374:2012/05/14(月) 20:23:40.84 ID:



 目がさめる。そのことに気がついた。
"ズレ"と"それ以外"との区別がいつになく明瞭だった。俺は今の今まで"ズレ"ていた。
 そして今、戻ってきた。"現実"とも呼べないどこかに。

 自分の中から不意に、不要なものが抜け落ちていくような感覚があった。
 なんだかいろんなものが綺麗に抜け落ちていく。透き通っていくようだった。
 自分の中の不純なものがすべて消えていく気がした。

 そんな感覚が、俺を数秒あまり包んでいた。
 
 ふと気付くと、街から人が本当に消えていた。
 
 誰もいなかった。体育館裏の切り株に座っていた。
 傍には誰もいなかった。誰にも何も伝わらなかったし、俺もその努力をしなかった。
 
 俺はずっと前からこんな場所に居続けていたような気がする。

※前スレ→後輩「それじゃ、本当にこれでお別れです」

375:2012/05/14(月) 20:24:10.16 ID:

 こんなぶつ切りの風景から、本当に何かを読み出せたりするんだろうか。
 俺は飽きつつあった。この光景に。もううんざりだった。

 不意にティアの声がして、俺は立ち上がる。
 俺は少しの間、何ひとつ明確には示されていないにも関わらず、何もかもが自明であることについて考えた。

「行きましょう」

 とティアは言った。そうしよう。何もかも終わりに近づいている。まったく理解しがたい局面として。

 俺は立ち上がって自然科学部の部室に向かう。部室にはハカセが居た。
 彼は長机に肘をつき、窓の外をぼんやり眺めていた。窓から吹き込む風が彼の髪を揺らし、柔らかな夕陽が部屋中を包んでいた。
 斜陽だ。
376:2012/05/14(月) 20:24:36.57 ID:

「こんな日には消えたくなるね」

 とハカセは言った。

「お前はまだ、やれるみたいだけど……俺には無理だよ、もう。うんざりだ」

 彼が笑うと、空気がひそやかに揺れた。俺にはその声が、ただの音のように聞こえた。
 言葉としての意味を剥奪された音。声。ただそれだけのもの。そんなものが俺の視界にはやまほどあった。

「でも、きっと後を追うよ。もう少しで、何かが分かるような気がするんだ。俺にだって」

 俺はうなずく。それから溜め息をついて、笑った。彼もまた応じるように笑った。

「さよなら」と俺は言った。

377:2012/05/14(月) 20:25:02.66 ID:

 部室を出て、図書室に向かった。ティアはあきれたように溜め息をつく。

 図書委員の女の子はカウンターの中で本を読んでいた。彼女は顔をあげなかった。
 
「ここにいるの?」

 と俺は訊ねた。彼女は答えなかった。

「もう行くよ」

 反応は一切なかった。なにひとつ返事はなかった。言葉から意味が剥がれ落ちている。
 なにひとつ伝わらない。伝えようという努力をしてこなかったのだから当然だ。

「さよなら」

 と俺は背を向けた。

378:2012/05/14(月) 20:25:30.36 ID:

 校門にはシラノが立っていた。
 俺が声を掛けると、彼女は泣き出しそうな目でこちらを睨んだ。

「わたしは逃げません」と彼女は言った。
「やめときなよ」と俺は言った。

 きっと彼女と俺の話はどこまでいっても平行線をたどるだろう。俺たちは最初の形からまったく異なっていたのだから。

「どうして突然、そんなふうに思ったんですか?」

「別に何かが変わったわけじゃない。今も変わらず怒ってる」

「じゃあ――」

「それでも、なんだかね。そんなことをしてる場合じゃなくなったんだ」

379:2012/05/14(月) 20:25:56.74 ID:

「君はいつもそんなのばっかりですね」

 シラノの表情には、激しい怒りのようなものが浮かんでいた。かろうじてこわばった笑みを浮かべてはいるが、そこには余裕がなかった。
 痛ましくすらある。俺は彼女という人間が苦手だったが、それとは反対に彼女のことが好きでもあった。
 だから、こんな彼女の姿を見るのはつらい。
 彼女は誰かに似ている。遠くの方から聞こえる啜り泣き。その声の主に似ている。

「勝手に騒ぎ始めて、勝手に自己完結して、何にも教えてくれない。そんなことばっかり。別に教えてほしくなんてないけど」

 シラノは傷ついているように見えたけれど、たぶんそれは俺のせいじゃない。
 本当に俺のせいじゃない。彼女はそういう人間なのだ。どんな些細な事柄からも痛みを見出さずにはいられない。
 そういう人間として、シラノは存在している。俺がそうであるように。

「誰にも何も言う気なんてないくせに、どうして口を開いたりしたんですか?」

 俺は少し考えて、答える。そうすることが必要だった。あくまでも俺にとっては。

380:2012/05/14(月) 20:26:26.14 ID:

「言いたいことがないわけじゃない。でも、上手に言葉にできないんだ。
 言葉にすると意味が奪われてしまうんだ。上手にあらわせない。
 いつまで経ってもこうなんだ。昔から。俺はこんなふうにしてしか、自分が考えていることを確認できない。 
 曖昧でぼんやりしたものを、どうにか形に表したいといつでも思ってる。
 でも、上手にできない。あんまり上手にできないものだから、そのうち声に出すのも億劫にだった。
 だから、口を開いたのは名残りみたいなものだよ」

 シラノは疲れ切ったように溜め息をつく。俺は自分の中の嘲笑われるべき部分、蹂躙されるべき部分について考えた。

「わたしは君みたいにはなれない」

「別になろうとする必要はない。ただ、シラノがいなくなると、俺は少しだけ悲しい」

「少しだけ?」

「少しだけ」

 彼女は少しだけ笑った
 もう行くよ、と俺は言った。彼女は何も言わなかった。

「さよなら」

381:2012/05/14(月) 20:26:52.80 ID:




「本当にいいの?」とティアは言った。

「何の話?」

 俺は道を歩きながら訊ねる。堤防の上から河川敷を眺める。誰かが水切りをしていた。

「あの子を止めなくて」

「俺が止められる問題だと思う?」

「思わないけど、でも……」

 まだ誤魔化されている気がしているのかもしれない。けれど俺は思う。
 もう、何もかもがあからさまに示されている。
 はっきりと示されている。
 明示されている。

 もはや隠されていることはなにひとつない。
 すべてはっきりとしている。
 区別のつけかたが少し難しいかもしれないが、もはや隠し立てされていることなど何ひとつない。
 はっきりしている。

