも感覚の違いはあるし。
そもそも外国の身分高い人間の絵だって、全然やばいのもあるしな。
(その場合、当時の美的感覚によるものか、あるいは単に似せたのか、という問題がある)
それに信長の絵は、何枚もの絵のうちから、何人かで集まって、これが一番にてるっつって残された絵だったはずだが。
正直、外国人が頭のまげを書きなれてないっぽいのが丸わかりな絵だけどな。
それはあてはまるようであてはまらないと思う。当時の美的感覚もあるし、西洋と日本でも感覚の違いはあるし。
そもそも外国の身分高い人間の絵だって、全然やばいのもあるしな。
(その場合、当時の美的感覚によるものか、あるいは単に似せたのか、という問題がある)
それに信長の絵は、何枚もの絵のうちから、何人かで集まって、これが一番にてるっつって残された絵だったはずだが。
正直、外国人が頭のまげを書きなれてないっぽいのが丸わかりな絵だけどな。
104 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/10/28(土) 22:42:41 ID:hhe/qEmw
村上義清と斯波義統は
血のつながった従兄弟
血のつながった従兄弟
114 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/11/19(日) 21:03:22 ID:eaNOSe8R
>>104
マジで!?へぇ全然知らなかったわw
マジで!?へぇ全然知らなかったわw
120 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/11/23(木) 02:55:28 ID:BjcopOaJ
オノ・ヨーコは戦国大名大友家臣小野鎮幸の子孫
123 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/11/23(木) 13:31:42 ID:vIJn+zpc
静岡県袋井市にある可垂寺には、家康が隠れたとされる穴、通称六文字穴がある。
夜中に灯りを持たずに入ると大変な事になる。
トリビアでは無いが一応。
夜中に灯りを持たずに入ると大変な事になる。
トリビアでは無いが一応。
124 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/11/23(木) 14:21:20 ID:igRFzWTa
>>123
大変な事って何だろう…
大変な事って何だろう…
127 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/11/23(木) 16:07:45 ID:vIJn+zpc
>>124
出口がわからないんだ。マジで。
出口がわからないんだ。マジで。
128 : 名無しさん@お腹いっぱい。 : 2006/11/23(木) 16:16:49 ID:1O/MHI2v
今川義元は
桶狭間の戦いで討たれる直前はかなり抵抗してた。
補足、義元は服部小平太に切りかかれるも逆に脚部を切った、そして毛利新助と
乱闘になるが遂に討たれるまた義元は乱闘の間に新助の人差し指を噛み千切るほど
抵抗してたそうだ。
桶狭間の戦いで討たれる直前はかなり抵抗してた。
補足、義元は服部小平太に切りかかれるも逆に脚部を切った、そして毛利新助と
乱闘になるが遂に討たれるまた義元は乱闘の間に新助の人差し指を噛み千切るほど
抵抗してたそうだ。
137 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/02(火) 10:42:52 ID:YmoBk8bh
信玄の隠し湯とよく言われる石和温泉は
実は明治時代以降の発見
実は明治時代以降の発見
140 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/02(火) 11:54:27 ID:RF02d6VI
>>137
へぇ
へぇ
164 : 人間七七四年 : 2007/04/25(水) 05:10:30 ID:0fmmL6nE
>>137石和温泉は、信玄の隠し湯じゃないよ。信玄の隠し湯は、積翠寺温泉、 湯村温泉、下部温泉、川浦温泉、増富温泉です。
138 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/02(火) 11:17:51 ID:VxQbJm9H
長宗我部は海賊だった
141 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/02(火) 13:41:52 ID:VxQbJm9H
豊臣軍の真田幸村は実は真田信繁っていう名前らしい。
武田信玄に名付けられ、生きている間は一度も幸村と名乗ってない。
武田信玄に名付けられ、生きている間は一度も幸村と名乗ってない。
142 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/02(火) 14:43:11 ID:osdMpX+n
トリビアというほどでもないが
剣豪・塚原卜伝、上泉伊勢守が戦場で主に使っていた武器は槍
剣豪・宮本武蔵を倒した時の武器は単なる石
剣豪・塚原卜伝、上泉伊勢守が戦場で主に使っていた武器は槍
剣豪・宮本武蔵を倒した時の武器は単なる石
143 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/02(火) 19:15:37 ID:/JEbA/ZA
後藤又兵衛はキリシタン
149 : greatirubon : 2007/01/10(水) 14:21:44 ID:Y0bHR19Q
会津娘子隊に投降を呼びかけて、武器を捨てて近づいたところを、薙刀で真っ二つにされて死んだのは、、
俺の五代前のご先祖様
俺の五代前のご先祖様
151 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/10(水) 19:16:53 ID:YovBtr8t
今川義元の首は最後今川家臣岡部元信により返還、城「鳴海城」と交換した。
208 : 人間七七四年 : 2008/04/22(火) 14:06:05 ID:5vnjQ2wl
・・・・う~ん、1から全部見たけど、
>>151 の岡部云々が、というのは関係ないというのが最近の説。
>>151 の岡部云々が、というのは関係ないというのが最近の説。
154 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/11(木) 22:17:10 ID:Bnsl72iQ
家康は戦場で
蒔絵の超豪華なおまるを献上された事がある。
蒔絵の超豪華なおまるを献上された事がある。
155 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/11(木) 22:23:50 ID:XCv4rRQ/
凄い嫌味だな。
156 : 名無し議論スレにて投票方法審議中 : 2007/01/22(月) 14:45:53 ID:ajaFiZA0
朝倉宗滴は
織田信長の台頭を予言していた
詳細:彼の発言を家臣がまとめた「朝倉宗滴話記」に
「織田上総介の行く末をもう少し見届けたい」と言ったような事が記されている
織田信長の台頭を予言していた
詳細:彼の発言を家臣がまとめた「朝倉宗滴話記」に
「織田上総介の行く末をもう少し見届けたい」と言ったような事が記されている
158 : 人間七七四年 : 2007/03/13(火) 19:39:03 ID:H6IFKeay
織田宗家の当主は、現在埼玉県職員である。
159 : 人間七七四年 : 2007/03/18(日) 20:08:35 ID:gyIYzYL4
武田信虎は
信玄よりも長生きした
信玄よりも長生きした
160 : 人間七七四年 : 2007/04/24(火) 22:52:41 ID:KfITx0em
織田信長は
お歯黒をして輿に乗っていた
お歯黒をして輿に乗っていた
162 : 人間七七四年 : 2007/04/25(水) 02:58:13 ID:3Bfbnbkk
お市の方は
実は信長の妹じゃない
実は信長の妹じゃない
167 : 人間七七四年 : 2007/04/26(木) 18:56:07 ID:/twivyEY
戦国時代からはズレるけど
楠木正成と観阿弥は 叔父と甥
※「観世系図」によると観阿弥の母は河内の橘正遠の娘となっている
これまでの研究で楠木正成の父が正遠と名乗っていたらしきことと、楠木氏の本姓が橘氏であったことが明らかになっている
楠木正成と観阿弥は 叔父と甥
※「観世系図」によると観阿弥の母は河内の橘正遠の娘となっている
これまでの研究で楠木正成の父が正遠と名乗っていたらしきことと、楠木氏の本姓が橘氏であったことが明らかになっている
168 : 人間七七四年 : 2007/04/26(木) 22:13:11 ID:YYE0iYd+
>>167
板違いなネタだけど10へぇ
板違いなネタだけど10へぇ
169 : 人間七七四年 : 2007/05/19(土) 00:38:40 ID:xIz9UAB5
長曾我部元親と今川義元の命日は同じ
170 : 人間七七四年 : 2007/05/21(月) 10:57:17 ID:6+kT0Mrc
信長が将軍足利義輝に拝謁したとき、
信長の共侍らは金の丸鞘に地に引き摺るほどの長い刀を差し
そのこじりには小さな車がつけてあったという
のちのコロ助である
信長の共侍らは金の丸鞘に地に引き摺るほどの長い刀を差し
そのこじりには小さな車がつけてあったという
のちのコロ助である
175 : 人間七七四年 : 2007/06/30(土) 05:06:36 ID:8VGWKKoQ
細川ガラシャが
主人公のオペラがヨーロッパで上演されていた
神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして
戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)として1698年7月31日に上演されている
オーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたらしく
エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、
エリーザベト皇后などの生き方にも影響を与えたと言われる。
以上WIKIより
主人公のオペラがヨーロッパで上演されていた
神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして
戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)として1698年7月31日に上演されている
オーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたらしく
エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、
エリーザベト皇后などの生き方にも影響を与えたと言われる。
以上WIKIより
176 : 人間七七四年 : 2007/08/06(月) 18:20:55 ID:6tIwT/eZ
戦国時代、織田信長に陣中で使用するトイレが献上された。それはかなり豪華なもので
見事な絵が描かれており、金箔も使用されていた。
後日、そのことを聞いた者が同じような物を徳川家康に献上した。
しかし、家康は「糞が絵を見るか!!」と言って破壊してしまった。
213 : 人間七七四年 : 2008/05/05(月) 08:57:51 ID:LlocksCD
>>176
家康かっこいいw
家康かっこいいw
215 : 人間七七四年 : 2008/05/06(火) 07:11:51 ID:3a5PV+wR
>>176
家康に糞の話題はタブーだったんだろうな
家康に糞の話題はタブーだったんだろうな
177 : 人間七七四年 : 2007/08/06(月) 23:01:13 ID:odp+jxZb
豊臣秀頼は
身長:190cm、体重:160kgの、贅肉ボブサップだった。
(かまぼこ大好きっ子で、その体格から馬にも乗れず刀も脇の肉がジャマで振れなかったとか)
身長:190cm、体重:160kgの、贅肉ボブサップだった。
(かまぼこ大好きっ子で、その体格から馬にも乗れず刀も脇の肉がジャマで振れなかったとか)
178 : 人間七七四年 : 2007/08/07(火) 02:33:03 ID:4Er9vHGm
明治の外務大臣陸奥宗光は
伊達政宗の子孫である
伊達政宗の子孫である
184 : 人間七七四年 : 2007/10/24(水) 17:08:58 ID:6egYcRS5
江戸時代、尾張徳川藩主の中で何人かは
石田三成の子孫。
三成の曾々孫あたりが、徳川家光の側室のお振の方。
そのお振の方の娘が尾張の二代藩主に嫁いで三人ぐらい男子つくってる。
その男子の家系が宗春まで続いてる。
石田三成の子孫。
三成の曾々孫あたりが、徳川家光の側室のお振の方。
そのお振の方の娘が尾張の二代藩主に嫁いで三人ぐらい男子つくってる。
その男子の家系が宗春まで続いてる。
187 : ちゅ : 2008/03/10(月) 15:57:31 ID:JdQvM4H2
上杉景信は
天然痘にかかっていた
天然痘にかかっていた
190 : 人間七七四年 : 2008/03/13(木) 14:16:38 ID:lM4zEBjM
信長は
自分の息子に自分の父親の名をつけた
自分の息子に自分の父親の名をつけた
191 : 人間七七四年 : 2008/03/24(月) 22:05:11 ID:bbzwMt2S
>>190
信長が死んだとき、息子の信秀はまだ12歳だから元服前じゃないの?
信長が死んだとき、息子の信秀はまだ12歳だから元服前じゃないの?
193 : 人間七七四年 : 2008/03/25(火) 19:41:10 ID:C0emtpmw
今川義元と北条氏康は、又従兄弟
氏康の祖父は早雲であるが、その妹である北川殿が今川氏親を産み、氏親の3男として義元が生まれたため。
氏康の祖父は早雲であるが、その妹である北川殿が今川氏親を産み、氏親の3男として義元が生まれたため。
195 : 人間七七四年 : 2008/03/26(水) 23:44:33 ID:nhuyoo54
豊臣秀頼は二人いる
羽柴秀頼と毛利秀頼(後者が豊臣姓を拝領したため)
羽柴秀頼と毛利秀頼(後者が豊臣姓を拝領したため)
204 : 人間七七四年 : 2008/04/20(日) 02:27:45 ID:xKivTTCT
よく戦国武将が~升の酒を呑んだって文献が在るが昔の日本酒はアルコール度数がビールと同じく5㌫程度だったので大量に呑めた。
205 : 人間七七四年 : 2008/04/20(日) 13:51:44 ID:RFGIVSaJ
酒にもイロイロある
てかアルコール度数5%でも何升も飲むとか異常だろ
肝機能が相当優れてたのかね?
てかアルコール度数5%でも何升も飲むとか異常だろ
肝機能が相当優れてたのかね?
