1:2012/04/24(火) 23:21:11.11 ID:


「もうやめたくなりましたか?」

 と後輩の声がした。咄嗟に反応できず彼女の顔を見返すと、ひどく不安そうな表情をしている。

 最初に視界に入ったのは緑色のフェンスと、その向こうの道路、そこに舞う桜の花びらだった。
 俺たちふたりは、どうやら一緒に昼食をとっていたらしい。
 後輩の膝の上にはコンビニのレジ袋が置かれていて、彼女はその中からサンドウィッチを取り出しているところだった。
 
 何の話をしていたのかは思い出せない。彼女の切羽詰まった表情を見るに、大事な話をしていたのかもしれない。
 俺は一瞬とまどったが、それでも思い出せないものは仕方がないと割り切り、適当にごまかすことを決めた。

「いや」

 曖昧に返事をすると、後輩は眉間に皺を寄せる。怒るというよりは訝るような仕草だ。何かしくじったのかと考えたが、それならそれで構わない。
 適当にごまかしておけば、大抵のことは問題にならない。要するに、どれだけ上手にごまかすかが問題なのだ。
 いつでもどこでも、変わらない。


2:2012/04/24(火) 23:21:47.82 ID:

 彼女は諦めたように視線を落とし、サンドウィッチを口に運ぶ。
 その様子を横目で警戒しながら、俺は周囲をうかがった。
 
 場所はおそらく、うちの学校の体育館裏だろう。大きな切り株があって、俺と後輩はそれを椅子代わりにしていた。
 この場所でこんなふうに昼食を共にすることがあった。この日もそうだったということだろう。
 敷地を示すフェンスがすぐ傍にあって、その向こうは道路に面していた。

 俺は舌打ちをしたい気持ちをこらえ、道路に舞う花びらに目を向ける。

 付近に視線を巡らせると、やはり桜が咲いていた。枝を疎ましいほど広げ、花びらを路面に汚らしくまき散らしている。
 どうやら春らしい。こんなことは初めてだった。

 度を越えた驚きは、衝撃よりも呆れや可笑しさをもたらすものだが、俺は笑うに笑えない。もはや慣れてしまったということもある。
 
 後輩は何も言わなかった。何かに気付いた様子はない。
 結局はそういうことだ。俺が何かを忘れても、見失っても、誰も困らないのだ。
 外側さえ取り繕ってしまえば、誰も中身の変化なんて気に掛けない。そういうことがこの世にはごまんとあるらしい。
3:2012/04/24(火) 23:22:15.46 ID:

 今度は春か、と俺は思った。さっきまでは夏だった。……いや、九月だったから、秋だろうか? 夏休みが終わった直後だから、まだ夏かもしれない。
 まぁ、九月が夏だろうと秋だろうと、どちらでもかまわない。いずれにせよ、ついさっきまでは九月だったことには変わりない。

 ここ最近――六月の半ば過ぎから九月上旬まで――の俺には、こういうことがよくあった。
 
 時間の流れが、"現在"から、まったく別の季節、日、時間へと入れ替わってしまうのだ(こうとしか表現できない)。

 後輩に話し掛けられる直前まで、俺は九月八日土曜日にいた。桜はとっくに散っているどころか、葉桜も盛りを終えている。
 それにも関わらず、ここには桜が咲いているのだから、今は九月八日とはまったく違う日なのだろう。こういうことが三日に一度は起こった。

 はじめは一日、二日のズレで、おかしいなと思いながらも気のせいだと忘れていたのだが、週単位、月単位で"ズレ"るとさすがに気付かずにはいられない。

 七月から六月へ、八月から九月へ、そして今回、九月から四月へ。俺の意識は突然、過去の経験とも未来の映像ともつかない場所に迷い込んでしまう。
 記憶と記憶とのつながりが混線しているようで、その行き来は無秩序で唐突だ。
 現実にあったことか、と言われると、経験した覚えはない。では未来かというと、過ぎてみても"ズレ"で見たことが必ずしも実際に起こったわけでもない。
 もちろん符合するときもあったが、ただの偶然と受けとめたほうがよほど自然だ。
4:2012/04/24(火) 23:22:53.10 ID:

 ただの白昼夢であると考えるのがいちばん自然だが、それはそれで困ったことになる。

 俺の中には、

「これは夢ではない」

 というたしかな確信があった。もちろん自分自身の確信なんて根拠のあるものではない。疑わしく思うところもある。
 けれど、

「これが現実ではない」

 ということにするには、この"ズレ"はあまりに現実味がありすぎた。ほとんど(まったくと言ってもいい)現実と変わらない手触りなのだ。
 
 これを「現実ではない」ことにしてしまうと、今度は、どこからが現実で、どこからが現実でないか、その区別がまったくつかなくなってしまう。
 人は「ここまでが現実で、ここからが妄想である」という区別を失っても生きていけるものだろうか?
 不可能ではないが、困難ではあるだろう。

 だからこそ、俺はこの"ズレ"を現実だと信じざるを得ない。
 そうしなければ現実の自明性が失われ、この"現実"よりもっとおそろしいどこかに引きずり込まれてしまうような気がした。
 
5:2012/04/24(火) 23:23:24.39 ID:

 世の中に不思議なことはありふれているが、それも話で聞くのと自分の身に降りかかるのでは話がまったく違う。
 最初は何が起こっているのかと不安に思ったものだが、何度も繰り返しているうちに慣れてきた。
 より正確に言えば、気付いたのだ。この"ズレ"が何かをもたらすものではないということに。

 一ヵ月先に行ったところで、一ヵ月前に行ったところで、どこにもいかなかったとして、何の問題もない。
 俺がやることは、いつでもどこでも、変わらず同じ。周囲に適当に合わせればいい。
 別に相手の話をすべて聞くこともない。仮に何かを勘付かれて、怒らせたり悲しませたりしても、それだけの問題だ。
 
 この"ズレ"があろうがなかろうが、俺は誰かを怒らせるだろうし、悲しませるだろう。
 どちらにしても変わりない。

 幸いにもこの"ズレ"は少し時間が経てば収まり、俺は元いた時間に戻れる。
 やり過ごせばいいのだ。やはり、現実と変わらない。
 
 ただ、周囲に合わせる。適当にごまかす。可能な限り上手に。失敗しても、またごまかせばいい。
 そうすることの何が悪いだろう? どうせ俺は誰からも必要とされていない人間なのだ。
 誰かが俺に話しかけるとしても、それはマネキンに話しかけるようなものだ。答えを期待されているわけじゃない。
 