 シラノは黒スーツを殺そうとするだろう。
 ジャックが巨人を殺したように。

382:2012/05/14(月) 20:27:19.52 ID:

 俺は水切りをしていた少女に近付く。少女。彼女は俺に気付くと照れくさそうに微笑した。

「もう行くんですか?」と彼女は言った。
 
 俺は目の前の少女とシラノ、それからあの女は姉妹なのだろうと考えた。
 けれど違う。俺が見た"ズレ"に彼女はいなかった。

 だから彼女は、もっと別の何か。シラノと強烈な類縁性、ないしは同一性を持った存在なのだろう。あの女もきっと。
 俺にとってシラノはどうだっていい存在だ。彼女にとって俺がそうであるように。

 けれど、彼女の存在は俺の目の前で意味ありげに揺らぎ続けている。
 それを思うと不思議な気持ちになる。彼女は俺と無関係な人間なのに、俺とよく似ているように思える。

「まだ怖い?」
 
 と俺は彼女に訊ねる。付け加えるべき説明は存在しない。自明な事柄。
 彼女は静かに首を振った。そして、口を開く。

「こんなことを訊くのは、変だという気もするんですけど」

 彼女は無表情だった。寂しそうでも悲しそうでもない。嬉しそうでも楽しそうでもない。無表情だった。
 
「どうして、出ていこうと思ったんですか? 突然」

383:2012/05/14(月) 20:27:50.60 ID:

 難しい質問だと俺は思った。
 けれどどうにかして答えをさがす。俺はそういったことが得意じゃない。想像力が欠けているのだ。
 俺には想像力だけではなくさまざまなものが欠けている。常識的な判断力、常識的な知識、常識的な習慣。
 逸脱したとまではいかないまでも、"普通"ではない。悪い意味で。そういう人間がいる。

 俺は何も思い浮かばなかった。なぜなのかは分からない。漠然とした衝動のようなものが根源にある。
 だから、俺は上手に説明できない。ただ、そうしなくてはいけないという気持ちだけがあるのだ。

 俺は適当にごまかすことにした。

「出ていくのと出ていかないのなら、出ていく方が難しそうに見えたからだよ」

「難しそうに見えたから、出ていくんですか?」

 俺にはそういう好みと傾向がある。
 
「それじゃあ、もう行くよ」と俺は言った。

「はい」と頷いて、「さよなら」と彼女は付け加えた。
「さよなら」と俺も返した。

384:2012/05/14(月) 20:28:16.93 ID:

 俺が街を歩いていると、喫茶店の女が目の前にあらわれた。彼女は俺に声を掛けようとしなかった。
 すれ違う。俺も彼女に何も言わなかった。口の中で別れを告げる。それだけだ。

 黒スーツは児童公園に居た。彼は俺を呼び止めると、ポケットから小銭を取り出して、百二十円を俺に返した。

 帰るべきものは帰るべきところへ帰る。痛みが正しく循環しあうように。
  
 けれど、彼の死は循環というほどシンプルな構造では訪れないだろう。
 復讐は連鎖しない。

 彼は大勢の人間を殺し、そのうちの一人の家族に殺されるかもしれない。
 けれど、彼を殺せなかった人間も存在することになる。その人の復讐は成立しない。彼が引き受けられるのは一人分の復讐だけだ。
 そして黒スーツの仇討を目論む人間は現れないはずだ。それがまったく正当な復讐であるから。

 復讐は連鎖しない。絶対に連鎖しない。連鎖するのは逆恨みだけだ。正当な復讐は一切連鎖しない。

 俺は公園を立ち去る。黒スーツは静かに煙草を吸っている。何を考えているのかは分からない。

「さよなら」と俺は言った。「おう」と彼は気安げに答える。
 
385:2012/05/14(月) 20:28:51.44 ID:

 魔法使いの事務所に行く。彼女は疲れ切ったようにソファにもたれて煙草を吸っていた。
 俺を見ると、彼女は苦笑のように頬を歪めた。

「ヤガタがいるよ。この街に」

 俺はヤガタのことを知らないので、どう答えればいいのか分からなかった。

「あいつね、昔、私の妹を殺したんだよ」

 俺は彼女の妹のことを知らなかったので、何とも答えようがなかった。

「みんな傷つけあってる」

 と彼女は言った。拗ねたみたいな声だった。俺は何も言えない。そんなことを今更聞かされて、どうしろっていうんだろう。

386:2012/05/14(月) 20:29:17.51 ID:

「いいかげん、終わらせるんでしょ?」

「ああ」

 俺は頷く。

「説明、つきそう?」

「上手に尾括できそうにない」

「つかえない奴」

 女は煙を吐いた。

「でも、いいよ、それでも。まぁ、別にね。あんたのことなんてどうでもいいし。
 まさかさ、ヤガタだとは思わなかったな。アンタ、どういうことよ。なんでこんなにいろいろ飲み込んでるわけ?」

387:2012/05/14(月) 20:29:46.94 ID:

「何の話?」

「こっちの話。まぁ、せいぜいがんばってよ。言っとくけど、覚悟なんて数秒で消えるものだからね。
 大変なのは始めるまでじゃなくて、始めてからなんだから。アンタなんてまだスタート地点にも立ってないんだからね」

「あんまり、心が折れるようなこと言わないでくれる?」

「甘ったれないで」

 彼女は真剣な顔で言った。俺は溜め息をつく。

「それじゃ、行くから」

 魔法使いは答えなかった。

「さよなら」

388:2012/05/14(月) 20:30:13.46 ID:

 喫茶店に足を踏み入れると、マスターがカウンター越しにこちらを見た。
 俺はカウンター席に腰かけて、彼に言う。

「マスターはどうなの?」

「何が?」

「行くの? 残るの?」

「選ばせてくれるのかい?」

「いいよ、言ってみても」

「はっきり言ってね、どっちにしても変わらないよ。この歳になるとね、どんなことにも慣れていくんだ」

「へえ」

389:2012/05/14(月) 20:30:53.67 ID:

「ここにきたのだってたまたまだよ。案の定、僕には何も起こらなかった」

 彼は少しさびしそうに言った。

「じゃあ、ここでことさら何かを言いあう必要もなさそうだね」

「ああ。もう行くんだろ?」

「ああ。ありがとう」と俺は言った。彼は照れ臭そうに苦笑する。

「さよなら」

 今度は俺が、みんなの場所を通り過ぎていくのだ。

390:2012/05/14(月) 20:31:26.92 ID:




「ずっと考えてたんですけど」

 と後輩は口を開いた。彼女は俺の家の前に立っていた。俺たちはその場で言葉を交わす。
 
「やっぱり、そういうことなんですよね?」

「なにが?」

「わたし、いないんですよね、本当は」

「さあ?」と俺は首を傾げた。そんなことは確認のしようがないことだ。
 仮に彼女が現実にいないとしても、今目の前には確かに居る。
 そういう意味では「いる」と言うことができる。

 だが現実には「いない」。……かもしれない。俺が知らないだけで、確かにいるのかもしれない。

 少なくとも彼女のいる場所は俺の身の回りではないし、そうである以上、彼女の居場所は彼女にしかわからない。

391:2012/05/14(月) 20:32:14.40 ID:

「居てほしいと思っているけど」

「どうして?」

 何かを期待するような顔で、彼女は訊ねた。俺はためらったが、結局言った。

「たぶんお前のことが好きなんだよ、俺は。お前に傍にいてほしいなと思ってた。なぜかは分からないけど。
 いろいろなことが混乱してるんだ。順番が入れ替わっていて、時間と時間が繋がり合ってない。
 でも本当にそう思うんだ。矛盾してるけど。そんなふうに考えてる」

 彼女は何も言わなかった。

「本当のことを言うと、俺はお前のいない場所になんて行きたくないんだ。
 お前がいるなら現実だろうと夢だろうとなんだっていいんだ。気味が悪いって思うかもしれないけど、そうなんだ。
 俺にとってお前はそれくらい大きな存在だった。俺と現実を繋ぐ糸みたいなもんだった。
 だからお前がいなくなるとつらい。お前がいない場所になんて行きたくないんだ」

 彼女はそこで初めて笑った。
 俺は胸が詰まるような気持ちになった。

392:2012/05/14(月) 20:32:47.54 ID:

「でも、きっとわたしはいないんですよね。外側には、ついていけないんですよね」

「そうだろうと思う」

 根拠はないけれど、実際、そうとしか思えない。彼女もきっと似たようなことを考えているんだろう。

「なあ、本当のところ迷ってるんだ。俺にはきっと何も変えられないと思う。
 お前がいない場所にいくくらいなら、俺はずっとここに居たいような気がしている。
 それじゃ駄目かな? お前の意思を無視して言わせてもらうと、俺はそうしたくてたまらないんだ」

 彼女はからからと笑う。それはきっと彼女なりの強がりだった。
 そういう風に見える。ひょっとしたら見えるだけなのかもしれない。錯覚。
 俺は彼女の仕草を都合の良いように解釈している。
 どんな人間関係にも、そういった要素があるように。

393:2012/05/14(月) 20:37:55.11 ID:

「子供じゃないんですから」

 と彼女は言う。
 子供だよ、と俺は口に出さないで答えた。
 
「待っている人がいるんでしょう?」

「どうだろう。もう俺のことなんて待っていないかもしれない」

「いつまで拗ねてるつもりですか」

 彼女は苦笑する。俺はずっとこんなふうに彼女と話をしたいと思っていた。

「なあ、この世界って、俺が作ったんだってさ。信じられるか?」

「信じますよ。部長が言うなら」

「お前、悪い男にだまされそうだな。気をつけろよ」

「もう騙されました」

394:2012/05/14(月) 20:38:21.12 ID:

「俺、もうここから出ようと思う。もう終わらせようと思う。
 なんでかみんなを巻き込んじゃったけど、どうにかして終わらせようと思う。それは俺の問題なんだ」

「どうやって?」

「分からないけど、会わなきゃいけない奴がいる」

「わたし以外にも?」

「当たり前だろ?」

「そうですか。もう行っちゃうんですね?」

「そう言ってる」

 彼女は笑った。その笑顔は大輪の向日葵に似ている。

395:2012/05/14(月) 20:38:46.82 ID:

 後輩は俺に背を向けて歩いた。十歩ほど進んでから、体ごと振り向く。
 彼女は綺麗に笑った。

「それじゃ、本当にこれでお別れです」

 彼女のその表情を、いつかどこかで見たことがあるような気がした。
 そして彼女は、思い出したような表情で付け加える。

 彼女の声は風にさらわれて、俺にはよく聞こえなかった。
 それでも俺は、彼女の声に強い動揺を覚えた。なにひとつ覆い隠されていることはない。明示されている。
 彼女があんまり綺麗に笑うので、「さよなら」と俺も笑った。

 俺は彼女の後姿をずっと目で追いかけた。曲がり角をまがって見えなくなっても、彼女の歩く道筋を想像した。
 そして彼女は、俺の近くから消えてしまうのだと考えた。けれどどうしてもそれが想像できない。
 彼女がいない世界で、俺はちゃんと俺としてやっていけるのだろうか。やっていけていたのだろうか。

 それでもやるしかなかった。
 誰の手を借りるわけにもいかない。俺自身の意思で、立ち向かわなければならない種類の問題だ。

 誰も俺を待っていなくても、誰も俺を必要としていなくても。
 
 さて、と俺は思う。
 俺には会わなければならない奴がいる。

396:2012/05/14(月) 20:39:22.93 ID:
つづく
397:2012/05/15(火) 22:18:11.48 ID:
1乙
399:2012/05/15(火) 23:58:03.32 ID:




「このあたりで、わたしともお別れよ」

 ティアは言う。俺は少しだけ驚いた。

「一緒に来てくれないの?」

「ひとりで行かなきゃ。みんなそう」

「……そりゃ、そうなんだろうけどね」

 俺は少しだけ見捨てられたような気分だった。
 結局ティアは、俺に何をもたらしたのだろう。
 変化でもない。混乱でもない。ただ彼女はいたというだけ。
 俺はそのことに一種の二義性を見出せる気がしたが、そんなことは割合どうでもいいことだった。

400:2012/05/15(火) 23:58:30.18 ID:

 ティアがいなくなってから、少し道を歩いていると、見知らぬ男に出会った。
 
 灰色のくすんだパーカーにくたびれたジーンズ、長い前髪から鋭い目が覗いている。
 ヤガタだ、と俺は思った。

「カリオストロは元気?」

 と俺は訊ねた。彼は不愉快そうに眉をひそめる。

「あんな奴はもう知らない」

 ヤガタは心底うんざりしたように言った。俺は振った手を振りかえしてもらえなかったような気分になる。

「あんたは、なんの復讐をしようとしてるの?」

「復讐?」

「魔法使いが言ってたよ」

 彼は鼻で笑った。

「ちげえよ。逆恨みだ。女と子供を殺された」

「それって復讐じゃないの?」

「殺した本人にならな」

401:2012/05/15(火) 23:58:57.41 ID:

 家族でも殺そうというのだろうか。

「ねえ、ひとつ言ってもいい?」

「なんだ?」

「あんたはシラノを殺すの?」

 彼は答えなかった。おそらくは、そういう話なのだろう。今の俺にとっては何もかもが分かりきっていた。

「もしシラノを殺したら、今度は俺がアンタを殺す。いいよね?」

 ヤガタは眉をひそめて笑い、それから俺に背を向けて歩いて行った。

402:2012/05/15(火) 23:59:23.17 ID:

 繰り返されている。俺はトンボのことを考えた。彼を苛んだ世界に対する、自分自身の憤りについて考えた。
 結局のところ、どれだけ当り散らしたところでトンボがよみがえることはない。彼の痛みが消えるわけでもない。
 
 たったそれだけのことに気付くまでに、どうしてこんなに時間が必要だったんだろう。
 俺はトンボの痛みをどうにかすることができないし、トンボの死を覆すことができない。
 その怒りを誰かにぶつけることはできるが、それは正当ではない。
 
 存分に嘆くことができたとしても、俺とトンボは結局べつの人間なのだ。
 彼の死は俺にとっては悲しかった。とても痛切だった。忘れたいと願うほど。
 けれど、彼はどう思っているのだろう。俺は不意に彼に会いたくなった。会って確かめたかった。お前は俺のせいで死んだのか、と。
 彼はきっと違うと言うだろう。こうも言う。「自惚れるな」。お前はそれほど俺の中で大きな存在じゃなかったよ、と。
 
 でも、彼とはもう二度と会えないし、そうである以上、本当のところ彼がどういうことを言うのかは分からない。
 生きている人間には、死者の気持ちを想像することしかできない。歴史上の偉人の心の内を思うようなもので。
 けれど、まぁ、他人の気持ちだって想像することしかできないのだ。さしたる問題はない。

 俺は一度トンボに謝らなければならないだろう。それは必要だ。たぶん。でも、あとにしよう。
 今はそんなことよりも、足を踏み外さずにこの街を出ることの方が重要なのだ。

403:2012/05/16(水) 00:00:14.48 ID:

 ようやく一人きりになった。
 なんだか肩の力が抜けていく。自分というものに張り付き離れなかった自分自身の付属物が、綺麗に剥がれ落ちた気がした。
 今の俺はからっぽだ。だが、それを悲しんでいたのは余計な付属物でしかなかったのだろう。
 からっぽであることはちっとも悲しくない。少なくとも満たされていることよりは。

 俺は少女の言葉を思い出す。そして自分がどうしてここを出る気になったのかについて考えた。

 彼女に対しては適当にごまかしたが、俺だってはっきりとした理屈を持って出ようと思ったわけではない。
 根本的な部分に、変化はまったく訪れていない。俺はひとりぼっちで、からっぽで、そして誰にも必要とされていない。
 どこに行って何をしたところで、結局は無意味だ。俺はいろいろな人を傷つけてきた。

 でも、そんなことはひとまず置いておく。
 いいかげん堂々巡りに嫌気がさしてきたのであまり考えたくない。
 けれど言葉にしてはっきりと残さなくては、また分からなくなってしまうだろう。

 別に欲しいものなんてそんなにないし、会いたい人もそんなにはいない。 
 でも、まったくいないわけじゃない。そのあたりが重要になるのだろう。

 この街は閉ざされている、かつ開かれている。
 何が原因でこんなことが起こったのかは分からないが、この世界は俺が作り出した偽物だ。
 
 なぜそんなことができたかということにも、あの魔法使いの女なら説明をくわえられるのだろう。
 けれど今はそんなことはどうでもいい。現象は現に起こっている。

404:2012/05/16(水) 00:01:00.09 ID:

 俺はこの街をつくりだした。そして悲しみに沈んでいる人たちのことを考えた。
 苛み、苛まれている人について考えた。

 ここは墓場だ。悼む場所だ。身勝手な悲しみを他の人間に押し付ける場所だ。

 この街の現実性について考える。ついさっきまで切実なものだったリアリティは失われて、この世界の正体は明示された。
 リアリティがついに失われたのだ。俺はもはや夢の中にいる。死んだ人間が生き返り、生きた人間が死に、消える。
 
 俺はこれほどの回り道をしてやらないと、自己完結や自己確信のひとつだってできなかった。 
 他の人はすいすいやっていけるのかもしれない。もしかしたら他の人も努力しているのかもしれない。

 いずれにせよ、悟ったふりをして言い訳を続ける自分自身と別れるため――今度こそ本当に決別するためには、この手順が必要だった。
 少なくとも俺にとっては。

 こんな世界を経由してみなくては、俺はもう二度と歩き出せそうになかったのだ。
 俺は一度逃げて、逃げて、それから眠って、眠って、何もかもを忘れようとして、忘れた。
 
405:2012/05/16(水) 00:02:31.29 ID:

 その結果、俺には何も残らなかった。形あるものも形ないものも何ひとつ残らなかった。
 当たり前だ。俺はなにひとつ手に入れようとしなかった。欲しくなかったし、手に入ったものも捨てるようにしてきた。

 俺は自分自身をそうすることでしか維持できなかった。どうしてそんな形になったのかは分からないけれど。

 だからこんな世界にひきこもり、自分とだけ対話し、あげく寂しくなって人を巻き込んだ。

 都合のよい妄想<ガラテア>に逃げ込んだ。この世界はそうやってできた。
 そして勝手な危機感から、絶望的な現実<カリオストロ>に思いを巡らせた。

 そして今ならば言える。そのどちらも、決して現実ではないのだ。

 悲観的か楽観的かという違いしかない。どちらも妄想には違いない。

 そのことは明示されている。
 感覚的に伝わってくるのだ。肌に触れるものが熱いか冷たいか、それだけで分かるように。
 いつのまにか実感として分かるようになっている。

 既に明示されている。

406:2012/05/16(水) 00:03:57.37 ID:

 俺はここに来てからさまざまなことを考えた気がする。そのどれについても、今はまったく思い出せない。
 自分が何についてどんなことを考えていたのか。それはまったく思い出せない。思い出せなくても問題ない。