209 : 人間七七四年 : 2008/04/23(水) 07:29:15 ID:Qt41RUrs
肝付良兼に嫁いだ伊東義祐の娘の名前は「高城」
210 : 人間七七四年 : 2008/04/30(水) 05:25:57 ID:PUpSQfXm
日本で誕生日に祝うのを定例化したのは信長ってのは本当?
ナイフとスプーンを信長が愛用していたのは聞いた事あるんだが…
ってここは質問スレじゃないな
ナイフとスプーンを信長が愛用していたのは聞いた事あるんだが…
ってここは質問スレじゃないな
220 : 人間七七四年 : 2008/06/24(火) 02:27:36 ID:8j1gvnxZ
>>210
ナイフとスプーン使って16世紀の日本で何食うの?
味噌汁?タクアン?
ナイフとスプーン使って16世紀の日本で何食うの?
味噌汁?タクアン?
211 : 人間七七四年 : 2008/05/04(日) 20:02:25 ID:3fIx8aSz
まぁ、松永がクリスマス休戦してるぐらいだからあるんじゃね?
212 : 人間七七四年 : 2008/05/05(月) 05:17:51 ID:/cEu6dJh
でも松永はキリシタン大嫌いだからな。どちらかというと三好三人衆から持ちかけた気がする
225 : 人間七七四年 : 2008/06/26(木) 22:02:30 ID:EyVhpYDv
毒針で穴だらけになった饅頭を、それと知りつつ食べた清正公。
朝鮮の王子に神様として崇められたりしたな。
熊本のもんはwe love清正だ。
細川?何すかそれ?
ヽ(´ー`)ノ
清正公にお預かりしますとお参りして藩主になった人たちだろ。
朝鮮の王子に神様として崇められたりしたな。
熊本のもんはwe love清正だ。
細川?何すかそれ?
ヽ(´ー`)ノ
清正公にお預かりしますとお参りして藩主になった人たちだろ。
229 : 人間七七四年 : 2008/06/27(金) 11:43:00 ID:slfENPHj
>>225
毒針で穴だらけ饅頭の話もうすこし詳しく聞きたい。お願いします
毒針で穴だらけ饅頭の話もうすこし詳しく聞きたい。お願いします
228 : 人間七七四年 : 2008/06/27(金) 06:04:56 ID:ZR9fonLg
熊本県民の話題にも上がらぬ宇土の小西哀れ・・・
熊本城の重要史跡の宇土櫓は小西の宇土城のものなのに・・・
よくわからん基準で斬られたし
(石田と安国寺は精軍首脳だから仕方ないとして小西は別に中心でもないし
宇喜多みたいに激闘してるわけでもないしむしろやる気なかったというのに)
朝鮮だって講和にがんっばったのは宗と小西なのに
一方は清正公と神になり小西は墓すら残っていない・・・
熊本城の重要史跡の宇土櫓は小西の宇土城のものなのに・・・
よくわからん基準で斬られたし
(石田と安国寺は精軍首脳だから仕方ないとして小西は別に中心でもないし
宇喜多みたいに激闘してるわけでもないしむしろやる気なかったというのに)
朝鮮だって講和にがんっばったのは宗と小西なのに
一方は清正公と神になり小西は墓すら残っていない・・・
230 : 人間七七四年 : 2008/06/27(金) 12:28:32 ID:RJNaq1Vn
・加藤清正は城に精通していたが、関が原合戦の際
主力を欠いた小西行景(行長の弟)の守る宇土城を落とせなかった
・しゃぼん玉の名付け親は石田三成
・戦国時代では合戦のとき基本的に馬から降りて戦っていた
主力を欠いた小西行景(行長の弟)の守る宇土城を落とせなかった
・しゃぼん玉の名付け親は石田三成
・戦国時代では合戦のとき基本的に馬から降りて戦っていた
235 : 232 : 2008/06/27(金) 17:24:13 ID:KrqzIiLY
池田和泉守。
荒木村重の家来で、頭をぶち抜いて自害したんだと。
勇気あるのか、チキンなのかよくわからん武将だなw
荒木村重の家来で、頭をぶち抜いて自害したんだと。
勇気あるのか、チキンなのかよくわからん武将だなw
236 : 人間七七四年 : 2008/06/28(土) 11:34:53 ID:xUUOVraW
伊達政宗は、健康のため、
規則正しく1日3回、朝昼晩
タバコを吸っていたwwwwww。
規則正しく1日3回、朝昼晩
タバコを吸っていたwwwwww。
237 : 人間七七四年 : 2008/06/28(土) 11:49:50 ID:xUUOVraW
もう2つ
明智光秀は、山崎の合戦の直前、
緊張のあまり、チマキを竹の皮ごと口に入れ
噛み切れないのにも気がつかなかった。
国宝「洛中洛外図」は
信長から謙信に送られたもの。
手取川の合戦以外は、そうとうに親密な関係にあった。
~おまけ~
上杉家(謙信時代)の収入源の中で
大きな割合を占めるのは、
港、関所、産物(塩、米など)に付けた
「取引税」
明智光秀は、山崎の合戦の直前、
緊張のあまり、チマキを竹の皮ごと口に入れ
噛み切れないのにも気がつかなかった。
国宝「洛中洛外図」は
信長から謙信に送られたもの。
手取川の合戦以外は、そうとうに親密な関係にあった。
~おまけ~
上杉家(謙信時代)の収入源の中で
大きな割合を占めるのは、
港、関所、産物(塩、米など)に付けた
「取引税」
238 : 人間七七四年 : 2008/06/28(土) 13:44:02 ID:tDC6r//j
少なくとも光秀のは創作
しかもそれは本能寺の変の直前であり
皮ごと食ったのもてんぱってたからではなく
はやる気を抑えるためとされている
しかもそれは本能寺の変の直前であり
皮ごと食ったのもてんぱってたからではなく
はやる気を抑えるためとされている
240 : 人間七七四年 : 2008/06/28(土) 23:21:15 ID:l4tiYESM
赤揃えで有名な山県昌景は身長130くらいしかなかった。
戦国でもかなり低い。
戦国でもかなり低い。
241 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 00:39:59 ID:RzneC1j3
>>240
小学生かよw
でもそんくらいじゃ当時の馬との相性抜群じゃん、
やっぱ武田の騎馬隊はあったかな?
小学生かよw
でもそんくらいじゃ当時の馬との相性抜群じゃん、
やっぱ武田の騎馬隊はあったかな?
242 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 01:39:40 ID:/V1y/yZ8
>>241
なかったと主張してるひともいるな。
論文よんだことないが・・・
俺としては、馬で単騎突っ込み大量の銃弾浴びてて落馬、死んだあとも采配を口にくわえたままだった。というエピソードが好きだった。
赤揃えは、後に井伊や真田も影響受けてるから、小さくても戦闘力高いオヤジだった。
なかったと主張してるひともいるな。
論文よんだことないが・・・
俺としては、馬で単騎突っ込み大量の銃弾浴びてて落馬、死んだあとも采配を口にくわえたままだった。というエピソードが好きだった。
赤揃えは、後に井伊や真田も影響受けてるから、小さくても戦闘力高いオヤジだった。
243 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 11:57:29 ID:wl/ZpQFb
フロイスが本国に送った手紙に
「日本では戦う時には馬を下りる。
日本の馬はほとんどがポニーで、体高120~130cmほどしかない」
と書かれている。
実際、戦場外れに「馬溜り」というものがあってそこに集められていた。
国産馬は山県昌景にはちょうどピッタリのサイズ。
「日本では戦う時には馬を下りる。
日本の馬はほとんどがポニーで、体高120~130cmほどしかない」
と書かれている。
実際、戦場外れに「馬溜り」というものがあってそこに集められていた。
国産馬は山県昌景にはちょうどピッタリのサイズ。
244 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 12:59:11 ID:3yHL5f50
>>243
念の為突っ込んでおくと
フロイスは、馬上戦闘の技術と習慣が無い西国武将しか見たことが無い上、
体長120~130のポニーは一般的な西洋騎士の騎馬と同レベル。
西洋騎士はあの程度の馬でプレートメイルランス突撃できてる。
山県なんて余裕だったはず。
念の為突っ込んでおくと
フロイスは、馬上戦闘の技術と習慣が無い西国武将しか見たことが無い上、
体長120~130のポニーは一般的な西洋騎士の騎馬と同レベル。
西洋騎士はあの程度の馬でプレートメイルランス突撃できてる。
山県なんて余裕だったはず。
245 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 13:35:21 ID:wl/ZpQFb
西洋のランスナイトの実態は分からないが、
武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100~150mでどの馬も
動かなくなってしまった。
騎馬突撃はムリだったんじゃないか?
という結論だったと記憶している。
当時西洋の馬は平均150cmだったと思うが
武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100~150mでどの馬も
動かなくなってしまった。
騎馬突撃はムリだったんじゃないか?
という結論だったと記憶している。
当時西洋の馬は平均150cmだったと思うが
246 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 14:02:31 ID:KNZvB1x3
>>245
> 武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
> 155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100~150mでどの馬も
> 動かなくなってしまった。
当たり前だ。どんな種類でも訓練を受けていない馬がいきなりそんなことが出来るか。
きちんと戦闘用の調教を受けて初めて軍馬になる。
> 武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
> 155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100~150mでどの馬も
> 動かなくなってしまった。
当たり前だ。どんな種類でも訓練を受けていない馬がいきなりそんなことが出来るか。
きちんと戦闘用の調教を受けて初めて軍馬になる。
248 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 19:31:53 ID:6dA/Uc6K
人間も訓練しなくちゃ役に立たないしな
犬だって訓練しないと警察犬にもなれない
殺し合いの場に突撃させられる馬なんて尚の事だな
犬だって訓練しないと警察犬にもなれない
殺し合いの場に突撃させられる馬なんて尚の事だな
249 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 20:10:45 ID:bJuciW3a
そもそも、そのサイズの馬がダメなら「モンゴル帝国なんか存在しなかった」と言い切れるw
250 : 人間七七四年 : 2008/06/29(日) 20:54:46 ID:aY486I4b
馬の体高とは…
馬の肩の高さ
以外に知らない人が居たりして驚く
馬の肩の高さ
以外に知らない人が居たりして驚く
252 : 人間七七四年 : 2008/06/30(月) 18:45:52 ID:8lwhKIVn
比叡山焼き討ちで5000~10000人を粛清した信長。
その感想を「誠に気を散じ候」(スゲーすっきりした)と手紙に書く。
どんだけだよ・・・
その感想を「誠に気を散じ候」(スゲーすっきりした)と手紙に書く。
どんだけだよ・・・
258 : 人間七七四年 : 2008/07/08(火) 14:48:10 ID:+YbUeYI+
騎馬隊で有名な武田軍であるが
全兵力における騎馬の割合は北条軍の方が多かった。
各家の着到状の比較で
全兵力における騎馬の割合は北条軍の方が多かった。
各家の着到状の比較で
264 : 人間七七四年 : 2008/08/28(木) 21:03:50 ID:+uoBmmQt
>>258みないのでいいなら、長篠の合戦時、実は信長より家康の方が鉄砲を
持っていた。
持っていた。
259 : 人間七七四年 : 2008/07/14(月) 10:51:04 ID:5QkDK6uy
越後の竜
甲斐の虎
でもって、北条氏康は相模の獅子っていうらしいよ。
覇王伝の武将ファイルに載ってた。
一般的かどうか知らん。
甲斐の虎
でもって、北条氏康は相模の獅子っていうらしいよ。
覇王伝の武将ファイルに載ってた。
一般的かどうか知らん。
361 : 人間七七四年 : 2009/09/22(火) 21:02:28 ID:VV4oDUr7
>>259
亀だが。
印章においては
その三家が入れ替わっている
(武田氏の龍印・上杉氏の獅子印・北条氏の虎印)
亀だが。
印章においては
その三家が入れ替わっている
(武田氏の龍印・上杉氏の獅子印・北条氏の虎印)
260 : 人間七七四年 : 2008/07/14(月) 20:54:31 ID:JRyxy9rI
まあ、あれだ。
バルバロッサ作戦当時の、ドイツ軍の戦車は三千輛程だったのに、ソ連は実は一万輛以上持ってたってのと、一緒だ。
バルバロッサ作戦当時の、ドイツ軍の戦車は三千輛程だったのに、ソ連は実は一万輛以上持ってたってのと、一緒だ。
261 : 人間七七四年 : 2008/07/15(火) 02:38:05 ID:AlKY6CLr
大阪の陣の開戦理由の一つとして上げられ、一般に、徳川によるこじつけ、とされる
「国家安康」「君臣豊楽」
実際は、撰文者である文英清韓が、まさに幕府が問題視した内容そのままに、意図的に織り込んだもの。
清韓自身が弁明書で証言していたりする(『摂戦実録』)
「国家安康」「君臣豊楽」
実際は、撰文者である文英清韓が、まさに幕府が問題視した内容そのままに、意図的に織り込んだもの。
清韓自身が弁明書で証言していたりする(『摂戦実録』)
262 : 人間七七四年 : 2008/07/19(土) 15:51:34 ID:ZaVGU0xd
>>261
それ、その二つがでかでかと書かれた鐘を想像してたら何百字もびっちり彫り込まれた
文章のうちのたった八文字で噴いた覚えがある
それ、その二つがでかでかと書かれた鐘を想像してたら何百字もびっちり彫り込まれた
文章のうちのたった八文字で噴いた覚えがある
263 : 人間七七四年 : 2008/08/27(水) 19:24:24 ID:sLDt5gGA
あげるぞー
みんなトリビアだすんだ!