 俺の返事が上辺だけだろうと本心だろうと、聞く相手は都合の良い方がうれしいのだから、せいぜい相手に都合の良いように返事をすればいい。
 可能なかぎり上手に、矛盾がないように。

 それで十分なのだ、俺以外の人間にとっては。

6:2012/04/24(火) 23:24:07.38 ID:

 不意に、隣に座る後輩が顔を上げた。俺は面食らってのけぞる。
 彼女は懇願するような表情で、「大丈夫ですよ」と言った。

「忘れないでください」

 俺の頭には一抹の罪悪感がよぎったが、それも一瞬だけだった。

 もはや、自分の中からは、さまざまなものが失われつつある。そのことを強く感じた。
 そして俺自身でさえも、もう何もかも失くして空っぽになってしまいたいと思っているのだ。

 もう、うんざりだ。こんな場所に居続けることは、もう無理だ。
 ここにはもう居たくない。楽になりたい。消えてなくなってしまいたい。

 いつまでこんな、果てのない砂漠のような場所を孤独に歩き続ければいいのだ?
 喉の渇きはいくら歩いたところで満たされるわけがないというのに、なぜ歩き続けなければならないのだろう?
 熱砂に沈み、干からびるのを待つ方がよほど理性的だ。
 どうせ何もかもが過ぎ去っていくだけのものなのに。
 
 こんな生活がいつまで続くというのだろう。

「大丈夫」と俺は嘘をついた。

「何の問題もないんだ」

 これは本当だ。何の問題もない。期待には応えてやればいい。答えられないなら、せめて、見破られない嘘をついてやればいい。
 それだけだ。それ以上のことは、何ひとつ期待されていない。ただそれだけのことなのだ。

7:2012/04/24(火) 23:24:41.64 ID:




 もし「校内でいちばん指が綺麗な男子は」と問われたなら、迷わず「トンボだ」と答える。
 そういうマニアックなランキングをつけたがる人間がいるのかどうかはさておき、彼の指はおそろしく綺麗だった。

 ともすれば女性か、女性的な男性に見まごうほどだ。
 全身を見れば身長や骨格から性別が分かるが、指だけを見ると手の大きな女みたいに見えた。

 顔つきも整っているが、中性的というよりは男性的な整い方をしている。
 運動と勉強は並よりちょっと上程度で、容姿と誠実でとっつきやすい性格が相まって人望も篤い。

 彼の指を見るたびに、ひょっとしたら人柄というものは指にも出るのかもしれないと真剣に思う。
 彼は正直で、潔白で、おおよそ罪悪というものに縁がない。少なくともそういうふうに見える。

 罪がないというのも一種の罪ではあるのだろうか。それを除けば彼に悪いところは見つけられそうもない。
 もちろんトンボだって失敗はする。間違ったことも言う。けれどそれは別に悪いことではない。

 動物を食べることが悪であり、人間はもともと悪い存在である、などと元も子もないことを言い出さない限り、彼はまったく正しい人間だ。

8:2012/04/24(火) 23:25:11.63 ID:

 俺とトンボは同じ部活に所属している。小学校の頃からずっと一緒のクラスだ。 
 そういう面だけ見れば、トンボと俺はかなり長い付き合いになる。だが、あくまでそれは表面上の話だ。

 毎日のように顔を合わせているにも関わらず、俺は彼と三回しか話をしたことがない。

 会話とも呼べないような会話ならもっとあっただろうが、一対一の会話は三回だけだ。
 それは俺とトンボの関係が特別に険悪だったというわけではない。
 仲が良くないクラスメイトとの関係なんてそんなものだし、一対一で会話をする機会なんて、仲が良くてもそうそうない。

 もともと俺は社交的な方ではないから、自分から誰かに話しかけたりしないし、トンボは来るものは拒まないが来ないものは呼ばない。去るものも追わない。
 相性の問題だ。お互い嫌いあっているわけではない。けれど話すことが少ない。そういう関係が確かにある。

 三回のうちの一回は今の学校に上がってから。今年の四月くらいのことだ。

 トンボが同じ部に入ったことに気付いた俺が、挨拶のつもりで話しかけると、彼は気まずげに微笑した。
 眉を顰めながら口角を釣り上げた表情は、そう見せるつもりはなかっただろうが、どこか蔑むようにも見えた。

9:2012/04/24(火) 23:25:47.20 ID:

 お前がこんな部に入るなんて意外だと言うと、今度は自然な微笑を浮かべ、

「そっちは別に意外じゃないね」

 と言った。

 その言葉になぜか気分がよくなって、俺は話を続けた。

「どうして入ろうと思ったんだ?」

「たぶんそっちと一緒だよ」

「一緒って?」

「ときどきはね、じっくり休める時間が欲しかったんだ」

 俺はこの言葉にかなり驚いた。
 これでは普段は休めていない、くつろげでいない、と言ったも同然だ。
 "品行方正な"トンボが自然なものではないことを認めるのと変わらない。

10:2012/04/24(火) 23:26:14.50 ID:

「意外だ」と口に出すと、彼は照れくさそうに笑って、「そうでもないだろ」と言った。

 たしかに、そうでもない。
 子供時代から品行方正だったトンボの本心を、俺は以前からかなり疑わしく思っていた。
 もちろん自分が勝手に感じているだったが、彼の仕草は、どうも意識的に"いいひと"であろうとしているように見えたのだ。
 悪いことではないので、そのことでトンボを嫌ったりはしなかったが、彼自身はかなり無理をしていたのだろうか。

 どれだけ善人であろうと、どれだけ品行方正であろうと、どれほど理路整然としていても、必ず誰かには嫌われる。
 トンボほどの人間でもそれは変わらない。
 
 ある程度の努力を、ある程度の時間払い続ければ、ある程度の願いは叶う。
 そうしてトンボは善人になった。その結果、何を得たかったのかは分からない。
 それでも嫌われることはある。努力の限界だ。

 ひょっとしたら、そういうことが嫌になったのかもしれないと俺は思った。もちろん憶測でしかなかったが、たいして外れてもいないだろう。

「なんだか嫌な気持ちになってきた」
 
 トンボは独り言のように言った。

11:2012/04/24(火) 23:27:10.82 ID:

「なにが?」

「自分が」

 彼がなぜこんなことを話す気になったのか、俺にはまったくわからなかった。

「どうして?」

「あんまり説明したくない」

 俺は不意に思いついて疑問を投げかけた。

「ねえ、お前ってさ、人を嫌いになったこと、ある?」

 トンボはほとんど表情を変えずに答えた。

「あまりない。そういうことは考えないようにしているし、考えそうになっても言葉としてまとまらないように自制してる」

「そうなんだ」

 やっぱり、と言いかけたがやめておいた。

 気疲れしそうな生き方だと、そのときの俺は思ったものだ。

12:2012/04/24(火) 23:27:47.96 ID:




 トンボは「ときどきは休みたかった」と言った。「そっちと一緒だよ」とも言った。
 でも、俺は別に休みたくはなかった。休むというなら最初から最後まで休んでいたし、それで困っていなかった。

 だから、彼の言葉は少しだけ的外れだったのだ。

 俺とトンボが入部した自然科学部は、部活動強制所属のうちの学校で、活力のない学生が生き残るための受け皿だ。
 現在の部員数は五名。そのうち男子が三名、女子は二名。

 三年の"ハカセ"が部長をやっている。彼も同じ小学校出身で、昔はよく遊んだりもした。
 もちろん、長い空白期間を挟んだあとでは、ただの先輩となってしまったのだが。

 自然科学部の活動は至ってシンプルだ。

 何もしない。

 部員たちは好きなように過ごす。話をしてもいいし、話をしなくてもいいし、何かしてもいいし、何もしなくてもいい。
 ただ、週に一度、水曜日に必ず部室を訪れ、下校時刻までぼんやりと過ごせばいい。
 
 活動の成果を求められることはないし、顧問もめったに部室に出てこない。

13:2012/04/24(火) 23:28:35.06 ID:

 ただぼんやりと過ごす。これはなかなかの苦行だ。

 他の人間は、熱心に部活動に打ち込んだり、勉強に励んだり、あるいは友人関係や恋愛に夢中になったりしている。
 そんな有意義な時間の過ごし方を外側からぼんやりと見ていると、強い不安や焦燥に駆られる。

「このままでいいのか?」

「何もしなくてもいいのか?」

「本当にいいのか?」

 現に、今年の春、俺たちと同時期に自然科学部に入部した男子は、一ヵ月もしないうちにやめてしまった。
 あるいは沈黙続きの部室に居続けることを苦にしたのかもしれない。真相は分からない。

「無意義に過ごす」を自覚的に行うのは、なかなかに難しいところがある。

14:2012/04/24(火) 23:30:43.58 ID:




 俺は校舎の屋上に寝転がっていた。太陽が燦々と輝き、空は青く、遥かまで澄んでいる。
 下の階でどこかのクラスが音楽の授業をしているのだろう、合唱曲の歌声がぼんやりと聞こえた。

 屋上にいるのが好きだった。一日中ずっと寝そべっていてもいいくらいだ。
 雨が降ってもきっと気にならない。それくらい、俺にとって屋上は特別なスペースだ。

 どうしてこんなに安心するのだろうと、何度も考えたことがある。
 その結果、この場所のいくつかの特徴がそう感じさせるのだろうと納得した。

 屋上という場所はかなり特殊だ。
"屋内"ではないが、"屋外"でもない。限りなく開かれているにも関わらず、ここからはどこにも向かえない。
 つまり一種の閉鎖空間だ。
 
 この開かれ閉ざされた空間に、俺は不思議なほどの安堵を抱く。いつからそうなったのかは思い出せない。 
 とにかく俺にとって、屋上はそういう空間だ。この場所でだけ、俺は安らぐことができる。……静かに眠ることができる。
 この"外"でもなく"内"でもない場所でこそ。

15:2012/04/24(火) 23:31:32.91 ID:

 ここにいる限り、俺はずっとひとりきりだ。孤独というものはある種の安心を伴う。
 
 闖入者がいるとすれば――おそらくは、鳥か虫か。あるいは、もっと別な何かだけだろう。

 "スズメ"はたぶん、そういう存在だ。そんなことを真剣に考える。

 俺の心を読んだわけでもないだろうが、スズメは屋上の鉄扉をくぐった瞬間、こちらに向けて声を掛けた。
 柔らかな風に長い髪が揺れる。無造作に広がった髪と風に揺れる制服。彼女の姿は何かの映画の主人公のようにすら見えた。

「どんな具合?」とスズメは笑った。

「至って快適だよ」と俺は答えた。
 
「ずっとここに居てもいいくらいだ」

「本当に?」

「……本当に」

 彼女は透き通った笑みを浮かべた。俺の言葉に反応したわけではないだろう。いつもこうだ。
 彼女と話をすることは、鏡と話すことと似ている。
 彼女から何かを言ってくることはない。こちらの話をちゃんと聞いているのかだって怪しい。

16:2012/04/24(火) 23:33:17.06 ID:

 それでも俺は、スズメに対して可能なかぎり正直であることを心掛けている。
 なぜだったかは忘れてしまった。……近頃はずっとこうだ。自分がいつから屋上にいるのかさえ判然としない。分からないことが多すぎる。
 
 俺は立ち上がって、制服を叩いて埃を落とした。

「もう行くの?」

 スズメは表情を変えずに行った。もし俺以外の人間が見たなら、彼女のこの態度を不気味にさえ思うかもしれない。
 実際、俺自身も、彼女を空恐ろしく感じることがある。何の感情も示されていないような表情は、マネキンが動いているようで、ひどく無機質だ。

「いや」

 それでも、すぐにこの場を離れる気にはなれなかった。
 
 気分は穏やかだった。朝、まどろんだまま布団にくるまっているときのようだ。
 あとちょっとだけだ、と俺は思った。
 あとちょっとだけだから、ここに居てもいいだろう?