 そのなかには、荒唐無稽でめちゃくちゃでしかない言葉も含まれているだろう。
 同様に、まぐれあたりのようにまともなことも含まれているかもしれない。
 
 いずれにせよ、もう考え事はやめることにする。

 俺はあの白い夏に二度と戻ることはできない。向日葵を目にすることはできない。
 でもそれはしょうがないのだ。諦めよう、ガキじゃあるまいし。
 
 問題は――今も耳の奥に聞こえる、啜り泣きを止めること。

 それは俺にはできないかもしれない。あるいはできるかもしれない。
 できないのではないか、と思う。八割くらいの確率で。

 けれど、絶対ではないと思う。

407:2012/05/16(水) 00:04:24.13 ID:

「俺には何かができる」と確信することが誇大妄想であるように、
「自分には何もできない」と確信することも、妄想でしかないのだろう。

 ガラテアかカリオストロかの違いはあれど、本質的には同じものなのだ。

 仮に何もできなかったとしても、それは今までと同じということだ。
 どこに行っても何をしても変わらないというのは、とどのつまりは、どこに行っても何をしても自由ということだ。
 
 俺は最後に体育館裏の切り株に向かった。手首を埋めた場所。
 そこでトンボのことを思った。涙が出るかと思ったが、出なかった。
 何も死ぬことはなかったじゃないかと俺は思う。お前が死んだおかげで、俺までひどい思いをしている。
 
 でもそれは死ななかった奴の言い草だし――おそらく、俺も人のことは言えない。
 俺は思い出しつつあった。

408:2012/05/16(水) 00:04:50.60 ID:




 校舎に入る。靴を履きかえる。廊下を歩き、階段を昇る。窓の外から西日が差している。
 俺は視界に滲む夕焼けについて考えた。誰かとこんな景色を一緒に見たことがある気がする。
 いや、あるのだろう。咄嗟には思い出せないだけで。

 そんなことがこれまでいくらでもあった。これからもいくらでもある。
 少なくとも、一年に三百六十五回はその機会があるのだから、きっと。
 今日にでも死なないかぎりは。

 屋上への鉄扉を押し開く。この場所に何度来ただろう。
 閉ざされかつ開かれている場所。

 ようするにここが扉なのだ。

409:2012/05/16(水) 00:06:11.96 ID:


 スズメは俺を見て、少しだけ寂しそうに笑った。彼女の顔に感情がうつっているのは初めて見る気がした。

「大丈夫?」

 と彼女は言った。

「大丈夫」と俺は答える。

「何の問題もないよ」

 それは少しだけ嘘だった。本当のところ恐ろしかった。
 ひょっとしたら悲観的な想像よりもよっぽど恐ろしい現実が待ち受けているかもしれない。
 俺はそれにしっかりと立ち向かっていく自信がなかった。

 けれど、甘ったれているわけにはいかない。後輩が言ったように。
 俺は、そうやって強がりを続けることでしか自分を保てない人間なのだ。

410:2012/05/16(水) 00:06:37.95 ID:

「ありがとう」

 とスズメは言う。

「なにが?」

「来てくれて」

 俺には彼女の言いたいことがわからなかった。

「ずっと待ってた」

 彼女は笑った。夕陽を背にした彼女の姿は、逆光で真黒に塗りつぶされて見える。
 それは美しい光景だった。世界の終わりはきっとこんな具合なのだろう。
 思ってから、たしかに今が、世界の終わりなのだと納得した。

 彼女はずっとここで待っていたのだろうか。
 それともこれは、俺が見ている都合の良い妄想なのだろうか。

 妄想なのかもしれない。こんなにも綺麗な景色なら、それでもかまわない。

411:2012/05/16(水) 00:07:06.16 ID:

 俺が足を踏み出すと、彼女は怯えたように後ずさった。かまわずに近づいていくと、やっぱり彼女は距離を取る。
 俺は苦笑した。まるで捨て猫の相手でもしているような気分だった。
 正体不明の怪物のように感じていた彼女が、ただのひとりの人間に見えてくる。

 俺はまだ混乱している。
 俺はまだ多くのことを忘れている。
 ひょっとしたらこれから思い出すこともないかもしれない。

 けれどもういいのだ。
 そう俺は自己完結する。

 受け入れる。起こったこと、消し去りたかったこと、悲しかったこと、痛かったこと、楽しかったこと、全部を。 
 受け入れるということは諦めるということによく似ている。
 
 俺は諦める。そうすることでしか手に入らないものがある。

412:2012/05/16(水) 00:07:32.69 ID:

 なんとしても俺が止めなくてはならない啜り泣き。
 なんとしても俺が戻らなくてはならない場所。

 本当のところを言ってしまえばそんなものはないのだけれど……ないと思うのは悲しいから、あると思うことにする。
 その程度の変化でかまわない。

 俺は完結する。
 ひとりで完結する。
 何ら解決をもたらさない。
 完結する。

 人の話に耳を貸さない。
 他人のことなんて考えない。
 許す。受け入れる。

 この場所を出る。たとえ誰が望んでいなくても。
 どんなに矛盾していて、滑稽で、馬鹿げていて、意味不明で、話が繋がっていなくて、混線していても。
 おそらくは、その問題すら、この場所を出ないかぎりは解決できないものなのだ。

 大袈裟な決意はいらないし、たいした決断でもない。
 ただ、ドアを少し開けて、そこから外の光景を覗き見るように。

 こう言い換えてもいい。

 何が起こるかは分からないし、何が待っているかもわからないけど――"とりあえず"、外に出る。

 その程度の覚悟でいい。近所の公園に行くように気安げでいい。
 手を伸ばす。それはまったく難しいことではない。

413:2012/05/16(水) 00:07:59.18 ID:





 最後にスズメは少しだけ泣いているように見えた。
 俺はしばらくの間、何もない空間をさまよう。何もない空間をさまよっているような気がした。

 いつのまにそうなっていたかは分からないが、ただよっていたのだ。

 ふと気付くと、意識が戻っていた。
 つまり俺は意識を失っていたらしい。
 それがいつからなのかはわからない。本当にふと気が付くと、俺は目を覚ましていた。

 それまで見てきたすべてのことが、呆気なく"夢"になる。"現実"ではなくなる。当たり前だ。
 長い夢を見ていたのだ。今はそのことがはっきりと分かる。その内容は克明に覚えていたけれど、それでもさっきまでの現実感は失われていた。