戦国時代の農民は、搾取されてるイメージがあるが、実は超狂暴な存在。
農閑期にはいくさにアルバイト的にかかわり、敵国の住人を殺戮しまわった。
落武者狩りの凄まじさ
自軍からはぐれた武将が、農家を見つけ水と食べ物を貰う、よくありそうな話だが、実際はありえないらしい。
戦国時代の農民は決してカワイソウナ存在ではなかった。
みんなトリビアだすんだ!
戦国時代の農民は、搾取されてるイメージがあるが、実は超狂暴な存在。
農閑期にはいくさにアルバイト的にかかわり、敵国の住人を殺戮しまわった。
落武者狩りの凄まじさ
自軍からはぐれた武将が、農家を見つけ水と食べ物を貰う、よくありそうな話だが、実際はありえないらしい。
戦国時代の農民は決してカワイソウナ存在ではなかった。
264 : 人間七七四年 : 2008/08/28(木) 21:03:50 ID:+uoBmmQt
>>263
まあ、たくましく生きなきゃいけない時代だしな。
上に立つ大名も選んだとも言われている。
まあ、たくましく生きなきゃいけない時代だしな。
上に立つ大名も選んだとも言われている。
265 : 人間七七四年 : 2008/08/28(木) 22:38:21 ID:G4pZJsX6
そういえば信長の軍は他の戦国大名と比べても、銃の保持率が突出して高い、って訳じゃなかったんだよな。
長篠伝説のせいで変なイメージだけ一人歩きしてるけど。
長篠伝説のせいで変なイメージだけ一人歩きしてるけど。
266 : 人間七七四年 : 2008/08/31(日) 02:17:02 ID:3jDrzr8R
その長篠伝説は誰が創ったんだろうか。
当時から宣伝して、敵を威嚇してたのか・・・
それとも江戸時代か近現代の歴史学者か・・・
疑問は尽きないぜ。
当時から宣伝して、敵を威嚇してたのか・・・
それとも江戸時代か近現代の歴史学者か・・・
疑問は尽きないぜ。
267 : 人間七七四年 : 2008/08/31(日) 07:29:36 ID:g2CmWx2u
銃の保持率が評価されてるんじゃなくて、
銃を使った巧妙な戦術が評価されてるんじゃないのか?
馬防柵は実際あったでしょ
銃を使った巧妙な戦術が評価されてるんじゃないのか?
馬防柵は実際あったでしょ
271 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 06:36:43 ID:VhzdzqL7
>>267
また織田厨の織田信長を美化させるための説か。
「桶狭間の戦いの今川本隊の場所をなんらかの策略で信長は知ってて突撃したんじゃね?」
とかまえ見たが…本当にウザいな織田厨はw
また織田厨の織田信長を美化させるための説か。
「桶狭間の戦いの今川本隊の場所をなんらかの策略で信長は知ってて突撃したんじゃね?」
とかまえ見たが…本当にウザいな織田厨はw
282 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 23:19:00 ID:jbnpoTV5
>>267
残念だが、馬防柵は別に鉄砲の為に作ったのではないらしい。
家康が作ったとも言われている。危険地帯にいたのは家康だしね。
つか、勝頼の不可思議な突撃が勝敗の分かれ目で、別に鉄砲で勝ったわけでは
ないんだよね。
信長、家康が攻めていたわけだし、信長の戦術がどうのってわけでもないかと。
と、トレビアスレだったね。
信長の三段構えは有名だが、信長が最初に行ったわけではない。
残念だが、馬防柵は別に鉄砲の為に作ったのではないらしい。
家康が作ったとも言われている。危険地帯にいたのは家康だしね。
つか、勝頼の不可思議な突撃が勝敗の分かれ目で、別に鉄砲で勝ったわけでは
ないんだよね。
信長、家康が攻めていたわけだし、信長の戦術がどうのってわけでもないかと。
と、トレビアスレだったね。
信長の三段構えは有名だが、信長が最初に行ったわけではない。
284 : 人間七七四年 : 2008/09/02(火) 01:50:58 ID:Tkbq+lxZ
>>282
信長の三段構えって旧日本軍が応用したって聞いたな
明治陸軍は1発1発装填しないと撃てないからだってさ。
関ヶ原の戦いも研究してたみたいだ。
メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
信長の三段構えって旧日本軍が応用したって聞いたな
明治陸軍は1発1発装填しないと撃てないからだってさ。
関ヶ原の戦いも研究してたみたいだ。
メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
286 : 人間七七四年 : 2008/09/02(火) 10:54:18 ID:6hL/HelI
>>284
> メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
それ有名な都市伝説。メッケルにもメッケルに学んだ生徒からも、そんな事を言ったと言う証言は
一切存在しない。
> メッケルていう外人教官は即「イシダサンノカチダヨ」といったらしいが。
それ有名な都市伝説。メッケルにもメッケルに学んだ生徒からも、そんな事を言ったと言う証言は
一切存在しない。
311 : 人間七七四年 : 2008/09/24(水) 23:10:19 ID:5JRZ2Tfl
>>286
司馬さんが書いちゃったから、この国では事実になるw
司馬さんが書いちゃったから、この国では事実になるw
285 : 人間七七四年 : 2008/09/02(火) 09:45:21 ID:crBXjLyk
>>282
誰が最初に行ったの?
信長側近の福富平左衛門尉が考案したって言う説もあったりなかったりしたよね
誰が最初に行ったの?
信長側近の福富平左衛門尉が考案したって言う説もあったりなかったりしたよね
293 : 人間七七四年 : 2008/09/02(火) 22:12:01 ID:qB1Bm2gB
>>285
ゴメン。
そう言われるかと思って、資料探したんだけど出てこなかった。
なので、眉唾だと思ったら、信じなくてもいいよ。
ただ、確か西国の方で、西国は鉄砲の扱い方が進んでいたから、なるほどなぁ
と、妙に納得したのを憶えてる。
信長が三段構えを長篠の合戦で使用したっていう記述は確かまだ出てきていな
いよね。
が、信長の凄いところは、
①実際に鉄砲で勝ったわけでは無いが、鉄砲と言う道具を使用した。
②武田に勝った。
この二つの既成事実で、あの恐怖の武田騎馬隊(個人的にはまだあったと信用
してないけども)に新技術の鉄砲で勝ったと宣伝しまくり、信長スゲー!と思
わせた事なんじゃないかと思う。
高天神城戦なんかもそうだよね。
ゴメン。
そう言われるかと思って、資料探したんだけど出てこなかった。
なので、眉唾だと思ったら、信じなくてもいいよ。
ただ、確か西国の方で、西国は鉄砲の扱い方が進んでいたから、なるほどなぁ
と、妙に納得したのを憶えてる。
信長が三段構えを長篠の合戦で使用したっていう記述は確かまだ出てきていな
いよね。
が、信長の凄いところは、
①実際に鉄砲で勝ったわけでは無いが、鉄砲と言う道具を使用した。
②武田に勝った。
この二つの既成事実で、あの恐怖の武田騎馬隊(個人的にはまだあったと信用
してないけども)に新技術の鉄砲で勝ったと宣伝しまくり、信長スゲー!と思
わせた事なんじゃないかと思う。
高天神城戦なんかもそうだよね。
268 : 人間七七四年 : 2008/08/31(日) 11:07:01 ID:AkpVdDD0
大阪冬の陣の講和条約。内堀を埋めるのもちゃんと条件に入っていた。豊臣が他も別に抗議していない。
270 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 04:50:27 ID:t8ppktj7
>>268
あれ「そうぼり」ってかいてあって
大坂方は「惣堀(外堀のこと)」と解釈して
大阪城の外堀ってほとんど天然の川利用してるし
これはうめられないだろうからいいやっておもったけど
徳川は「総堀(すべての堀)」って解釈できるだろ?ってやって埋めたという
偉大なる神君の知略の勝利って習ったけど違うの?
あれ「そうぼり」ってかいてあって
大坂方は「惣堀(外堀のこと)」と解釈して
大阪城の外堀ってほとんど天然の川利用してるし
これはうめられないだろうからいいやっておもったけど
徳川は「総堀(すべての堀)」って解釈できるだろ?ってやって埋めたという
偉大なる神君の知略の勝利って習ったけど違うの?
273 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 10:20:18 ID:OqZOmtq7
>>270
最初っから全ての堀を埋めると言う話になってる。
内堀埋めるとき豊臣方も抗議していない、どころか、豊臣方からも工夫出してる。
最初っから全ての堀を埋めると言う話になってる。
内堀埋めるとき豊臣方も抗議していない、どころか、豊臣方からも工夫出してる。
277 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 14:05:14 ID:m/JZi8Xj
>>273
堀埋めについては、誓約状に書かれてないし、大阪側の資料も無いと思ったけど……
…元ネタはナニかな?
堀埋めについては、誓約状に書かれてないし、大阪側の資料も無いと思ったけど……
…元ネタはナニかな?
279 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 17:59:16 ID:OqZOmtq7
>>277
吉川弘文堂から出てる、笠谷和比古の「関ヶ原合戦と大坂の陣」に書いてあるよ。
吉川弘文堂から出てる、笠谷和比古の「関ヶ原合戦と大坂の陣」に書いてあるよ。
280 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 22:27:00 ID:m/JZi8Xj
>>279
笠谷和比古って、東日流外三郡誌に真作鑑定書出された方ですよね、、、、、
もし本をお持ちなら、その話の根拠になる一次資料書かれているとおもうので、
よければちょっと引用していただけませんか?
笠谷和比古って、東日流外三郡誌に真作鑑定書出された方ですよね、、、、、
もし本をお持ちなら、その話の根拠になる一次資料書かれているとおもうので、
よければちょっと引用していただけませんか?
281 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 22:58:25 ID:OqZOmtq7
>>280
ゴメン、今手元に無い。
ゴメン、今手元に無い。
295 : 人間七七四年 : 2008/09/03(水) 00:56:47 ID:ih8VIv8T
>>280
確認したが、こういうこと。
1:細川家と浅野家の、国元に送った書状に「講和条件としての堀埋め立ては内堀まで全て」と、明確に
書かれていること。
2:実際に埋め立ての作業をしていた大名のどんな記録にも、内堀の埋め立てに関しての、豊臣家からの
抗議があったと言う記録がないこと(櫓などの破壊についての抗議の記録は残っているのに)
3:巷説に、抗議する間もなくあっという間に埋め立てられたと言われる内堀の埋め立てだが、
実際この埋め立ては、内堀だけで一ヵ月半かかっており、もしこれが講和条件違反なら、その間に
豊臣家から抗議なり妨害なりが無いとおかしい事。(櫓の破壊ではやっている)
さらにいえば、「徳川による講和違反」という説の根拠になっている大阪の陣覚書などは全て、この時代より後世に
書かれたものであり、一次資料ではない。そして一次資料にはこれを講和違反とするものは一つもない。
よって、大阪城の内堀を埋めたのが徳川の謀略と言うのは後世の創作である。
確認したが、こういうこと。
1:細川家と浅野家の、国元に送った書状に「講和条件としての堀埋め立ては内堀まで全て」と、明確に
書かれていること。
2:実際に埋め立ての作業をしていた大名のどんな記録にも、内堀の埋め立てに関しての、豊臣家からの
抗議があったと言う記録がないこと(櫓などの破壊についての抗議の記録は残っているのに)
3:巷説に、抗議する間もなくあっという間に埋め立てられたと言われる内堀の埋め立てだが、
実際この埋め立ては、内堀だけで一ヵ月半かかっており、もしこれが講和条件違反なら、その間に
豊臣家から抗議なり妨害なりが無いとおかしい事。(櫓の破壊ではやっている)
さらにいえば、「徳川による講和違反」という説の根拠になっている大阪の陣覚書などは全て、この時代より後世に
書かれたものであり、一次資料ではない。そして一次資料にはこれを講和違反とするものは一つもない。
よって、大阪城の内堀を埋めたのが徳川の謀略と言うのは後世の創作である。
297 : 人間七七四年 : 2008/09/04(木) 01:01:02 ID:3ZnXfiI5
>>295
ありがとうございます!