 もちろん、そんなふうに面倒なことを先送りしていると、物事はさらに面倒になっていく。

17:2012/04/24(火) 23:33:46.78 ID:



「例の噂、聞いてない奴はいるか?」

 ある水曜、部室には五人の部員全員が勢揃いしていた。
 ハカセはホワイトボードの前にパイプ椅子を四つ用意し、全員に座るように言った。
 
 俺たちは怪訝に思いながらも従った。ミーティングなんてそれまで一度もやったことがなかったし、これからもないだろうと思っていた。
 どういう風の吹き回しかは知らないが、この状況は俺にはあまり喜ばしくない変化だ。

 ハカセはホワイトボード用のマジックペンをくるくる回しながら話を続ける。

「例の。旧校舎の」

 友人のいない俺は、噂と言われてもピンとこない。黙って話の動きをうかがっていると、後輩が口を開いた。

「あれですか。例の。鏡の」

 彼女の言葉に頷き、ハカセが話を再開しようとする。慌てて口を挟もうとしたが、それより先にシラノが声をあげた。

「すみません、噂って何の話ですか?」

18:2012/04/24(火) 23:34:25.64 ID:

 ハカセは呆れたような溜め息をついた。

「シラノ、お前、友達いないのか」

 歯に衣を着せぬ物言いだ。良いことか悪いことかはわからないが、ハカセは子供の頃からずっとこうだった。
 オブラートというものはどこかに落としてしまったらしく、相手が傷つこうが悲しもうがおかまいなしに思ったことを言う。

 彼自身は傷つけようとしているわけでもなく、自然とそうなってしまうらしい。
 一時はその癖を直そうと努力していたようだが、そうすると今度は反対に自分の意思を表明できなくなってしまうという。極端な奴だ。
 そのことで誤解されたり、嫌われたりすることが今でもあるらしい。

 俺は彼のそういうところが好きだった。ぶっきらぼうで遠慮のない、威風堂々とした態度が好きだった。
 だからといって、俺が彼に特別な親密さを感じているということにはならない。

 どちらかというと苦手意識の方が強かった。
 ハカセと一緒にいると、俺は自分の意思表示の稚拙さや、あるいはもっと根本的な幼児性に気付かされる。
 なぜかは分からないが、そうさせる何かが彼にはあるのだ。あるいは、そうなってしまう何かが俺にはあるのだ。
 だから俺は、彼と目を合わせて話をするのが苦手だった。

19:2012/04/24(火) 23:35:34.18 ID:

「失礼な」

 彼女はハカセの言葉に眉をひそめた。

 シラノは俺と同じクラスに所属していて、自然科学部の数少ない女子部員(といっても一人しか違わないが)でもある。
 彼女の声は、どのような場面で聞いてもすこし間抜けな響きを持っている。
 本人はいたって真面目なのだが、舌足らずなのかなんなのか、独特の響きをもってしまうのだ。
 そのせいで誤解されたり、嫌われたりしたことが何度もあるという。
 
 俺は彼女の声が好きだった。愛らしくてそっけない、繊細そうな声音が好きだった。
 だからといって、俺が彼女に特別な感情を抱いていることにはならない。

 どちらかというと苦手意識の方が強かった。
 彼女といると、妙に緊張してしまう。彼女の表情は、笑顔であろうと無表情であろうと俺を不安にさせる。
 なぜかは分からないが、そうさせる何かが彼女にはあるのだ。あるいは、そうなってしまう何かが俺にはあるのだ。
 だから俺は、彼女と正面切って話すのが苦手だった。

「いますよ、友達ぐらい」

「だったら噂くらい聞くだろう?」

「友達はいるんですけど、ガラパゴス化したというか、なんというか」

「つまり?」

「友達ごとクラスで浮いてるんです」

20:2012/04/24(火) 23:36:01.14 ID:

 彼女の言ったことは半分くらいは本当だ。
 たしかに彼女は、教室では二人の女子としか会話しない。けれどそれは浮いているわけではなく、敬遠されているのだ。
 
 学年の中でも断トツの容姿を誇るシラノとその友人ふたりは、女子の中でどう扱われているかはしらないが、男子の中ではかなりの人気者だ。
 不思議と彼女たちに声を掛ける男はいないが、クラスメイトたちがシラノの話をしているのを、俺は何度か見かけた。
 評判はかなりいい。だからこそ、女子の間では浮いているのかもしれない。
 男子の中にも彼女に話しかける者はいないから、本人にしてみれば、クラス中から避けられているのと変わりないのかもしれない。
 
 いずれにせよ、もともと友達のいない俺にはどうしようもないところだ。

「ジョーは?」

 ――ハカセは俺のことを"ジョー"と呼んだ。なぜかは知らない。いつからだったかも覚えていない。
 何か理由があった気がするが、大したことではないだろう。
 最初はどうにも間抜けなのでやめてほしいと思っていたが、今ではどうでもよくなった。

 馬鹿らしいあだ名だが、その名で呼ばれたところで俺が損をするわけでもない。
 名前なんてなんでもかまわない。なんなら数字でもいい。どうせ大した意味などないのだから。

「俺も知らない」

 正直に答えると、ハカセはふたたび溜め息をついた。こいつは一日に何度くらい溜め息をつくのだろう。

21:2012/04/24(火) 23:37:11.25 ID:

「お前ら、もうちょっと社交的になれよ」

「わたしはいつでも社交的なつもりですよ。誰でも話しかけてくださいって感じです」

 シラノはおどけて言ったが、誰も笑わなかった。ひとしきり空々しく笑った後、彼女は結局口を噤んだ。
 
 ハカセは社交的になってどうしろというんだろう。いまさらトンボのやり方をまねて上っ面の付き合いを広げてもどうにもならない。
 所詮、友人なんて必要不可欠なものではない。なくても困らないなら、手間を惜しんでも問題ない。
 もちろんいるに越したことはない。いてほしいときもあるだろう。
 けれど、何もしなくても時間は流れる。そうである以上、多くの問題はやり過ごすことができる類のものなのだ。
 
 俺がトンボと同じことをやろうとしても、すぐに飽きてしまうだろうと思う。
 それとも彼が言う噂というのは、その労力に見合うほどの価値を持つものなのだろうか?

22:2012/04/24(火) 23:38:06.50 ID:

「お前は知ってるか」

 ハカセはトンボに水を向けた。

「まあ、少しは。あれだろう、旧校舎の階段の、大きな鏡」

 トンボはすらすらと答える。彼の話し方は穏やかで落ち着いていた。その口調は、いつも俺の心を強く波立たせる。
 なぜなのかは分からない。俺はトンボに、理由はわからないが、奇妙な親近感を抱いていた。
 もちろん俺と彼との間に類縁性と呼べるものが少しもないことは自覚していたし、この親近感が単なる錯覚にすぎないだろうとも思ってはいた。
 それでもなぜか、俺はトンボに妙な興味を抱いていた。

 だからといって、彼が俺にとって特別な存在だという話にはならない。

 俺にとってトンボは、多くの人間と変わりなく単なる他人でしかなかった。
 そもそも俺は、彼という人間と長い時間一緒にいるのが苦手だった。

23:2012/04/24(火) 23:38:37.61 ID:

「それ」

 ハカセはトンボの答えに頷く。トンボは続けた。

「人が消えるって奴だ。鏡に呑まれて。神隠し」

「その通り」

 ハカセは満足そうに頷いた。

「そういう怪談がね、流行ってるわけ。学校で」

 俺とシラノに向けて言うと、ハカセはマジックを机に放り投げて両手をパンと鳴りあわせた。

「これさ、俺たちで調べてみない?」

 何か妙なことを言い出したぞ、と俺は思った。

24:2012/04/24(火) 23:40:06.09 ID:





 逢魔が時の旧校舎は「冥界」に繋がっている。そういう噂があるのだ。そのことを俺はよく知っていた。
 噂なんて聞いたこともないはずなのに、どうしてか、よく知っていた。

 厳密には、この「神隠し」は七不思議のひとつとして数えられる。

 空が茜色に染まった頃、旧校舎に忍び込み、校舎の東側の階段の踊り場に向かう。
 二階と三階の間の踊り場には、大きな鏡が貼られている。特筆するところのない、縦長でそっけない鏡だ。

 その鏡は旧校舎に迷い込んだ"こども"を、永遠に自分の中に閉じ込めてしまうのだという。
 そこは此処よりもおそろしく、ずっと寒々しく、ずっと暗く、ずっと重苦しい。
 ありとあらゆる悲しみと苦しみを、ごった煮にしたような世界なのだという。
 ただの噂話だ。

25:2012/04/24(火) 23:40:49.35 ID:




「七不思議の中でも、この"冥界の鏡"はかなり異質でさ」

 ハカセはさして面白そうでもなく話を続けた。

「他の怪談は、自殺した生徒の怨念だとか、死んだことに気付いていない音楽教師の未練だとか、そういう類の話なんだ。
 でも、この鏡の話に関しては違う。
 他のものは"現実に原因があって不思議が起こっている"タイプの話だけど、これは"なぜだかわからないが不思議なことが起こる"タイプの話なんだ。
 ひとつだけ異質なんだよ」

 俺は溜め息をついてハカセの言葉を遮った。

「あのさ、ハカセ。そんなことを大真面目に考えたところで、噂話はしょせん噂だよ」

「分かってる。でも、この話はかなり前からあるものなんだ。七不思議なんてほとんど風化していて、みんな忘れてた。
 でも最近……なんでかわからないけど、つい最近、また噂になりはじめた。この鏡の話だけ。
 興味が湧かないか? 何か原因がありそうな気がするんだ」

 知らねえよ、と俺は思った。そんなこと自分ひとりでやればいい。どうして他人を巻き込む必要がある?
 興味なんて湧かなかった。いや、それどころか、むしろ嫌悪感すらあった。
 
 どうしてそんな噂が流れたりするんだ? 
26:2012/04/24(火) 23:41:24.76 ID:

 俺は不愉快な気持ちを抑え込んだ。何も言い返さずにいると、ハカセは他の人間の意見を確かめるように周囲に視線を巡らせる。

「なあ、調べてみないか。確かめるべきだと思うんだ。噂が本当なのか」

「どうして?」

 と今度はトンボが問う。ハカセは頭を振って、苦しげに顔を歪め、答える。

「わからない。でも、なんだかそういうことを考えていた。これは確かめるべき事柄なんだ」

 話にならない、と俺は思った。お前の事情なんて知ったことではない、と。だが、他の奴らは違ったらしい。

「わたしはかまいませんよ」

 と、まず後輩が頷いた。俺はなぜだか裏切られたような気分になった。

「どうせ暇ですしね」

27:2012/04/24(火) 23:42:02.37 ID:

 ハカセはほっとしたように溜め息をつき、他のふたりに視線を移した。
 
 トンボもまた、困ったように苦笑して、頷いた。

「いいよ」

 彼は後輩を見てにやりと笑った。

「どうせ暇だしね」

 シラノもまた、同じように笑う。

「暇ですからね」

 最後にハカセは俺の顔色をうかがった。俺の嫌いな表情だった。
 
「お前はどうする?」

28:2012/04/24(火) 23:44:50.26 ID:

 俺はどう答えようか迷った。調べたくなんかない。でも、それはたしかに必要なことだ。
(――必要なこと? どうして?)
 
 身体に奇妙な痺れのような感覚が広がっている。俺はそんなもの知りたくない。冥界がどうとか、本当にどうでもいい。
 嫌悪感すらある。もう新しいものなんて何ひとつ視界に入れたくないのだ。
 けれど、それをしなければならないという気持ちは確かにあった。

 そのことを強く自覚するたびに、俺は絶対にそんなものに振り回されたくなくなった。

 自分でも妙に意固地になっていると気付きながら、首を横に振り、俺は立ち上がった。

「悪いけど、今日は気分が乗らない。俺抜きでも十分だろ。面白いことがわかったら教えてくれよ」

 立ち上がってパイプ椅子を畳み、壁に立てかけた。
 机の上に置いていた鞄を肩に掛けて、「もう帰るよ」と皆に声を掛ける。ハカセは少し気まずそうな表情をしていたが、仕方なさそうに頷いた。
 
 部室を出る直前、少しだけ後輩と目が合った。何を考えているのか、ちっともわからない表情だ。

 俺は思った。なあ、お前も俺も同じだよ、結局ここにいるしかないんだ。 
 特別なことなんて何も起こらない。何かしてもしなくても、変わらない。どうにもならないんだ。

29:2012/04/24(火) 23:45:45.20 ID:

 帰る途中、男子中学生の二人組とすれ違った。彼らは何かの話の途中だったらしく、すれ違うときにその会話が俺の耳に入った。
 片方が短く、

「知ってる?」

 と訊ねた。
 もうひとりは即座に、

「うん」

 と頷く。

 そのやりとりを聞いて、俺は無性に悲しくなった。涙が出そうなほどだった。なぜかは分からない。
 俺は知らないんだ、何もわからないんだと言ってやりたい気分だった。

 なぜなのか分からないことが多すぎる。
 いつからこんなことになったのだろう? どうしてこんなことになったのだろう?