 戻ったのだ。現実に。

 体がひどく重い。頭がズキズキと痛む。
 視界はぼやけていたが、ここがどこだか、なんとなくわかった。見覚えのある場所。
 
 なんだかわからないが、白っぽい服をきた壮年の男と、白っぽい服をきた若い何人かの女がいた。 
 医者と看護婦(看護師というのだったか)、だ。

414:2012/05/16(水) 00:08:30.16 ID:

 俺は苦笑する。
 ふと、誰かが俺の手を握っていることに気付いた。
 それが誰なのか、俺には見ないでも分かった。彼女の啜り泣きが聞こえる。

 その意味は、これまでとはまったく異なっていた。

 なるほど、と俺は思う。
 走馬灯だったのか。

 薬――毒、は吐き出したらしい。
 頭はすっきりとしている。

 俺は目をさましたのだ。
 きっかけもなく、唐突に。
 けれど――もともと、きっかけもなく入り込んだのだから、出るためにきっかけもいらないだろう。

 何ひとつ決着をつけず、何もかも保留にしたまま、俺は目をさました。
 誰が祝わなくても、俺はそのことを祝福しよう。

 戻ってこれた。無事に。
 それでいいのだ。少なくともいまのところは。

415:2012/05/16(水) 00:10:13.89 ID:





 九月十一日、俺は退院した。 
 




 説明づけるべきことは、目を覚ました今でも何ひとつ存在しないように思える。
 何もかもが既に語られているからだ。
 
 俺のこと、啜り泣きの主、幼馴染について、ハカセのこと、シラノとヤガタと黒スーツに関して。

 俺が付け加えられる情報はない。俺は彼らではないから、詳しいことは知らない。

 けれど、現実に存在した人物について、その後の話を付け加えることはできる。

 どんなふうにとらえられても仕方ない。俺はそのことだけを話す。

 説明は一切付け加える必要がない。“必要がない”。このニュアンスは誰かに伝わるだろうか。
 これが最後になる。本当に最後になる。俺はさまざまな人間と別れ、まったく孤独な場所に躍り出た。
 そこには誰もいない。と、俺は思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

 現実の話をしよう。 


416:2012/05/16(水) 00:10:42.24 ID:



 
 俺の周囲に友人と呼べる人間はひとりもいない。
 いない。本当にいない。
 シラノとは一度も話していないが、どうも彼女も俺の方を意識しているふうであるので、そのうち話す機会もあるかと思っている。
 
 彼女がどういう決着を選んだのかは分からない。ひょっとしたら、彼女と話すことは二度とないかもしれない。
 けれど、彼女の心境にも変化が訪れていたことは分かっている。
(そもそも俺は、“以前”の彼女について何もしらないのだけれど)

 いずれにせよ、あの場所は俺以外の人間にも変化をもたらしていた。そのことを俺はあらかじめ知っていた。
 
 黒スーツは例の児童公園で俺と会って、言った。

「悪夢だったね」

 彼は楽しそうに笑う。

417:2012/05/16(水) 00:11:09.08 ID:

「醒めてよかったね」

「まったくだ」

「どうしてこんなことになったんだろう?」

「さあな」

 彼は笑う。俺は少しだけ楽しくなった。少し冷たい風が吹いて、夏の残照をさらっていく。
 風は少しずつ冷たくなっていく。木枯らしが落ち葉を空に誘う。

「ねえ、アンタはさ、まだ、例の……」

「なに?」

「だから、最初に言ってたろ。……殺してもらうつもりだって」

 ああ、と彼は頷いて、アタッシュケースを叩いた。

418:2012/05/16(水) 00:11:40.53 ID:

「ま、そうな。とりあえずは、それが目的だったから」

「じゃあ――」

「いや、まぁ聞けよ。とりあえずな。って言っても、聞いてもらうほど言うことなんてないんだが」

 彼はベンチに座ったまま深く溜め息をついて、空を見上げた。高い空だった。
 天高く馬肥ゆる秋。正しく秋だ。もう夏は終わった。

「探してた奴を、やっぱり探すよ。ま、でも、そう。うん。目的はちょっと違う」

「どう違うの?」

「ナイショ」

「気持ち悪い」

 彼は笑った。

419:2012/05/16(水) 00:12:06.83 ID:

「お前にも分かるさ。歳をとっても、人間、そんなに変わらないってな」

「前言ってたことと、違わない?」

「おんなじさ。結局な」

 彼は呟いて、息を吐く。長い溜め息だった。どことなく嬉しそうな溜め息だった。
 俺は人がこんなふうに楽しそうに溜め息を吐くのを見たことがない。
 
「それと、“アンタ”はないだろ、坊主」

「“坊主”はないだろ、オッサン」

 そして俺たちは別れた。

420:2012/05/16(水) 00:12:36.42 ID:




 ハカセは二週間ほど学校に来なかった。
 彼が何を考えていたのか、俺は知らない。
 二週間後の金曜(正確に言えば土曜)の深夜二時、彼は俺の部屋にやってきた。
 
 俺が玄関口に出ると、彼は少し憔悴したような表情で(けれど瞳にはたしかな光をたたえて)立っていた。

「よう」

 と彼は言う。「ああ」と俺は頷く。こいつも帰ってきたのだ、と俺は思った。

「俺はやるぞ」
 
 と彼は言った。

「何を?」

「知らんけど」

 知らんのか、と俺はあくびをした。

「でもなんかやるぞ。でっかくないことを」

 どうせならでっかいことをやれよ、と俺は思った。
 まあ、好きなことをすればいい。どうせ俺たちはあらかじめ悪者なんだから。
 せいぜい自分勝手にやるといい。

 それ以来ハカセとは、ほとんど会話していない。
 でも、ときどき彼のことを思い出す。そういう存在なのだ。

421:2012/05/16(水) 00:13:06.28 ID:




 ある平日の夕方、俺が部屋で昼寝から目覚めると、不意に携帯のコール音が鳴り響いた。
 電話に出ると、その声は小さくてまったく聞き取れない。

「聞こえない!」と怒鳴り返す。何度もそれを繰り返していると、電話が切れた。

 着信履歴をのぞくと、どうやら妹からだったらしい。

 帰ってきた妹は、俺が大声を出したのがいやだったのか、ひどく不機嫌だった。
 携帯が不調らしいというと、調子を確かめるために協力してくれた。

 俺は一階のリビングにいた。妹は二階の自室にいった。電話を掛ける。ワンコールで出る。
 やはり音声が聞こえない。「え?」と俺は大声で訊き返す。妹は通話を切る。

 戻ってきた妹は涙目で俺を睨んだ。大声を出されたのが相当いやだったらしい。
 どうやら、携帯が壊れていたようだ。

 ――ひょっとしたら、と俺は思った。

422:2012/05/16(水) 00:14:00.86 ID:



 当然だが、現実に帰ってきた俺のそばに、やっぱり後輩はいなかった。
 あのときのあれが、やっぱり最後のお別れだった。もう少し気の利いたことのひとつでも言ってやるべきだったかもしれない。
 
 お前が好きだとか(それは言った)。
 お前にそばにいてほしいとか(似たようなことは言った)。

 気が利いているかどうかはともかく、まぁ悪いお別れではなかったのかもしれない。
 いずれにせよ彼女は傍にいない。
 
 寂しくないのはどうしてだろう。

 彼女のことを思うと胸が詰まる。けれど、それでもどこかに、甘酸っぱいような幸福感があった。
 つまり、そういう存在なのだ。俺にとって彼女は。

423:2012/05/16(水) 00:14:29.13 ID:



 シラノはヤガタに殺されかけた。と、その年の冬、俺はシラノ本人から聞いた。
 彼女はかなり危険な目にあったそうだが、黒スーツに助けられたという。

 やっぱり、物事はそんなに単純にはできていない。
 そのことを嬉しく思うのは、ちょっと無神経だろうか。

424:2012/05/16(水) 00:14:59.47 ID:



 今でも妹のすすり泣く声が壁越しに聞こえる夜がある。
 俺はそのことに気付いても、やはり何かをしてやれる気がしない。

 だって彼女の悲しみは彼女のものなのだ。
 俺にできるのは、彼女を泣かせないように努力することだけで、泣きたいときはどんな状況だろうと泣いてしまうものだ。
 俺はその数を減らしてやれたらいいと思う。
 少なくとも、俺を原因に涙を流すことがなくなればいいと。

 世界中の人が周囲の人間に対してそういう態度でいられたら、ひょっとしたらこの世の中の悲しみはずいぶん減るんじゃないだろうか。
 そんなことを大真面目に考えたりした。

425:2012/05/16(水) 00:15:44.97 ID:



 自転車を漕いで、携帯ショップに向かう。携帯の修理だ。
 
 受付の女の説明はよく分からないが、とにかく音声が小さくなっているらしい。設定ではなく機器の問題だという。
 俺は携帯を預けて、代替機を借りた。
 五日後、携帯は新品同様の姿で帰ってきた。

 俺は帰ってきた携帯をめいっぱい充電した。

 メールが届く。返す。電話が来る。出る。電話を掛ける。繋がる。

 たったそれだけのことが、あれだけ込み入っていたのだ。
426:2012/05/16(水) 00:16:14.44 ID:




 秋を過ぎ、冬を過ぎ、春になっても、俺は足しげく屋上に通った。
 誰もいない場所。閉ざされ、開かれた空間。俺はそこで考えごとに耽る。

 結局のところ俺はそういう性質の人間だろう。趣味なのだ。考えるのが。
 だいたいネガティブなことを考える。でも、あんまり落ち込んだりはしなくなった。
 ネガティブさを楽しめるようになった。だんだんとそういう情緒を理解していく。

 これを成長というのか老いというのかは分からないが、昔は受け入れられなかったことを、今なら簡単に受け入れられるような気がしている。
 頭が柔軟になったのだ、と思いたい。

 時間が経つにつれ、若返っているような気がした。

427:2012/05/16(水) 00:17:02.53 ID:




 半年後の春先に俺はコンビニでバイトを始めて、煙草の銘柄やレジ打ちの仕方を覚えるのに四苦八苦した。
 ピーク時の混み合いはひどいもので、俺はすぐに混乱してわけがわからなくなってしまう。
 それでも先輩に教えられ、助けられながら、なんとか続けていくことができた。

 思えば不思議なことだ。俺はどうしてコンビニを選んだんだろう。
 おそらく、俺が一番苦手とするジャンルの仕事だ。

 でも俺は選んだのだし、それは多少なり俺自身に変化をくわえたような気がする。
 あるいは、変化したと思いたいだけかもしれないが。

 いずれにせよそういった種類の変化を繰り返すにつれ、思うところがあった。

 あの“ズレ”について。

428:2012/05/16(水) 00:17:28.59 ID:




 魔法使いは春に街を去った。
 別れの日、彼女は早朝、スクーターにリュックサックだけを背負って去って行った。

「いい経験になったよ」
 
 彼女は笑う。

「それならよかった」

 と俺がおどけると、「調子に乗るな」とまた笑った。

429:2012/05/16(水) 00:18:05.15 ID:

「結局さ、アンタは何も説明してくれなかったし」

「説明が欲しかった?」

 俺が訊ねると、彼女は眉を寄せた。

「どうだろ。別に、まぁ、なんつーか、あそこで起こったのってさ、感覚的なことだし」

 感覚的、と俺は思った。その言葉が既に感覚的である。

「まあ、元気にやりなよ。アンタに会えてよかったよ。八割くらいはね」

 彼女は笑う。
 そうして俺たちは別れた。みんな去っていく。
 俺は寂しいようで、寂しくないような、妙な気持ちだった。
 
 孤独というものは、ひとりぼっちでいることではなく、これから先もひとりぼっちに違いないと感じたときに存在するものなのかもしれない。
 少なくとも、俺は今ひとりだが、家に帰れば妹に会える。その気になればいろんな人に会える。
 一人じゃないというのは、たぶんそういうことだ。

430:2012/05/16(水) 00:18:39.80 ID:




 秋の終わりごろ、公園のベンチの下で、一匹の捨て犬を拾った。家に連れて帰って、そのまま飼うことになった。
 少なくとも捨てまい。と思っていたのだが、親にはあまりいい顔をされなかったし、金はやたらかかる。
 バイトを始めることになったのは、結局のところそういう事情もあった。

 犬の名前は妹がつけた。由来はきかされていないが、少なくともまともな名前だ。犬にまともな名前をつけるというのも少し可笑しい。

 春には、ときどき妹と母が一緒に散歩に連れて行った。

 俺は彼女たちが家を出ている間、自分の部屋の窓を開いた。すると気持ちのいい風が吹き込んでくる。
 どうせなのでドアを開ける。二階の廊下に風が吹いていく。俺は妹の部屋の扉、両親の部屋の扉を開けた。
 ついでに二階の廊下の窓を開けた。