1)は徳川の普請の割り当てだから微妙としても、
2)3)(二の丸の堀を千貫櫓と織田有楽、大野治長の屋敷を壊しでうめた)は確かにそうですよね。
納得しました。
ありがとうございます!
1)は徳川の普請の割り当てだから微妙としても、
2)3)(二の丸の堀を千貫櫓と織田有楽、大野治長の屋敷を壊しでうめた)は確かにそうですよね。
納得しました。
296 : 人間七七四年 : 2008/09/03(水) 05:53:19 ID:pEdV/L5/
へー勉強になった
>>280ではないが、感謝感謝
>>280ではないが、感謝感謝
269 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 04:13:23 ID:OqZOmtq7
信長の有名な「天下布武」
じつはこの「天下」の範囲、畿内周辺に限られたものだった。
その証拠に信長、六角や三好を追い払った時点で、「天下静謐」を宣言している。
じつはこの「天下」の範囲、畿内周辺に限られたものだった。
その証拠に信長、六角や三好を追い払った時点で、「天下静謐」を宣言している。
276 : 人間七七四年 : 2008/09/01(月) 13:03:37 ID:WhldsxV8
>>269
ギャハハw
ギャハハw
287 : 人間七七四年 : 2008/09/02(火) 12:46:00 ID:fk3HB0Ij
第一に、
“長篠の戦いでの織田軍の鉄砲三段構え”など
“戦国最強武田騎馬軍団”と同様にとっくの昔に説破された通説であることについて…
こんな通説を信じてる奴がいるとは驚きだ。
“長篠の戦いでの織田軍の鉄砲三段構え”など
“戦国最強武田騎馬軍団”と同様にとっくの昔に説破された通説であることについて…
こんな通説を信じてる奴がいるとは驚きだ。
288 : 人間七七四年 : 2008/09/02(火) 12:49:06 ID:6hL/HelI
>>287
武田騎馬軍団は最近またその存在がきちんと認識されているよ。
敵側が武田の騎馬対を恐れていたことも。
半端な知識で人を馬鹿にすると自分に返ってくるぜ?
武田騎馬軍団は最近またその存在がきちんと認識されているよ。
敵側が武田の騎馬対を恐れていたことも。
半端な知識で人を馬鹿にすると自分に返ってくるぜ?
291 : 人間七七四年 : 2008/09/02(火) 17:57:45 ID:crBXjLyk
え?だれが信じてるって?
福富のくだりならそういう説を出してきてるやつもいたなあっていう記憶を辿っただけだけど
しかも「まーた~」は直前の>>288に向けていったんだよ
まあ色々誤解するような書き方してすまん
福富のくだりならそういう説を出してきてるやつもいたなあっていう記憶を辿っただけだけど
しかも「まーた~」は直前の>>288に向けていったんだよ
まあ色々誤解するような書き方してすまん
292 : 人間七七四年 : 2008/09/02(火) 18:52:45 ID:fk3HB0Ij
>>291
勘違いすみません。
我ながら顔真っ赤ですw
勘違いすみません。
我ながら顔真っ赤ですw
298 : 人間七七四年 : 2008/09/05(金) 14:48:16 ID:pkMeJIpz
戦国のちょっと後の話だが…
承応元年(1652)、近江で、お茶に桑の葉を混ぜて売ると言う食品偽装事件が起こって、茶の価格が下落。
農民が要請して偽装禁止の法律が執行されてたりする。
もう少し時代が下って正徳二年(1717)、今度は特産の柿の偽装事件が発覚。今度も農民側の要請により
これを規制する「柿法度極の事」と言う法律が執行されたりしている。
近世初期になると既に、今の世とあまり変わらないね、と言うお話。
承応元年(1652)、近江で、お茶に桑の葉を混ぜて売ると言う食品偽装事件が起こって、茶の価格が下落。
農民が要請して偽装禁止の法律が執行されてたりする。
もう少し時代が下って正徳二年(1717)、今度は特産の柿の偽装事件が発覚。今度も農民側の要請により
これを規制する「柿法度極の事」と言う法律が執行されたりしている。
近世初期になると既に、今の世とあまり変わらないね、と言うお話。
299 : 人間七七四年 : 2008/09/06(土) 18:14:01 ID:y6tdixCV
文禄二年(1594)
原田孫七郎が高山国(台湾)に、入貢を促す使者として渡海。
しかし、台湾の原住民族高砂族は統一した政権を持っておらず、入貢させる相手が見つけられないまま、
孫七郎帰国。
原田孫七郎が高山国(台湾)に、入貢を促す使者として渡海。
しかし、台湾の原住民族高砂族は統一した政権を持っておらず、入貢させる相手が見つけられないまま、
孫七郎帰国。
300 : 人間七七四年 : 2008/09/10(水) 00:08:55 ID:q4JQeDWc
毛利元就の謀略により、内通の噂を流され、陶晴賢に殺されたとされる江良房栄。
実は本当に元就と通じていた。
実は本当に元就と通じていた。
301 : 人間七七四年 : 2008/09/10(水) 14:42:02 ID:q4JQeDWc
江戸期の越前では、まとまらない会議を、「小田原評定」のような形で、朝倉義景から、「義景相談」と言った
302 : 人間七七四年 : 2008/09/10(水) 19:15:30 ID:q4JQeDWc
永禄十二年、フロイスが信長にバナナを献上。これが日本で最も古いバナナの記録。
303 : 人間七七四年 : 2008/09/18(木) 18:26:24 ID:c1LMZO2f
信長がやったことで有名な比叡山焼き討ち
実は信長の前に、足利義教と細川政元もやっている。
京の治安維持上必要があった場合、比叡山などの宗教勢力を攻める事は、
室町幕府の権能の一つとして、認められていたものらしい。
アレを信長の無神論とか政教分離とかにつなげるのは、完全な過大評価であろう。
ついでに信長は、幕府の官職に付かずに天下をコントロールしようとした事など、細川政元の施策を
真似していた節がある。
実は信長の前に、足利義教と細川政元もやっている。
京の治安維持上必要があった場合、比叡山などの宗教勢力を攻める事は、
室町幕府の権能の一つとして、認められていたものらしい。
アレを信長の無神論とか政教分離とかにつなげるのは、完全な過大評価であろう。
ついでに信長は、幕府の官職に付かずに天下をコントロールしようとした事など、細川政元の施策を
真似していた節がある。
304 : 人間七七四年 : 2008/09/19(金) 11:27:39 ID:3vafLjj0
通説に、古代中国、周の故事に習い、信長が天下統一の意思を込めて命名したと言われる『岐阜』 実は、「木曽川のほとり」と言う意味の地名。しかも信長以前から呼ばれていた。
305 : 人間七七四年 : 2008/09/19(金) 13:30:45 ID:0bCN2BLk
大坂城の堀埋めの話。
大坂城で、秀吉が家康と酒宴を行なった時。
秀吉は上機嫌で「この城は誰にも落とせん」と言った。
家康「では殿下でも無理ですか?」
秀吉「わしならすぐ落とせる」
家康「ほう!それはどのようにして?」
秀吉「それはな、・・・・・・・・」
堀を全部生めて丸裸にするのはこの時の話から。
家康は後に大坂の陣に関して「太閤こそ我が師匠だ」と語った。
大坂城で、秀吉が家康と酒宴を行なった時。
秀吉は上機嫌で「この城は誰にも落とせん」と言った。
家康「では殿下でも無理ですか?」
秀吉「わしならすぐ落とせる」
家康「ほう!それはどのようにして?」
秀吉「それはな、・・・・・・・・」
堀を全部生めて丸裸にするのはこの時の話から。
家康は後に大坂の陣に関して「太閤こそ我が師匠だ」と語った。
306 : 人間七七四年 : 2008/09/19(金) 13:47:07 ID:3vafLjj0
>>305
それ講談話
それ講談話
308 : 人間七七四年 : 2008/09/20(土) 03:13:10 ID:xYIlr4zw
有名な、山内一豊の妻の、名馬をへそくりで買ったという美談
この逸話を「藩翰譜」の中で紹介したのは新井白石だが、白石自身このエピソードの最後に、
「本当かねえ?」と書き、真偽を疑っている。
この逸話を「藩翰譜」の中で紹介したのは新井白石だが、白石自身このエピソードの最後に、
「本当かねえ?」と書き、真偽を疑っている。
309 : 人間七七四年 : 2008/09/21(日) 13:57:36 ID:HOt3yzBh
>>308
当時の一豊の知行は400石=今の金に換算して年収4000万円。
へそくりは約100万円。
事実は貧乏で買えないのではなく、将達の中に混じっても目立つための小道具に苦慮していた一豊に、
ちよがへそくりをプラスして南蛮の時計を買ってあげた。
一豊は馬揃えの日、首から時計を提げて、信長の目を引いた。
当時の一豊の知行は400石=今の金に換算して年収4000万円。
へそくりは約100万円。
事実は貧乏で買えないのではなく、将達の中に混じっても目立つための小道具に苦慮していた一豊に、
ちよがへそくりをプラスして南蛮の時計を買ってあげた。
一豊は馬揃えの日、首から時計を提げて、信長の目を引いた。
310 : 人間七七四年 : 2008/09/21(日) 18:58:57 ID:yTZbQhDs
でも武士の知行って本人丸取りじゃなくて
部下の給与もそこから払うわけだから貧乏ではあったんじゃないの?
部下の給与もそこから払うわけだから貧乏ではあったんじゃないの?
317 : 人間七七四年 : 2008/09/26(金) 14:39:50 ID:QnRZPqm6
戦国最強は首切り茂吉と言う農民だったらしい。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
319 : 人間七七四年 : 2008/09/27(土) 23:12:07 ID:K6+YvsiR
>>317
>秋だし狩ろうかな
どこのホラー映画だよw
>秋だし狩ろうかな
どこのホラー映画だよw
320 : 人間七七四年 : 2008/09/28(日) 17:54:02 ID:qNjTxpRl
>>317
>ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
じゃあ可児才蔵が最強じゃねーか
>ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
じゃあ可児才蔵が最強じゃねーか
341 : 人間七七四年 : 2008/10/31(金) 13:39:55 ID:fwKJ0yIr
>>320
ちょww
ちょww
322 : 人間七七四年 : 2008/09/29(月) 14:23:25 ID:N4IOjbb5
戦国時代の鉄砲の弾丸。
形や大きさに、用途に応じた30以上の種類があった。
形や大きさに、用途に応じた30以上の種類があった。
323 : 人間七七四年 : 2008/10/28(火) 01:12:14 ID:j+Fdfr9L
戦国時代の最近否定された説
・応仁の乱の原因は日野富子の策謀
・素浪人北条早雲
・桶狭間は奇襲
・長篠の鉄砲三段撃ち
・本能寺陰謀論
・賤ヶ岳の敗因は佐久間
・三成が家康の下に逃げ込んだ
・方広寺鐘銘事件は無理やりの難癖
・大阪城内堀埋め立ては徳川の陰謀
こんなところか?
・応仁の乱の原因は日野富子の策謀
・素浪人北条早雲
・桶狭間は奇襲
・長篠の鉄砲三段撃ち
・本能寺陰謀論
・賤ヶ岳の敗因は佐久間
・三成が家康の下に逃げ込んだ
・方広寺鐘銘事件は無理やりの難癖
・大阪城内堀埋め立ては徳川の陰謀
こんなところか?
333 : 人間七七四年 : 2008/10/29(水) 11:47:04 ID:82CUTaU6
>>323
上杉謙信男性説
上杉謙信男性説
325 : 人間七七四年 : 2008/10/29(水) 00:03:44 ID:H31Aixsz
信長が相撲好きで、相撲大会で活躍した人間に褒美を与えたり取り立てたりしたけど、
実は家臣に取り立てた相撲取りは全員、もともと武士身分だったそうで。
実は家臣に取り立てた相撲取りは全員、もともと武士身分だったそうで。
327 : 人間七七四年 : 2008/10/29(水) 00:37:35 ID:+axsXlWx
日本人が使ってた鉄砲は、戦闘用でなく狩猟用の鳥銃だった。しかも保有量は世界一
有名な話かな?
有名な話かな?