 その問いの答えは、おそらく誰も知らない。忘れ去られてしまったのだ。




 残暑は一向におさまる気配を見せない。
 残照のような九月の夕暮れが、永遠に続いていく気がした。

31:2012/04/25(水) 00:24:13.65 ID:
期待
32:2012/04/25(水) 19:11:54.92 ID:




 目を覚ますと、夕方の五時を過ぎていた。
 帰ってきてすぐに猛烈な眠気に襲われ、自室のベッドで仮眠を取ることにしたのだ。
 
 頭がぼんやりと重かった。身体を起こそうとすると関節が軋み、気怠い。億劫になって再びベッドに身体を沈める。
 何か奇妙な夢を見ていた気がするが、思い出せない。
 思い出す必要もないのだが、なんとなく気になってしばらくの間、寝転がって夢の面影を撫でまわしてみた。
 
 結局何も思い出せないまま時間が過ぎた。意識がはっきりとするのを待ってから、俺はベッドを這い出る。

 ふと机の上を見ると、机の上に手紙封筒が置かれていることに気付いた。
 薄い水色をした便箋を手に取る。こんなものに覚えはない。

 部屋の中をうかがう。誰かが部屋に入った気配はない。
 表にも裏にも何も書かれていない。封筒を開くと、中には三枚の便箋が入っていた。

 俺はその便箋を、一度大雑把に流し読みした。次に二、三度しっかりと読み、最後に小声で朗読までした。
 文字はお世辞にも上手だとは言えず、解読には時間が掛かったが、左上に書かれた俺の名前だけははっきりと読むことができた。
 

 文章は次のようなものだった。

33:2012/04/25(水) 19:12:27.66 ID:




前略
 突然このような手紙をお送りすることをお許しください。
 本来ならば直接ご挨拶に伺うべきなのですが、さまざまな理由から今はそれができません。
 このような文面で挨拶させていただくことを、どうかお許しください。
 要件は危急なのです。

 近頃、起こりつつある異変に貴方もお気づきになっていると思います。
"異変"という言い方をすると大袈裟だと感じられるかもしれませんね。
 もっとシンプルな言い方をしましょう。

 この世界に、"ズレ"が起こり始めているのです。
 心当たりはございますか?
 
34:2012/04/25(水) 19:13:06.03 ID:

 それと言いますのも、あの忌々しい異形の魔神、混沌と破綻と絶望の使者、あの暗愚な冥王、カリオストロの復活が原因です。
 あの山師! 忌々しい昏き光!  
 理想と幻想の女神ガラテア様のお力により、漆黒の墓碑に封印された悪辣無比の巨人が、いま蘇りつつあるのです。
 
 原因は分かりません。とにかく、カリオストロの力の流出を止めなければ、この世界の"ズレ"はもっと広がっていくでしょう。
 そうして広がった間隙から、彼の者の腕が忍び入り、この世界に破綻をもたらしてしまう……。
 ガラテア様はそのことにいち早く気が付き、魔神の復活を阻止なさろうとなさいました。

 けれど、ガラテア様は、カリオストロとの戦いでお力のほとんどすべてを失われていました。
 そこで、お話は貴方様に繋がります。

 カリオストロの封印を成し遂げる際、ガラテア様は自らの強大な力によって世界に影響を与えるのを避けようとなさいました。
 その際、ガラテア様がとった方法とは、ひとりの人間に女神の力を分け与え、代行者としてその者を戦わせるというものです。

35:2012/04/25(水) 19:13:47.17 ID:

 半神の身になった彼は、所詮は野蛮な亡者にすぎぬカリオストロに後れを取りませんでした。
 世界の平穏は保たれましたが、けれど、人に力を与えるのは大罪です。
 ガラテア様は高き者の怒りに触れ、お力の大半を失ってしまわれたのでした。
 
 言うまでもなく、カリオストロを封印した一人の英雄、これは貴方の前世です。

 世界はふたたび、彼の者によって危機にさらされようとしています。
 ガラテア様のご意志に従い、我々と運命を共にし、世界を守る戦いに協力していただけませんか?
 英雄の魂をもつ貴方ならば、きっと成し遂げられるはずです。

 つきましては、近々、詳しい話をするために、そちらへお伺いしようと思います。
 今回は、簡単な事情の説明とご挨拶だけで終わらせていただきます。
 
 よしなに。

                    草々

36:2012/04/25(水) 19:14:34.20 ID:


 

 二枚目の右下には、おそらく書いた者の名前だろう、なんなのかよく分からない法則性を持った象形文字のようなものが並んでいた。
 三枚目は白紙だった。
 
 俺は最後にもう一度便箋を読み返すと、それを封筒にしまい直し、机の引き出しに放り込んだ。

 狐につままれたような気分で、頭を掻く。 
 
 気分が落ち着かなかったので出かけることにした。
 財布と携帯だけを持って玄関を出る。特にどこに向かうでもなく、住宅街を歩いた。
 
 緩やかな勾配の坂を上りきり、児童公園の自動販売機でスポーツドリンクを買った。
 その場でペットボトルの蓋を開けて口をつける。蓋を締め直したとき、ベンチに人がいたことに気付いた。

 ひどく、目を引いた。おおよそ児童公園には似つかわしくない人影だ。
 真黒のスーツを身にまとった、大男だった。
 ディアドロップのサングラスで目元を隠しているが、その奥の視線がこちらに向いていることがぼんやりと分かる。

37:2012/04/25(水) 19:15:37.95 ID:

 何か変なのが現れたぞ、と俺は思った。

「坊主、金貸してくれないか」
 
 大男は言った。ドスは効いていたが、思っていたよりは軽妙な話し方だ。
 俺は少し警戒しながら答えた。

「悪いけど財布を忘れたんだ」

「お前はバカか」

「自分でもバカだバカだと思うことは多いけど、見知らぬ人に言われるほどひどくはないはずだ。財布を忘れたくらいでバカ扱いもないだろう」

「そうじゃねえ。ついさっき自販機でドリンク買ったじゃねえか。さっき出したのが財布じゃなけりゃなんだ。カード入れか」

「ああ。カード入れなんだ」

 大男は笑った。
38:2012/04/25(水) 19:16:13.95 ID:

「いいから貸してくれよ。俺は腹が減ってるんだ。飲み物を飲んでごまかしたい。百二十円でいい」

「こういうのもカツアゲって言うのかな?」

「ああ? いや、違う。カツアゲじゃない。借りるだけ」

「いいけど、返す気ないよね?」

 彼は目を丸くした。

「どうしてわかった?」

 俺は彼にかすかな親近感を抱いた。

39:2012/04/25(水) 19:16:53.41 ID:




 大男は名乗らなかったし、俺も訊ねなかった。
 俺から受け取った金で缶コーヒーを買うと、彼はふたたびベンチに腰を下ろして溜め息をつく。

 その姿は、冬の山をひとりで散歩する冬眠前の熊みたいにも見えた。
 プルタブを捻って缶を開け、大げさな手振りでコーヒーを一口飲んでから、大男は言う。

「坊主、今は何時だ?」

「さあ?」

「時計、持ってないか」

「ああ」

「携帯は?」

「ちょっと待って」

 俺はポケットから携帯を取り出したが、案の定、充電切れで電源が入らなかった。
 そういえばしばらく充電していない。どれくらいになるだろう。……別に、どうでもいいことではあるのだが。

40:2012/04/25(水) 19:17:21.54 ID:

「電池切れてる」

 正直に言うと、大男はにやりと笑った。

「お前、友達いないのか」

「まあね」

「寂しくないのか」

「別に」

「反抗期の子供みたいな態度だな」

「わりと反抗期が尾を引いた方なんだ」
 
「そうかよ」

 大男がどうでもよさそうに笑うと、そこで話は途切れた。

41:2012/04/25(水) 19:18:18.36 ID:

 彼の持ち物は大きな鈍色のアタッシュケースがひとつきりだった。
 それ以外のものは何ひとつ持っていない。アタッシュケースだけを抱えて、遠くの街から逃げてきたような風情だった。

 無性に興味を引かれて、ケースの中身について大男に訊ねてみた。
 大男はにやにやと笑みを浮かべ、「知りたいか?」と言った。

「教えたくないならいいけど」

「心にもないことを言わずに、素直に聞いていいんだぜ。よし、見せてやろう」

 大男は脇に置いていたアタッシュケースを膝の上に載せて開いた。
 その中身を見たとき、最初は何が入っているのか分からなかった。

 何秒かして、それが大量の札束であることに気付いた。心臓が一度だけドクンと強く鼓動する。
 俺は平静を装って言った。

「金、持ってるじゃないか」

42:2012/04/25(水) 19:18:52.26 ID:

 大男は呆れたように深い溜め息をついた。

「お前、かわいげってものがないね。もっと驚けよ」
 
「いくら入ってるの?」

「五千万」

「ゴセンマン。へえ」

 五千万ってどのくらいだっけ? マンションくらいなら買える? まあいいや、と俺は思った。どうせ俺の金じゃない。
 そんなことよりも、この大男がこんな大金を持ち歩く理由の方に興味があった。

43:2012/04/25(水) 19:19:42.88 ID:

「アンタ、何してる人?」

「"アンタ"はないだろ、坊主。敬意をこめて"おじさん"と呼べ」

「"坊主"はないだろ、オッサン。で、何やってる人?」

「殺し屋」

「コロシヤ」

 また妙な奴と話をしてしまったな、と俺は思った。

「殺し屋なのに五千万しか持ってないの? 少なくない?」

「少なくはない。後ろ暗い商売だからな、依頼する側も足元見るのよ」

 後ろ暗いのはお互い様なんだから、付け込むことだってできるだろうに。
 
44:2012/04/25(水) 19:20:27.07 ID:

「というか、まあ、金はもっとあったんだけどな。なくなっちまった。全部」

「どうして?」

「いや、まあ、そうな。いろいろだ」

「いろいろ。へえ、それで、その金で何をするつもりなの?」

 話の流れで訊ねると、大男はしかつめらしい表情を作った。
 重苦しく口を開き、声をひそめて呟く。

「殺してもらうんだよ。俺をな」

「……へえ」

 世の中にはいろんな人間がいるものだ。

45:2012/04/25(水) 19:21:50.08 ID:




 俺は恵まれた人間だ。本当にそう思う。
 他人との比較で自分自身の幸福を測れるわけではないが、俺はたしかに他者と比較しても恵まれている。

 食べ物にも飲み水にも寝泊りする屋根にも困らない。特に厳しい仕事をしなくても生きていくことができる。
 挫折や妥協というものと巡り合ったことは一度もないし、またこれからもそうそう出会う気がしない。

 身体にも問題はない。至って健康そのもので持病もない。アトピーも持っていない。
 働き蜂の両親から、日がな一日遊びまわる生活を一週間続けても困らないほどの金を預けられている。
 携帯もパソコンもゲームも本も、親に頼めばいつでもなんでも手に入れられた。

 上手くいかないことは人間関係くらいだろうか。

 こうして自分についての情報を列挙してみると、自分が恵まれているということをよく理解できる。
 客観的に見て、悩みもなく、苦しみもなく、人に後ろ指を指されることもない。

 端的に言い表すと、「満たされている」ということになる。

46:2012/04/25(水) 19:23:01.79 ID:

 何かの本で読んだ。人間が人間らしく生きていくには、"欲望"が必要なのだ。
 欲しいものが何ひとつない人間は生きていけない。生きていく理由がないからだ。目的がないからだ。
 
「理由なんかなくても」「目標なんかなくても」と言う人もいるが、この言葉はあまり役に立たない。
 理由がないと人間は死ぬ。目標がないと人間は沈む。
「理由なんかなくても」と言いたがる人間は、その言葉を放つことで"理由がない"自分自身を奮い立たせようとしているに過ぎないのだ。
 それはその人自身にとっては意味のある言葉だが、他人には何の効用ももたらさない。
 
 何も欲しくない。携帯もパソコンもゲームも本も。この世で手に入るものは何ひとつ欲しくない。

 欲望にはきりがない。決して完全に満たされることはない。それならば、最初から何も欲しがらなければいいのだ。
 どうせ欠乏感はついて回るのだから、金を掛けてまで何かを手に入れても仕方ない。

 俺は何も欲しがらない人間になった。部屋にはベッドと机と、夏から置きっぱなしの扇風機しか置いていない。
 クローゼットの中の服も、すべて必要だから買っただけで、欲しいと思ったことは一度もない。
 
47:2012/04/25(水) 19:23:37.45 ID:

 二年か三年、そうやって過ごした。すると不思議な顛倒が起こる。
「何も欲しがらない」という満たされているはずの状態に、奇妙な空虚感がつきまとうようになったのだ。
 まるで自分自身に「何もない」ような気がした。好きなものも嫌いなものも。

 いつのまにか、からっぽになった。俺という人間は本当に生きているのだろうか?
 現実と妄想の境目は曖昧になり、何も考えなくなった。いつ死んでもいいような気持ちだった。
 
 そんな状態が何年も続いている。不健全だ、と思うが、不健全で何が悪い、と思う自分もいた。
 この状態は苦しい――だが、どう変わったところで苦しいのは変わらない――ならば変わらなくてもいいのではないか?
 何かを求めるべきではないか? ――そう思うということは、自分は健全に生きたいのだ――だが、いまさら何ができる?