 風が通り抜ける。空気が入れ替わる。

431:2012/05/16(水) 00:19:07.95 ID:




 俺は文化祭の前に一本の小説を書き上げた。くだらない小説だった。
 誰も俺の小説を面白いとは言わなかった。本当のところ誰も読んでいないのではないかと今でも思っている。
 けれど部長は俺を褒めた。読んだのかどうかは信用していない。

 彼女は引退して、俺が部長になった。なんでだよ、と俺は思った。普通は二年がやるもんだろ、と。
 でも、そういえば文芸部に二年の生徒はいなかった。

 俺は、かくして部長になったのだ。
 
432:2012/05/16(水) 00:19:45.15 ID:




 ある予感が、ずっと胸のうちにあって、その予感は二年後の春になってから、より鮮明になった。
 その日、俺は妹と街へ繰り出して、ホームセンターにペットボトルのジュースを箱買いしに出かけていた。
 春休みの、最後の一週だった。

 妹も高校にあがる春だった。時間は過ぎていく。ハカセはとっくに進学していた。
 俺は徐々にトンボを考えても涙を流さなくなった。悲しくなくなったのではなく、慣れてきたのだ。彼のことを考えることに。
 そうすると、不思議と、彼としたやり取りや、彼の仕草のひとつひとつ、彼のふとした言葉を思い出すようになった。
 忘れていたはずの記憶が、何度となく反復され、触発され、思い出されている。

 俺は知っていたようで知らなかったトンボのことを思い出していく。

 俺たちは帰りに、駐車場にとまっていた移動販売のタイヤキ屋でカスタードクリームのタイヤキを買った。

433:2012/05/16(水) 00:20:17.52 ID:

 俺と妹は、しばらく肌寒い駐車場で話をしていた。どうでもいい話だ。そういうタイミングがある。
 こうした時間をとれるようになったことは、いくらかの変化を示しているかもしれない。

 無駄なことなどなにひとつない、と言うか、無駄なことがあってもいい、と言うか。

「あってもいい無駄」は既に「無駄」ではないので、やっぱりどっちでもおんなじことだ。

 ふと、駐車場にとまっていたオデッセイから一人の少女が下りてきた。見知らぬ少女。
 彼女は鯛焼きを五個注文した。家族の分だろうか。

 クリーム三つ、あんこ二つ。俺は何の気なしに彼女の顔を見る。

 風が吹く。彼女の髪が揺れる。

 不意に彼女が振り向いて、目が合った。

 俺は急に泣き出したい気持ちになった。懐かしいような、寂しいような気持ちで、胸から何か強い鼓動のような感覚が突き抜けてくる。
 心臓が強く鼓動した。

 彼女は一瞬、目を見開いて、息を呑み、おそるおそるといったように口を開いて、

「きいくん?」

 と言った。

434:2012/05/16(水) 00:21:19.75 ID:




 彼女は俺と同じ学校に入学した。妹と同じ学年。
 俺は高三で、彼女は高一で、妹と同い年で、つまりは後輩だった。
 
 俺は最初、彼女とまともに話せる気がしなかった。いまさらどんなことを言えるというのだろう。
 予感が現実のものになったことには、喜びよりも呆れのような感覚しか出てこない。そういうものなのだ。
 あまりに唐突な出来事は、驚愕を通り越してあきれしか運んでこない。

 俺は何もかもを喜ぶことはできない。誰も彼もについて祈ることができない。
 今も、胸を焦がすような憤りはなくなっていない。あの漠然とした怒りの感情は。
 あのカリオストロが俺の胸の内に住んでいるのか、と大真面目に考える。
 おそらくはあれすらも俺の一部だったからだ。

 自己完結。そういうものだった、と納得すること。

 それでも、彼女とふたたび会えたことが、俺はたまらなく嬉しかった。
 俺は彼女のことが好きだったからだ。

435:2012/05/16(水) 00:22:02.04 ID:




「話、聞いてますか?」

 緑色のフェンスの向こうで、桜の花びらが散っていた。
 春も終わるのか、と俺は思った。道路に散らばった花びらが、絨毯みたいに見えた。

 風が木々揺らす。ざわめき。世界中が静けさに包まれている気がした。

「何の話だったっけ?」

 と俺は真剣に問い返す。ふと気付くと物思いにふけっていて、人の話を聞かないことが多くある。
 あんまりコミュニケーションは得意じゃない。それでも自分なりに、うまくやろうとしているのだが。

「もういいです」

 と彼女は拗ねたように言う。彼女が敬語を使うようになったのは入学してからすぐだった。
 こそばゆい、といっても、やめてもらえなかった。そのうち慣れるのだろうが、今はなんだかくすぐったい。

 俺と彼女は、例の切り株に腰かけて、昼食を共にしている。昼休み。

436:2012/05/16(水) 00:22:28.36 ID:

 俺は今、間違いなく幸せだった。 
 けれど思う。この土の下には、あの手首が埋まっているのだ。
 俺たちはあの手首の上に座っているのだ。死の上に立っているのだ、と。
 
 誰が忘れても、俺だけはそのことを忘れてはいけないのだ。

 後輩は溜め息をついて、呆れたように言う。

「もう、やめたくなりましたか?」

「何を?」

 彼女はじとっとした視線をこちらに向けた。

437:2012/05/16(水) 00:23:07.07 ID:

「また逃げちゃうのかと思って」

「また」、と彼女は強調した。

 俺は笑う。

「大丈夫だよ」と俺は言った。

「何の問題もないんだ」

 心からの言葉だった。こんなにもするりと言葉が出てきたのは、いつぶりだろう。
 妹の声が聞こえた。こちらに駆け寄ってくる。

 耳の奥の啜り泣きは未だに鳴り止まないけれど、少しずつ回数も時間も減っていった。

 風が吹く。桜の花びらが舞う。
 春が終わるのだ、と俺は思った。

 そうして、また夏が来るのだ。

438:2012/05/16(水) 00:23:34.10 ID:
おわり
439:2012/05/16(水) 00:34:02.04 ID:
乙です
楽しく読ませて頂いた
442:2012/05/16(水) 06:45:22.90 ID:
乙!
おかげでここ一ヶ月楽しかったよ!
443:2012/05/16(水) 17:38:30.02 ID:
1乙乙
長かったよな
444:2012/05/19(土) 18:19:33.12 ID:
乙でした!!
こんな素晴らしい作品に出会えて幸せですわ
445:2012/05/19(土) 20:05:59.37 ID:
読み終わった
綺麗な読後感が素晴らしい
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