329 : 人間七七四年 : 2008/10/29(水) 00:43:01 ID:yZceESOW
>>327
違います
違います
334 : 人間七七四年 : 2008/10/29(水) 13:56:15 ID:H31Aixsz
そういえば明智光秀が野心家の奸臣ってフロイスの評論は、結構広まってるけど、
同じフロイスの
> 堺の代官になった彼の伴侶は佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を
> 快しとしないジョウチン(小西立佐)の大敵でもあり、キリシタンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で
> 傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物である。
この三成評はあまり知られてないな。
同じフロイスの
> 堺の代官になった彼の伴侶は佐吉殿(石田三成)と称する関白殿の家臣であり、関白の暴政を
> 快しとしないジョウチン(小西立佐)の大敵でもあり、キリシタンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で
> 傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物である。
この三成評はあまり知られてないな。
336 : 人間七七四年 : 2008/10/29(水) 21:25:26 ID:82CUTaU6
どう考えてもそれはフロイスの私情入りまくり
345 : 人間七七四年 : 2009/02/24(火) 17:48:54 ID:aKDk8bFV
戦国時代の日本はオスマン帝国に武器を輸出していたほどの軍需産業国家
352 : 人間七七四年 : 2009/03/01(日) 11:51:58 ID:BqpFSaFa
>>345
本当に?
鉄砲を輸出してたのかな。
オスマンなら遠くの日本より、ヨーロッパの方が早く調達できそうだけど、
敵対関係にあったから貿易できなかったとか?
本当に?
鉄砲を輸出してたのかな。
オスマンなら遠くの日本より、ヨーロッパの方が早く調達できそうだけど、
敵対関係にあったから貿易できなかったとか?
356 : 人間七七四年 : 2009/07/22(水) 07:17:26 ID:bScwBlEY
>>352
宗教内の対立(カvsプ)からフランスとオスマンが同盟を組んで帝国を攻めたこともあるよ
宗教内の対立(カvsプ)からフランスとオスマンが同盟を組んで帝国を攻めたこともあるよ
357 : 人間七七四年 : 2009/07/22(水) 07:42:35 ID:dtK6YOJI
>>356
30年戦争のことなら、宗教内の対立ではないぞ。
ブルボン家 vs ハプスブルク家という文脈で見るべき。
なんせ、カトリックを信仰していたブルボン家のフランス王国は新教側で参戦して
ハプスブルク家の皇帝軍と対峙したわけで。
30年戦争のことなら、宗教内の対立ではないぞ。
ブルボン家 vs ハプスブルク家という文脈で見るべき。
なんせ、カトリックを信仰していたブルボン家のフランス王国は新教側で参戦して
ハプスブルク家の皇帝軍と対峙したわけで。
346 : 人間七七四年 : 2009/02/24(火) 23:36:25 ID:8Kgw3bad
亀井琉球守これ矩の旧姓は『湯』(漢字変換不可)
349 : 人間七七四年 : 2009/02/28(土) 19:51:02 ID:KquK5l2K
伊達正宗の騎馬鉄砲隊は 実際に射撃するときは下馬して射撃した(98へェ確実)
350 : 人間七七四年 : 2009/02/28(土) 20:08:12 ID:dydYZe/Y
大阪の陣で馬上からぶっ放してた記録があるがな
362 : 人間七七四年 : 2009/09/23(水) 00:42:08 ID:z+XPqpoe
謙信の旗印に「龍」字旗があった気が
363 : 人間七七四年 : 2009/09/24(木) 00:21:23 ID:3pDvVTx6
旗印の龍が不動明王を表しているってのは本当なんだろうかね?
毘沙門天の旗や飯縄権現の兜もあるんだしおかしくはないとは思うが
毘沙門天の旗や飯縄権現の兜もあるんだしおかしくはないとは思うが
364 : 人間七七四年 : 2009/11/13(金) 01:41:32 ID:UYTLGV5/
室町幕府には、「会議」が存在しなかった。
基本的にみんなが顔を合わせる、と言うことが無く、何か懸案があった場合、書状や書類が
関係者の間をめぐって、なんとなく方向性が決まる、という方式だった。
基本的にみんなが顔を合わせる、と言うことが無く、何か懸案があった場合、書状や書類が
関係者の間をめぐって、なんとなく方向性が決まる、という方式だった。
365 : 人間七七四年 : 2009/11/29(日) 08:20:02 ID:QoN/MMV5
何でもメールで物事を済ますみたいだな。
366 : 人間七七四年 : 2009/11/30(月) 03:04:58 ID:6pwbTB9p
同じ室町時代なのに、鎌倉府のほうには月二回だかの、鎌倉公方以下、関東管領
や重臣達を集めた衆議があったんだよな。不思議だ。
や重臣達を集めた衆議があったんだよな。不思議だ。
367 : 人間七七四年 : 2009/12/02(水) 23:53:29 ID:gEOmb4v1
まあ昔からフォッサマグナの西と東で文化が全然異なるからな。
368 : 人間七七四年 : 2009/12/17(木) 16:43:42 ID:p5JiIjIq
伊達政宗が建造させた日本初の国産西洋型軍艦サン・ファン・バウティスタ号は
欧州から帰国途中のフィリピンで、オランダとの戦争準備に追われていた現地総督の要請により
イスパニア艦隊に売却編入、使節団長の支倉常長らは別の船で帰国した。
その後のバウティスタ号の消息は不明。
後のフィリピンでのオランダとの海戦にイスパニア艦隊が敗れたことから
バウティスタ号も撃沈された可能性は高い。
欧州から帰国途中のフィリピンで、オランダとの戦争準備に追われていた現地総督の要請により
イスパニア艦隊に売却編入、使節団長の支倉常長らは別の船で帰国した。
その後のバウティスタ号の消息は不明。
後のフィリピンでのオランダとの海戦にイスパニア艦隊が敗れたことから
バウティスタ号も撃沈された可能性は高い。
369 : 人間七七四年 : 2009/12/17(木) 17:04:01 ID:p5JiIjIq
戦国時代に瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍のうち
毛利家に臣従した因島村上氏のほうは関が原の戦の後も毛利家に仕え、
長州の船手組(海上警備や海路の参勤交代の担い手)となった。
いっぽう、来島村上氏のほうは豊臣秀吉に臣従して一時は独立大名となるも
徳川幕府の時代になると山奥の豊後玖珠郡(現・大分県玖珠町と九重町)に転封、
完全に海から遠ざけられてしまった。
毛利家に臣従した因島村上氏のほうは関が原の戦の後も毛利家に仕え、
長州の船手組(海上警備や海路の参勤交代の担い手)となった。
いっぽう、来島村上氏のほうは豊臣秀吉に臣従して一時は独立大名となるも
徳川幕府の時代になると山奥の豊後玖珠郡(現・大分県玖珠町と九重町)に転封、
完全に海から遠ざけられてしまった。
371 : 人間七七四年 : 2009/12/18(金) 16:22:41 ID:6hc6ZMdT
>>369
来島氏は、山の中に池を造って、そこで昔を偲んでお船遊びをした。
来島氏は、山の中に池を造って、そこで昔を偲んでお船遊びをした。
370 : 人間七七四年 : 2009/12/17(木) 17:17:43 ID:p5JiIjIq
稲葉山城を失い美濃を追放された斎藤龍興は
その後も長島一向一揆、三次三人衆、朝倉義景などとの同盟や保護のもと
信長に執拗な抵抗を続けたが、信長に攻められた浅井長政を支援するため
朝倉義景と共に参戦した一乗谷城の戦いで戦死。
彼を討ち取ったのは氏家卜全の長男直昌だといわれる。
その後も長島一向一揆、三次三人衆、朝倉義景などとの同盟や保護のもと
信長に執拗な抵抗を続けたが、信長に攻められた浅井長政を支援するため
朝倉義景と共に参戦した一乗谷城の戦いで戦死。
彼を討ち取ったのは氏家卜全の長男直昌だといわれる。
372 : 人間七七四年 : 2009/12/20(日) 07:18:00 ID:DaOt8adZ
真田幸村の大阪の陣での家紋は六連銭ではなく、赤地に金線。
徳川方にいた本家への配慮だといわれる。
徳川方にいた本家への配慮だといわれる。
373 : 人間七七四年 : 2010/02/20(土) 13:27:16 ID:YLM7jZvg
このころの寺社は集めた金でお金を貸していた(祠堂銭)のでしばしば一揆の標的にされた。
江戸時代の打ち壊しのような悪徳者を狙う同情の余地があるものだったが
土一揆は単に略奪したいから金持ちを狙うだけの同情の余地が無いものだった。
金利が安い良心的な寺社でも狙われるので
そういったものから守るために寺社は堀や石垣などで防御していた。
有事の際は地方領主が寺社を城がわりに利用したので寺社はもっとも血なまぐさい場所だった。
江戸時代の打ち壊しのような悪徳者を狙う同情の余地があるものだったが
土一揆は単に略奪したいから金持ちを狙うだけの同情の余地が無いものだった。
金利が安い良心的な寺社でも狙われるので
そういったものから守るために寺社は堀や石垣などで防御していた。
有事の際は地方領主が寺社を城がわりに利用したので寺社はもっとも血なまぐさい場所だった。
374 : 人間七七四年 : 2010/02/24(水) 04:31:42 ID:drpOKt5v
武士の誕生から、一騎打ちは極めて稀で特殊な状況でのみ行われた。
平安時代から武士の戦術は、集団で敵を取り囲み、大量の矢を射掛けて相手を針坊主に
して殲滅するのが基本。
当然元寇の時もこれをやり、元の軍隊は上陸拠点を作ることすら出来ないほど
武士の戦術に翻弄された。
平安時代から武士の戦術は、集団で敵を取り囲み、大量の矢を射掛けて相手を針坊主に
して殲滅するのが基本。
当然元寇の時もこれをやり、元の軍隊は上陸拠点を作ることすら出来ないほど
武士の戦術に翻弄された。
375 : 人間七七四年 : 2010/02/25(木) 17:14:58 ID:0gRvz+Ak
ノーベル化学賞で有名になった島津製作所の創業者・島津源三は、
戦国大名の島津氏と直接血縁関係はない。
彼の先祖の井上惣兵衛が、秀吉から島津義弘に与えられた領地に住んでいた時に
領地検分の世話をした功績として島津姓と島津家紋を貰ったのが始まりとされる。
(関が原の戦で敗れ、撤退中の島津義弘を援助した際の褒美の説も有る)
戦国大名の島津氏と直接血縁関係はない。
彼の先祖の井上惣兵衛が、秀吉から島津義弘に与えられた領地に住んでいた時に
領地検分の世話をした功績として島津姓と島津家紋を貰ったのが始まりとされる。
(関が原の戦で敗れ、撤退中の島津義弘を援助した際の褒美の説も有る)
376 : 人間七七四年 : 2010/02/27(土) 16:20:49 ID:wHinKBLb
「一向一揆」と言う言葉は江戸期、しかも18世紀になってから作られた言葉だと言う事。
同時代的にはただ単に「一揆」もしくは「土一揆」としか呼んでいないこと。
同時代的にはただ単に「一揆」もしくは「土一揆」としか呼んでいないこと。
378 : 人間七七四年 : 2010/04/15(木) 17:44:52 ID:lMY6nLDS
八王子城を作った技術者達が、築城前に安土城の視察を行っていたこと。
379 : 人間七七四年 : 2010/07/14(水) 17:14:24 ID:cvsDNaOh
奥州北部の戦国大名、南部晴政の娘達は それぞれ九戸の乱で活躍した南部家臣、東朝政、南盛義、北秀愛に嫁いでいる。
南部の家臣に、西という一族もちゃんといたようだが、
活躍しなかったのか、すでに断続していたのか…痛恨のグランドスラム失敗である。
南部の家臣に、西という一族もちゃんといたようだが、
活躍しなかったのか、すでに断続していたのか…痛恨のグランドスラム失敗である。
380 : 人間七七四年 : 2010/08/14(土) 04:15:57 ID:07eMyMEn
良スレ
382 : 人間七七四年 : 2011/01/24(月) 11:09:29 ID:SCVr6VIM
八重洲の地名の由来にもなったヤン・ヨーステンは
オランダに帰ろうとしたが、ジャワでの帰国手続がはかどらず帰国を断念。
いったん日本に戻る途中のインドシナで船が難破して溺死した
オランダに帰ろうとしたが、ジャワでの帰国手続がはかどらず帰国を断念。
いったん日本に戻る途中のインドシナで船が難破して溺死した
385 : 人間七七四年 : 2011/01/27(木) 09:35:02 ID:psRMjVs8
戦国時代の馬の体系はポニーやモウコノウマみたいな寸詰まりで、蹄鉄使用は幕末以降。
まぁこれは有名か
まぁこれは有名か
386 : 人間七七四年 : 2011/01/27(木) 11:18:07 ID:I9P1dmMH
>>385
蹄鉄と馬の運動に関係はないこと
蹄鉄と馬の運動に関係はないこと
387 : 人間七七四年 : 2011/01/27(木) 17:37:50 ID:psRMjVs8
>>386
えっ?蹄鉄付けないとヒヅメが減って長距離を歩けなくなるんじゃないの?
それで幕末までは馬に草鞋を履かせてたとか何とか。
山中鹿之助の息子は武士をやめたあと酒造業でお金持ちになり、
のちの鴻池財閥のもとになった。
えっ?蹄鉄付けないとヒヅメが減って長距離を歩けなくなるんじゃないの?
それで幕末までは馬に草鞋を履かせてたとか何とか。
山中鹿之助の息子は武士をやめたあと酒造業でお金持ちになり、
のちの鴻池財閥のもとになった。
388 : 人間七七四年 : 2011/01/27(木) 17:49:06 ID:I9P1dmMH
蹄鉄に関しては年来、生理学的な視点から検討されてきた。
野生馬と、遊牧などの自然環境で飼育された馬はそもそも蹄など必要としないことが分かっている。
しかし長年の馬小屋での飼育方法と蹄鉄の伝統は、これらの見解によっても容易に変化するものではない。
これらの研究で特に大きな影響があったのはジェイム・ジャクソン、およびヒルトラド・シュトラッサー博士である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B9%84%E9%89%84#.E8.B9.84.E9.89.84.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E6.96.B0.E3.81.9F.E3.81.AA.E8.A6.8B.E8.A7.A3
家畜の馬が蹄鉄を必要とするほど蹄が弱くなる原因に
湿気やアンモニアに蹄が晒され続けることが挙げられますが
武士の厩は床を板敷にし、頻繁に掃除を行うことで馬の足元を清潔に保ち
蹄が劣化することを防いでいます。
当時の厩は馬の目の前で各々が寛ぎながら歓談する、ちょっとしたサロンでした
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/gadan/naoki/naoki.htm
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/past/theme/0801/24.html
野生馬と、遊牧などの自然環境で飼育された馬はそもそも蹄など必要としないことが分かっている。
しかし長年の馬小屋での飼育方法と蹄鉄の伝統は、これらの見解によっても容易に変化するものではない。
これらの研究で特に大きな影響があったのはジェイム・ジャクソン、およびヒルトラド・シュトラッサー博士である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B9%84%E9%89%84#.E8.B9.84.E9.89.84.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E6.96.B0.E3.81.9F.E3.81.AA.E8.A6.8B.E8.A7.A3
家畜の馬が蹄鉄を必要とするほど蹄が弱くなる原因に
湿気やアンモニアに蹄が晒され続けることが挙げられますが
武士の厩は床を板敷にし、頻繁に掃除を行うことで馬の足元を清潔に保ち
蹄が劣化することを防いでいます。
当時の厩は馬の目の前で各々が寛ぎながら歓談する、ちょっとしたサロンでした
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/gadan/naoki/naoki.htm
http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/past/theme/0801/24.html
389 : 人間七七四年 : 2011/01/27(木) 19:34:02 ID:jIIRKYdP
戦国時代の主力兵器は槍だった 刀は使うと痛むので使わなかった
390 : 人間七七四年 : 2011/01/27(木) 21:22:26 ID:H2QejCCF
>>389
それも不正確だな。つーか、痛むのがやだから使わないわけじゃねーよ。単純に野戦では槍より役に立たないからだ。
主兵装は弓・鉄砲・投石だな、死傷者の原因から考えると。
それも不正確だな。つーか、痛むのがやだから使わないわけじゃねーよ。単純に野戦では槍より役に立たないからだ。
主兵装は弓・鉄砲・投石だな、死傷者の原因から考えると。
391 : 人間七七四年 : 2011/01/27(木) 22:50:21 ID:AdE/I6zM
>>389
日本の記録でも宣教師の記録でも、最初は弓鉄砲での打ち合い、もう少し近づくと
槍でのせめぎ合い、最後は刀での接近戦、となっている。
戦場で使わないものをわざわざ持っていくような馬鹿じゃないよ武士は。
お前と違ってな。
日本の記録でも宣教師の記録でも、最初は弓鉄砲での打ち合い、もう少し近づくと
槍でのせめぎ合い、最後は刀での接近戦、となっている。
戦場で使わないものをわざわざ持っていくような馬鹿じゃないよ武士は。
お前と違ってな。
392 : 人間七七四年 : 2011/01/28(金) 01:59:19 ID:uD/DQhxQ
最近真偽を疑われている信玄と謙信の一騎打ちは史実
393 : あ : 2011/01/28(金) 03:27:19 ID:MQeZR5nj
神社から兵を良く借りた。信長が桶狭間の時に熱田神宮に寄ったのもこのため。
信仰心とは関係無い。
信仰心とは関係無い。
398 : 人間七七四年 : 2011/02/04(金) 18:59:15 ID:4NexGgh4
>>393
まぁ当時の村の神主や僧といったら当地の顔役兼インテリだろうしな。
今でも途上国の村の神父とか呪術師なんかそうだし
陶晴賢は大内義隆を討った後、甥の大内義長を名目上の後継者に立てていたが、
厳島の戦いで陶晴賢が毛利軍に敗れるとその翌々年に毛利軍に城を包囲され
義長は自害。大内氏はここに滅亡した。
まぁ当時の村の神主や僧といったら当地の顔役兼インテリだろうしな。
今でも途上国の村の神父とか呪術師なんかそうだし
陶晴賢は大内義隆を討った後、甥の大内義長を名目上の後継者に立てていたが、
厳島の戦いで陶晴賢が毛利軍に敗れるとその翌々年に毛利軍に城を包囲され
義長は自害。大内氏はここに滅亡した。
394 : 人間七七四年 : 2011/01/28(金) 10:47:19 ID:7HtiIcBP
戦国時代といえば下克上だが、京都から遠く離れた東北・九州などでは
もともと鎌倉時代から大きな勢力基盤があった守護・守護代からの名門大名が
近隣の中小勢力を吸収、征服してさらに大きくなったケースがほとんど。
もともと鎌倉時代から大きな勢力基盤があった守護・守護代からの名門大名が
近隣の中小勢力を吸収、征服してさらに大きくなったケースがほとんど。
400 : 人間七七四年 : 2011/02/08(火) 22:52:12 ID:+8NS0k3d
馬場六太夫という人物の両親は秋山信友と女城主おつやの方
404 : 人間七七四年 : 2011/02/10(木) 21:34:43 ID:T7u6S46E
>>400
信長が開城条件の約束破って岩村城の兵士や領民を虐殺した理由は
単なる騙し討ちではなく
秋山と女城主の子供(馬場六太夫)が見つからなかった腹いせらしいな
いくら問い詰めても拷問しても逆さ磔しても秋山夫婦は子供の居場所を絶対に言わなかったらしい
信長が開城条件の約束破って岩村城の兵士や領民を虐殺した理由は
単なる騙し討ちではなく
秋山と女城主の子供(馬場六太夫)が見つからなかった腹いせらしいな
いくら問い詰めても拷問しても逆さ磔しても秋山夫婦は子供の居場所を絶対に言わなかったらしい
401 : 人間七七四年 : 2011/02/08(火) 23:31:14 ID:npHsdNCx
桶狭間で今川義元を討ち取った毛利新助は、
その後信長の精鋭部隊の黒母衣衆、旗本と昇進。
本能寺の変では織田信忠とともに二条城で奮戦の末、戦死した。
いっぽう、義元を討ちそこねた服部小平太のほうは、信長死後
秀吉の精鋭部隊の黄母衣衆になり、養子秀次の家来となるも
秀次失脚で連座、切腹させられた。
その後信長の精鋭部隊の黒母衣衆、旗本と昇進。
本能寺の変では織田信忠とともに二条城で奮戦の末、戦死した。
いっぽう、義元を討ちそこねた服部小平太のほうは、信長死後
秀吉の精鋭部隊の黄母衣衆になり、養子秀次の家来となるも
秀次失脚で連座、切腹させられた。
402 : 人間七七四年 : 2011/02/09(水) 00:16:25 ID:X0mxwbZ7
鬼武蔵として恐れられた森長可は
弟蘭丸を本能寺の変で討ち取った安田作兵衛を
「武功は武功」と周囲の反対を押し切って召抱えた。
弟蘭丸を本能寺の変で討ち取った安田作兵衛を
「武功は武功」と周囲の反対を押し切って召抱えた。
403 : 人間七七四年 : 2011/02/09(水) 00:34:53 ID:X0mxwbZ7
松永久秀は三次三人衆と戦争中に
クリスマス休戦を戦国時代で初めて提案した。
また彼は初めて火薬による自爆で最期を遂げた戦国武将でもある。
クリスマス休戦を戦国時代で初めて提案した。
また彼は初めて火薬による自爆で最期を遂げた戦国武将でもある。
406 : 人間七七四年 : 2011/03/02(水) 22:27:32.57 ID:d4it1fyc
イエズス会は、現在も存続している。
会員数は約2万人。現存するカトリック系男子修道会では二番目に多い。
現在の総長をつとめているアドルフォ・ニコラス神父は、
上智大で教鞭をとっていたことがある。
会員数は約2万人。現存するカトリック系男子修道会では二番目に多い。
現在の総長をつとめているアドルフォ・ニコラス神父は、
上智大で教鞭をとっていたことがある。
407 : 人間七七四年 : 2011/03/02(水) 23:02:50.24 ID:d4it1fyc
安土城は、山崎の戦いでの本丸・天守閣焼失後も
残った二の丸が織田家の居城としてしばらく利用されていた。
だが豊臣秀吉の養子秀次が安土城の近くの領地をもらうことになると
安土城の残った資材は城下町ごと秀次の新しい居城・八幡山城建築に使うため
移されたといわれる。
残った二の丸が織田家の居城としてしばらく利用されていた。
だが豊臣秀吉の養子秀次が安土城の近くの領地をもらうことになると
安土城の残った資材は城下町ごと秀次の新しい居城・八幡山城建築に使うため
移されたといわれる。
408 : 人間七七四年 : 2011/03/03(木) 16:40:14.76 ID:UiuwrDla
京都内外の名称「洛中・洛外」の由来は、
嵯峨天皇の代に平安京の西(左京)を長安、東(右京)を洛陽と
それぞれ命名したが、京都の発展が東に集中したため
京都を洛陽で表すのが人々の間に定着していったことから。
嵯峨天皇の代に平安京の西(左京)を長安、東(右京)を洛陽と
それぞれ命名したが、京都の発展が東に集中したため
京都を洛陽で表すのが人々の間に定着していったことから。
409 : 人間七七四年 : 2011/03/04(金) 10:49:40.53 ID:vMdDrRUd
黒人奴隷から信長の家来に召抱えられた弥助はモザンビーク人だった
414 : 人間七七四年 : 2011/03/05(土) 07:09:22.92 ID:Ayop0wMx
>>409
誰でも知ってる
誰でも知ってる
410 : 人間七七四年 : 2011/03/04(金) 11:45:50.29 ID:DaM4afsh
斎藤道三の通称『美濃の蝮』は、「徳川家康」などで有名な作家、山岡荘八の創作
411 : 人間七七四年 : 2011/03/04(金) 23:34:28.70 ID:c0MwiiIo
江戸時代、犬猿の仲だった南部と津軽は
実は一度も本格的な合戦をしたことはない。
実は一度も本格的な合戦をしたことはない。
413 : 人間七七四年 : 2011/03/05(土) 00:22:11.91 ID:6myydj1e
柳生宗矩は沢庵和尚から喫煙を控えるようにたしなめられていた。
だがそのかいなく彼は肺ガンで亡くなった。
だがそのかいなく彼は肺ガンで亡くなった。
415 : 人間七七四年 : 2011/03/05(土) 11:59:35.49 ID:6myydj1e
大砲を初めて戦争に使った戦国武将は、大友宗麟
416 : 人間七七四年 : 2011/03/05(土) 12:18:40.34 ID:6myydj1e
信長の上洛を途中で邪魔した六角氏の家紋は四角
417 : 人間七七四年 : 2011/03/05(土) 12:58:01.92 ID:lIeExuBn
凍み豆腐を開発して戦場に持参させたのは、伊達政宗
418 : 人間七七四年 : 2011/03/07(月) 00:00:24.80 ID:fmvCqN/S
200年以上絶交していた伊達家と浅野家だか意外なところで接触している。
松の廊下事件で浅野内匠頭を取り押さえたのは吉田藩主伊達村豊(政宗曾孫、当時宗春)
浅野内匠頭があずけられ、切腹したのは一関藩主田村建顕(同じく政宗曾孫)邸。
松の廊下事件で浅野内匠頭を取り押さえたのは吉田藩主伊達村豊(政宗曾孫、当時宗春)
浅野内匠頭があずけられ、切腹したのは一関藩主田村建顕(同じく政宗曾孫)邸。
419 : 人間七七四年 : 2011/03/07(月) 00:20:08.69 ID:H/Q67qc/
松永久秀は戦国三大梟雄の一人として有名だが
彼の孫は俳人、ひ孫は朱子学者としてそれぞれ名を成し
またその道の優れた弟子を多く育成、輩出した。
彼の孫は俳人、ひ孫は朱子学者としてそれぞれ名を成し
またその道の優れた弟子を多く育成、輩出した。
421 : 人間七七四年 : 2011/03/07(月) 17:54:02.13 ID:/H1Ur1l4
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は
苦労人らしい徳川家康の遺訓として扱われるが
実際は徳川光圀の言葉
このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
苦労人らしい徳川家康の遺訓として扱われるが
実際は徳川光圀の言葉
このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
422 : 人間七七四年 : 2011/03/07(月) 21:11:00.40 ID:TaAwYFBO
>>421
> このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
そもそもそれは美談かよ?
あと家康が天婦羅に当たって死んだという話。
あれは後世、江戸城で火災の危険があるため揚げ物を禁止したとき、
その理由として「揚げ物は徳川家に祟る。昔神君が天婦羅に当たって死んだので」とやった
つくり話。
> このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
そもそもそれは美談かよ?
あと家康が天婦羅に当たって死んだという話。
あれは後世、江戸城で火災の危険があるため揚げ物を禁止したとき、
その理由として「揚げ物は徳川家に祟る。昔神君が天婦羅に当たって死んだので」とやった
つくり話。
423 : 人間七七四年 : 2011/03/08(火) 00:23:30.55 ID:wL1O2bfp
将軍義輝暗殺後、足利義栄が将軍の座に就けられたが、
彼は松永久秀と三好三人衆の権力抗争や義昭を奉じた信長上洛により
将軍職にあるにもかかわらず本拠地の京に来られずに一生を終えた
ちなみに日本史上、在職中に本拠地に来れなかった将軍は
足利義栄以外では徳川慶喜(江戸)だけ
彼は松永久秀と三好三人衆の権力抗争や義昭を奉じた信長上洛により
将軍職にあるにもかかわらず本拠地の京に来られずに一生を終えた
ちなみに日本史上、在職中に本拠地に来れなかった将軍は
足利義栄以外では徳川慶喜(江戸)だけ
426 : 人間七七四年 : 2011/03/08(火) 02:37:24.35 ID:2PREDeTX
父が犯した数々の戦争犠牲者の霊を祈祷するために
豊臣秀頼が普請した神社仏閣の膨大な費用を個人財産で支払い。
その支払われた費用の一部に税金を掛け、建設業者から巻き上げ
豊臣氏を滅ぼすための鉄砲の弾(鉛)の購入費用にあてたのは家康。
現代にも通じる政治のカラクリ
豊臣秀頼が普請した神社仏閣の膨大な費用を個人財産で支払い。
その支払われた費用の一部に税金を掛け、建設業者から巻き上げ
豊臣氏を滅ぼすための鉄砲の弾(鉛)の購入費用にあてたのは家康。
現代にも通じる政治のカラクリ
427 : 人間七七四年 : 2011/03/08(火) 07:22:26.69 ID:pv7bOLQI
>>426
「戦争犠牲者の追悼」?
普通に豊臣の繁栄を願ってじゃないのか?
「戦争犠牲者の追悼」?
普通に豊臣の繁栄を願ってじゃないのか?
428 : 人間七七四年 : 2011/03/08(火) 10:56:54.22 ID:DY233kST
豊臣家くらい自分たちのことしか考えない家も珍しいからな
429 : 人間七七四年 : 2011/03/08(火) 13:08:00.54 ID:wL1O2bfp
聚楽第の跡地には、いまハローワークが建っている
>>428
農民上がりだから他の戦国武将のような信頼できる家臣団が無くて
いきおい身内びいきになるのは仕方ないオモ。
秀吉が苦心して作りあげた家臣団も彼の死後の関ヶ原の戦いでは
石田三成以外ほとんどが家康についちゃったし
>>428
農民上がりだから他の戦国武将のような信頼できる家臣団が無くて
いきおい身内びいきになるのは仕方ないオモ。
秀吉が苦心して作りあげた家臣団も彼の死後の関ヶ原の戦いでは
石田三成以外ほとんどが家康についちゃったし
435 : 仙台藩百姓 : 2011/03/10(木) 08:23:10.23 ID:4t9gkIrN
>>428
他人の家ばかり心配していた大名がいるなら教えてもらいたいものだお( ^ω^)
他人の家ばかり心配していた大名がいるなら教えてもらいたいものだお( ^ω^)
437 : 人間七七四年 : 2011/03/10(木) 21:12:38.32 ID:nGzR+eSo
長篠の戦いで戦場になった長篠城は
攻め手の武田軍から受けた損傷がひどかったため、翌年放棄された
攻め手の武田軍から受けた損傷がひどかったため、翌年放棄された
438 : 人間七七四年 : 2011/03/11(金) 03:06:34.47 ID:sRbrh075
徳川家康は野戦が得意で城攻めが苦手
…というのは司馬遼太郎の創作。
…というのは司馬遼太郎の創作。
440 : 人間七七四年 : 2011/03/11(金) 20:10:26.61 ID:Uveo9971
初めて大規模な長鑓隊を作って戦線に投入したのは遊佐長教
441 : 人間七七四年 : 2011/03/23(水) 12:05:30.48 ID:Gx4WYrE2
丹羽長秀の息子の長重は、佐々成正の討伐や九州征伐の際に
秀吉から軍規違反を理由に領地百二十万石の大部分と家臣を没収され、
さらに関ヶ原では西軍に加わったことで一時改易。
その後大名に復帰するも「築城の名人だから」ということを理由に
伊達政宗監視のため奥州の要衝・白川藩に移され、城下町と築城整備に専念させられた。
すべて丹羽氏の財力を削ぐための処置だったとされる
秀吉から軍規違反を理由に領地百二十万石の大部分と家臣を没収され、
さらに関ヶ原では西軍に加わったことで一時改易。
その後大名に復帰するも「築城の名人だから」ということを理由に
伊達政宗監視のため奥州の要衝・白川藩に移され、城下町と築城整備に専念させられた。
すべて丹羽氏の財力を削ぐための処置だったとされる
442 : 人間七七四年 : 2011/03/23(水) 22:02:06.70 ID:jRtC6JAw
関東で本能寺の変を知った滝川一益は、信長横死の情報を包み隠さず関東の諸侯に伝えた
…というのは後世の作り話。実際はひた隠しに隠した。
…というのは後世の作り話。実際はひた隠しに隠した。
470 : 人間七七四年 : 2011/05/04(水) 15:26:28.49 ID:gBvp670o
>>442
ワロタw
ワロタw
443 : 人間七七四年 : 2011/03/25(金) 16:28:53.74 ID:a5L4noch
脇坂、赤座、朽木、小川の四将は関ヶ原の戦いで
小早川秀秋とともに東軍に寝返ったが、脇坂安治を除く三将は
「戦う前に裏切りの意思を知らせていなかった」という理由で
それぞれ所領没収、所領半分没収、改易処分を受けてしまった。
その後の三将は、
赤座直保→加賀藩の前田家に家臣として仕えるも、彼の死後、息子は改姓。
朽木元網→出家して死んだ後、所領は三人の子に分けられたため、家は旗本に転落。
ただ三男・朽木稙綱だけは徳川家光の信頼を受けたことで大名の地位を取り戻す。
小川祐忠→改易後、京に戻り間もなく病没。息子は両替商として大成功。
曾孫は鷹匠、曾々々孫は小石川養生所の開祖の名医としてそれぞれ名を残した。
小早川秀秋とともに東軍に寝返ったが、脇坂安治を除く三将は
「戦う前に裏切りの意思を知らせていなかった」という理由で
それぞれ所領没収、所領半分没収、改易処分を受けてしまった。
その後の三将は、
赤座直保→加賀藩の前田家に家臣として仕えるも、彼の死後、息子は改姓。
朽木元網→出家して死んだ後、所領は三人の子に分けられたため、家は旗本に転落。
ただ三男・朽木稙綱だけは徳川家光の信頼を受けたことで大名の地位を取り戻す。
小川祐忠→改易後、京に戻り間もなく病没。息子は両替商として大成功。
曾孫は鷹匠、曾々々孫は小石川養生所の開祖の名医としてそれぞれ名を残した。
444 : 人間七七四年 : 2011/03/26(土) 22:32:43.33 ID:4LiH1Jee
伊東マンショ達が謁見したローマ法王グレゴリウス十三世は、
現行の暦であるグレゴリオ暦の採用者
また彼の使用していた冠は、現存する教皇冠のなかでは世界最古のもの
現行の暦であるグレゴリオ暦の採用者
また彼の使用していた冠は、現存する教皇冠のなかでは世界最古のもの
447 : 人間七七四年 : 2011/03/27(日) 13:00:51.44 ID:+cK8ooD7
>>444
伊東マンショ達は、次のローマ法王・シクストゥス五世の戴冠式にも参加したが
彼は歴代ローマ法王の中でも大きな功績を持つ。
ローマ教皇領内の治安回復や財政再建をしたり
ローマ市内のインフラ整備に莫大な公共投資を行い現代のローマ市の基礎を作った。
伊東マンショ達は、次のローマ法王・シクストゥス五世の戴冠式にも参加したが
彼は歴代ローマ法王の中でも大きな功績を持つ。
ローマ教皇領内の治安回復や財政再建をしたり
ローマ市内のインフラ整備に莫大な公共投資を行い現代のローマ市の基礎を作った。
445 : 人間七七四年 : 2011/03/26(土) 22:40:23.27 ID:L9tlkcyw
羽柴秀吉は清洲会議で信長の子、信孝信雄ではなく、織田信忠の子、三法師を擁立したが…
実は秀吉よりも先に、徳川家康が伊賀越の後の西上の途中、三法師を立てての
弔い合戦を主張している。
実は秀吉よりも先に、徳川家康が伊賀越の後の西上の途中、三法師を立てての
弔い合戦を主張している。
446 : 人間七七四年 : 2011/03/27(日) 12:44:35.86 ID:+cK8ooD7
三法師はのちに元服して織田秀信と名乗り
秀吉への恩義から関ヶ原では西軍側につく。
降伏後は岐阜の所領を没収され高野山へ追放された。
その後は高野山のふもとの村の郷士になったとも
一万石の大名として復活したとも伝えられる。
秀吉への恩義から関ヶ原では西軍側につく。
降伏後は岐阜の所領を没収され高野山へ追放された。
その後は高野山のふもとの村の郷士になったとも
一万石の大名として復活したとも伝えられる。
448 : 人間七七四年 : 2011/03/27(日) 13:21:27.35 ID:+cK8ooD7
高野山は、多くの戦国武将が追放された場所として有名だが
高野山という名の山はない。
「高野山」とは宝珠山・弁天岳・摩尼山などの八つの山々に囲まれた
盆地のことを指す地名である。
ちなみに、ユネスコは2004年に高野山を世界文化遺産に登録している。
高野山という名の山はない。
「高野山」とは宝珠山・弁天岳・摩尼山などの八つの山々に囲まれた
盆地のことを指す地名である。
ちなみに、ユネスコは2004年に高野山を世界文化遺産に登録している。
449 : 人間七七四年 : 2011/04/03(日) 19:44:33.13 ID:Wi2N2B2m
大御堂寺は秀吉が賤ヶ岳の戦いの後
降伏した敵首謀者の織田信孝を移して切腹させた場所として有名だが、
かつて平安時代に源義朝が暗殺された場所でもある。
降伏した敵首謀者の織田信孝を移して切腹させた場所として有名だが、
かつて平安時代に源義朝が暗殺された場所でもある。
450 : 人間七七四年 : 2011/04/05(火) 00:59:20.75 ID:dQwOAX3M
服部半蔵は何人かいた。
452 : 人間七七四年 : 2011/04/06(水) 07:12:31.79 ID:iNE0qZ0o
関ヶ原の戦いに敗れた後、逃亡中の安国寺恵瓊を京都で捕えたのは
長篠の戦いで有名になった鳥居強右衛門の息子の鳥居信商
長篠の戦いで有名になった鳥居強右衛門の息子の鳥居信商
454 : 人間七七四年 : 2011/04/11(月) 21:00:12.65 ID:4x6TLtFZ
滝川一益の息子は徳川家の旗本として召抱えられたが、
大阪城落城後に真田幸村の娘を保護した事で改易された
大阪城落城後に真田幸村の娘を保護した事で改易された
455 : 人間七七四年 : 2011/04/11(月) 21:14:47.11 ID:EIL712g9
>>454
それは息子ではなく孫だ。滝川一積な。しかも改易を受けたのは
大坂の陣から17年もたった寛永9年(1632)な。
真田云々の単純な話じゃない。
それは息子ではなく孫だ。滝川一積な。しかも改易を受けたのは
大坂の陣から17年もたった寛永9年(1632)な。
真田云々の単純な話じゃない。
459 : 人間七七四年 : 2011/04/13(水) 16:30:42.53 ID:sO8GAoFu
吉川広家は関ヶ原の戦いの前に、東軍側の黒田長政と
毛利軍を釘付けにする代償に戦後の毛利領を保証する密約を結んでいたが、
毛利輝元は自発的に西軍の総大将になっていたからという理由で
密約は反故にされてしまい、毛利家は改易されそうになった。
これに慌てた広家が必死に家康との交渉に努めた結果、
自分が貰うことになっていた長門・周防二国を毛利家に与えることで
毛利家取り潰しはまぬがれた。
毛利軍を釘付けにする代償に戦後の毛利領を保証する密約を結んでいたが、
毛利輝元は自発的に西軍の総大将になっていたからという理由で
密約は反故にされてしまい、毛利家は改易されそうになった。
これに慌てた広家が必死に家康との交渉に努めた結果、
自分が貰うことになっていた長門・周防二国を毛利家に与えることで
毛利家取り潰しはまぬがれた。
460 : 人間七七四年 : 2011/04/16(土) 23:57:53.92 ID:H/+Jd4in
九鬼水軍の九鬼嘉隆・守隆父子は関ヶ原の戦いでどちらが勝っても
家が生き残るようにそれぞれ西軍、東軍について戦った。
勝った後、守隆は父の助命を家康に約束させたが
嘉隆のもとにその使者が来る前に、家臣が独断で切腹させてしまっていた。
家が生き残るようにそれぞれ西軍、東軍について戦った。
勝った後、守隆は父の助命を家康に約束させたが
嘉隆のもとにその使者が来る前に、家臣が独断で切腹させてしまっていた。
463 : 人間七七四年 : 2011/04/17(日) 22:11:26.87 ID:+0o1j6yn
真田幸村の祖父の真田幸隆は
武田信玄が二度も落とせなかった城を
信玄の命令で総大将として攻めたら、
落とせた。
武田信玄が二度も落とせなかった城を
信玄の命令で総大将として攻めたら、
落とせた。
465 : 人間七七四年 : 2011/04/19(火) 16:59:29.16 ID:H6lPfmtl
大内義隆が陶晴賢に謀反されて自害した大寧寺は
室町時代、関東管領を辞めて諸国遍歴の旅に出ていた上杉憲実の最期の地でもある
室町時代、関東管領を辞めて諸国遍歴の旅に出ていた上杉憲実の最期の地でもある
466 : 人間七七四年 : 2011/04/24(日) 22:38:54.47 ID:ZAYgyOGI
足利義満の始めた中国(明朝)との勘合貿易は
戦国時代も権益を握っていた大内氏により続いていた。
大内義隆が殺された後、名目上の跡継ぎとなった大内義長が
貿易再開を求める使者を派遣したが、明側は彼を簒奪者とみなして拒否。
その後大内氏が毛利元就に滅ぼされると再開の目途は完全に途絶え、
以後、東アジアの貿易は倭寇らによる密貿易が中心となった
戦国時代も権益を握っていた大内氏により続いていた。
大内義隆が殺された後、名目上の跡継ぎとなった大内義長が
貿易再開を求める使者を派遣したが、明側は彼を簒奪者とみなして拒否。
その後大内氏が毛利元就に滅ぼされると再開の目途は完全に途絶え、
以後、東アジアの貿易は倭寇らによる密貿易が中心となった
468 : 人間七七四年 : 2011/05/02(月) 14:11:56.73 ID:sh9n9spf
戦国時代からちょっとずれるが
島原の領民を重税と暴政で苦しめてのちの「島原の乱」を誘発させた松倉重政だが、
彼はその前の大和十条藩の統治では労役免除、城下町整備などの
産業振興策を行ったことで領民から名君と崇められ、彼を称える祭りや石碑まで作られた。
島原の領民を重税と暴政で苦しめてのちの「島原の乱」を誘発させた松倉重政だが、
彼はその前の大和十条藩の統治では労役免除、城下町整備などの
産業振興策を行ったことで領民から名君と崇められ、彼を称える祭りや石碑まで作られた。
471 : 人間七七四年 : 2011/06/09(木) 17:38:29.46 ID:prjOB1D2
秀吉の造った黄金の茶室は大阪夏の陣で燃えてしまったが
金の茶釜だけは焼け跡から掘り出された
金の茶釜だけは焼け跡から掘り出された
472 : 人間七七四年 : 2011/06/15(水) 15:56:15.30 ID:TFhOoI4D
関ヶ原の戦いは天皇が関与してない戦いで日本史上最大規模
この記録は今もやぶられていない
この記録は今もやぶられていない
473 : 人間七七四年 : 2011/06/15(水) 16:01:05.27 ID:hKufVc6C
何を持って最大規模と言っているのか全く謎だが、合戦規模なら大阪冬夏の陣の方が上だろ
485 : 人間七七四年 : 2011/07/29(金) 08:12:40.91 ID:TuDaoMTU
>>473
どう見ても関ヶ原だろ
どう見ても関ヶ原だろ
474 : 人間七七四年 : 2011/07/22(金) 15:16:28.75 ID:VU2gQ9yQ
小田原北条氏の家紋の三つ鱗は
鎌倉幕府執権を代々つとめていた北条氏のものより
高さを少し低めに作っている。
鎌倉幕府執権を代々つとめていた北条氏のものより
高さを少し低めに作っている。
475 : 人間七七四年 : 2011/07/22(金) 15:58:28.28 ID:VU2gQ9yQ
江と結婚した豊臣秀勝は秀吉から丹波亀山の十万石をもらったが
それでは足りないと不平を言ったために秀吉の怒りを買い、所領を一時没収された
それでは足りないと不平を言ったために秀吉の怒りを買い、所領を一時没収された
476 : 人間七七四年 : 2011/07/22(金) 20:51:41.56 ID:CC7OjXHI
関ヶ原で敗れた武将が今の宮城に逃れ、日本三景の松島を開いたんだと。
477 : 人間七七四年 : 2011/07/24(日) 13:39:38.27 ID:tol+mz+B
大友宗麟はカボチャを栽培させていた。
478 : 人間七七四年 : 2011/07/25(月) 06:37:13.68 ID:Qp6I+pgd
豊臣秀次の名前の読みは「ひでつぎ」
「太閤さま軍記のうち」より。
「太閤さま軍記のうち」より。
479 : 人間七七四年 : 2011/07/27(水) 18:51:21.91 ID:IUg9pvcb
>>478
!!?
マジか!
!!?
マジか!
480 : 人間七七四年 : 2011/07/27(水) 19:26:14.88 ID:BH09dtBe
諱はめったに呼ばれることはないので、秀次が「ひでつぐ」でも「ひでつぎ」でも、「しゅうじ」でも
特に問題はない。
特に問題はない。
481 : 人間七七四年 : 2011/07/28(木) 00:30:24.53 ID:1xicTOBL
そういうもんなのか・・・
482 : 人間七七四年 : 2011/07/28(木) 00:43:21.55 ID:XZIyubjB
その手のやつなら「織田信雄」の諱の読みは「のぶかつ」も「のぶお」もどちらも正しい。
前者は武家読み、後者は公家読み。
前者は武家読み、後者は公家読み。
483 : 人間七七四年 : 2011/07/28(木) 00:46:41.52 ID:7SkkWpoR
土岐頼芸みたいにルビでも振ってあるその当時の記録でもあればいいのだが、
信長を「上総介」とか、秀吉の「藤吉郎」「筑前守」家康の「三河殿」「内府殿」とかの名称の方が
書物的にはよくみられる表記。
信長を「上総介」とか、秀吉の「藤吉郎」「筑前守」家康の「三河殿」「内府殿」とかの名称の方が
書物的にはよくみられる表記。
484 : 人間七七四年 : 2011/07/28(木) 05:45:54.50 ID:3fV2yRXw
>>483
ついでながら苗字と感銘の最初の一文字とって
羽柴筑前なら「羽筑」みたいな書き方をしていた
ついでながら苗字と感銘の最初の一文字とって
羽柴筑前なら「羽筑」みたいな書き方をしていた
486 : 人間七七四年 : 2011/07/29(金) 08:23:27.98 ID:TuDaoMTU
足利義昭は信長横死後、手を叩いて喜んだが、同日涙したと言う
487 : 人間七七四年 : 2011/07/29(金) 13:37:02.56 ID:FdN9a4jy
>>486
マジで? すげー興味あるわ。史料としてあるの?
マジで? すげー興味あるわ。史料としてあるの?
488 : 人間七七四年 : 2011/07/29(金) 13:42:48.59 ID:FdN9a4jy
でもよく考えたら「チクショウ光秀がもっと早く裏切ってればこんなとこに逃げこまずに済んだのに」
っていう悔し涙の可能性もあるなw
っていう悔し涙の可能性もあるなw
489 : 人間七七四年 : 2011/07/29(金) 14:26:34.25 ID:O7BMzCvk
そりゃ、信長の良い所も一時期は見てきたんだから
「糞信長が死にやがったぜヒャッハー」
→「でも余を将軍にしてくれたのも信長だったよね・・・(ショボーン)」
→「あの頃は楽しかったなぁ~みんな仲良くてさぁ・・・(涙」
かも知れん。
「糞信長が死にやがったぜヒャッハー」
→「でも余を将軍にしてくれたのも信長だったよね・・・(ショボーン)」
→「あの頃は楽しかったなぁ~みんな仲良くてさぁ・・・(涙」
かも知れん。
491 : 人間七七四年 : 2011/11/21(月) 00:18:27.21 ID:SZySJp7+
>>489
そんな義昭さんだったら超萌えるなw
そんな義昭さんだったら超萌えるなw
493 : 人間七七四年 : 2012/03/17(土) 11:49:44.47 ID:qDDp4Iz9
雷切で有名な立花家には、電撃流抜刀術という
剣術があった。
剣術があった。
494 : 人間七七四年 : 2013/04/12(金) 17:34:00.08 ID:CoRNsIfb
江上・八院の戦いで激戦だったのは序盤だけて
中盤以降は鍋島軍による包囲殲滅戦。
中盤以降は鍋島軍による包囲殲滅戦。
496 : 人間七七四年 : 2013/04/12(金) 17:40:58.58 ID:RbWrQ0y7
>>494
関ヶ原も実際はそんな感じだったらしいな
関ヶ原も実際はそんな感じだったらしいな
497 : 人間七七四年 : 2013/04/12(金) 20:27:14.93 ID:P5BPsrJe
小野和泉率いる千三百(3千説もある)に対して
鍋島軍は最低でも1万以上だからな
鍋島軍は最低でも1万以上だからな
498 : 人間七七四年 : 2013/04/13(土) 12:58:26.09 ID:wE/fpDje
戦死者は立花1000(鍋島側の首級)に対して鍋島200(立花側の首級)
499 : 人間七七四年 : 2013/04/13(土) 13:45:30.27 ID:DUlPz3Sv
石垣原の戦いの戦死者数は
黒田が380余に対し大友が220余で
勝った黒田側の方が多かった
黒田が380余に対し大友が220余で
勝った黒田側の方が多かった
500 : 人間七七四年 : 2013/04/13(土) 21:07:59.65 ID:qRBbOEcE
黒田側が五倍くらいの大軍だしなあ。
453 : 人間七七四年 : 2011/04/09(土) 08:19:37.75 ID:A2bG4nPU
服部半蔵は初代以外は侍であり忍者ではない
467 : 人間七七四年 : 2011/05/01(日) 16:41:09.05 ID:731tBxiO
「風林火山」の文字を旗印に最初に用いたのは
武田信玄ではなく北畠顕家
武田信玄ではなく北畠顕家
469 : 人間七七四年 : 2011/05/02(月) 19:50:29.81 ID:zH2j5gDA
>>467
へえー パクリじゃん信玄
へえー パクリじゃん信玄
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