 そもそも俺は本当に生きているのだろうか? しっかりと? 現実で?
 
 もう誰にも会いたくなかった。さまざまな情報にうんざりしていた。
 何も言いたくないし何も聞きたくない。新しいものは何も見たくない。何もない場所へ行きたい。
(――だったら死ねよ)

48:2012/04/25(水) 19:24:32.30 ID:




 準備を終えて家を出る。通い慣れた道を通り、学校へと向かった。
 校門に着く頃には、同じ学校の生徒がぱらぱらと目についた。さして気にも留めずに歩く。
 自分に関係しない他者は、背景とほとんど同じものだ。

 教室についても、俺に話しかけるものはほとんどいない。
 クラスメイトも、この街の住民も、俺にとっては背景の中の存在だ。あるいは、俺自身が彼らにとっての背景に過ぎないのか。
 おそらく、そのどちらも正解なのだろう。

 嫌気がさして、鞄を置いてすぐに教室を出た。校舎を適当に歩き回るのは暇つぶしには最適だ。
 誰に会うわけでもなく、何か用があるわけでもない。

 しなければならないことはひとつもない。つまり俺は自由だった。
 だとすれば、この閉塞感はいったいどこから訪れたものなのだろう?

 屋上へと続く階段を昇る。鉄扉を押し開くと、少しあたたかな風が屋内に吹き込んだ。

 風が校舎に吹き込む。窓の冊子をカタカタと鳴らす。
 不意に、とても、自分の生活が、あるいは自分というものが、空疎に思えた。

49:2012/04/25(水) 19:25:08.54 ID:

 俺は屋上に寝転がった。鈍色のフェンスに区切られた空間。
 隔絶され、孤立した空間。そこには言いようのない安らぎがある。
 外に出て仰向けに寝転がってみると、太陽は意外なほど暖かかった。
 
 俺は瞼を閉じ、その裏で陽の光を感じた。こんなふうに照らされていれば――何かが変わることはあるのだろうか?
 そんな考えを、我ながら馬鹿らしいと鼻で笑う。

 なんだか、とても眠い。
 近頃は、どれだけ眠っても寝足りない。ずっと眠っていてもいいくらいだ。
 
 俺は起きていることにうんざりしていた。ずっと眠っていたかった。
 何が悲しいのではない。何が悔しいのでもない。
 
 疲れたのだ、目を覚まし続けていることに。
 必死に目をこらしてみたところで、何かが変わるわけでもない。この手が何かをつかみとるわけでもない。
 
 俺は何かを一心に待ち続けていた。
 そうやって待っていれば、いつかなんらかの解決が訪れてくれると思っていたのかもしれない。
 偶然に期待することは、居もしない神に祈ることと、どう違うだろう?
 自ら積極的に行動する能力を失った魂は、生きながらにして死んでいく。これは自明だ。

50:2012/04/25(水) 19:25:41.99 ID:




 目をさますと、俺は案の定、学校の屋上に寝転がっていた。どうやら眠っていたらしい。

 記憶ははっきりとしていた。朝、屋上に来て寝転がり、眠ってしまっていたのだ。

 タチの悪い夢をみた気がしたが、内容はどうしても思い出せそうにない。
 うんざりして、吐き気がこみあげてきそうだった。

 目を開けると、青紫の雲と、赤褐色の空が見えた。
 ほとんど半日眠っていたことになる。もう日没が近いらしい。少し風が冷たかった。

 眠る前に感じていた、この場所に対する安心感、親密さのようなものは、すっかりと失われてしまっていた。
 それがなぜなのかはわからない。
 
51:2012/04/25(水) 19:26:17.86 ID:

 気だるさに溜め息をつくと、すぐ傍から声が聞こえた。

「起きた?」

 ひときわ強い風が吹き抜けた。声のしたほうに顔を向けると、見慣れた顔と姿が見える。

 彼女は寝転がった俺の横に座って、ぼんやりとした表情をこちらに向けていた。
 笑うでもなく、さりとて不機嫌そうでもなく、無表情のままこちらをじっと見つめている。

 昔からの付き合いのはずなのに、こいつの考えていることは、俺にはちっともわからない。

 普段どんなことを考えて生きているのか、どんなふうに生活しているのか、何を考えているのか。 
 彼女のことはさっぱりわからない。

 一応、幼馴染と呼べなくもない間柄ではある。だが、単なる昔からの知り合いと言うほうが正しいだろう。
 そうだ。もう何年も話していないのだから、せいぜいが「知り合い」だ。
 
 こいつのことは昔から何ひとつ分からない。
 いったい何がしたいのか、俺をどう思っているのか――いや、そんなことはどうでもいいはずなのだけれど……。

52:2012/04/25(水) 19:27:05.54 ID:

 少し考えて、思う。"何年も話していない"? そうだっただろうか。
 俺が彼女と最後に話したのはいつのことだっけ? 何年も前だっただろうか?
 そうだという気もするし、つい昨日、話をしたようにも思える。

 俺は思い出すのを諦めた。……どうでもいい。そんなことは本当にどうでもいいことだ。
 彼女は力を入れ続けるのが億劫になったように首をかしげて頭をぐらぐらと揺すった。長い髪がくるりと揺れる。

 目を細めてその仕草を眺めながら考える。どうして彼女がこんなところにいるのだろう?
 理由がわからないという疑問以上に、戸惑いに似た抵抗を俺は感じていた。

"彼女はここにいるべきではない"と俺は強く思った。どうしてこんなところにいるのだ?
 こんな場所に――現実から切り離され、何もかもが立ち止まってしまったような場所に――彼女はいるべきではないのだ。
 ここには俺のような人間だけが訪れ、そして俺のような人間だけが長い時間を過ごしていけばいい。

 彼女はここに向いていない。彼女はこんなところに来るはずがない。
 ああ、だから、ひょっとしたら……ここにいる彼女は、俺が見ている夢のようなものなのかもしれない、と、そんなことを大真面目に思った。
 夢と現実の境もまた、俺にとっては曖昧だ。どこからが現実であり、どこからが夢なのか。そんなことはもう分からない。

 俺はいつもの通り、周囲の様子をうかがって、適当に状況に合わせることにした。どこにいたって変わりはない。
(どこにいてもやることが変わらないなら、わざわざ自分の足でどこかを目指したりする必要があるのだろうか?)

53:2012/04/25(水) 19:27:34.73 ID:

 彼女は特に感情もこもっていないような溜め息をつき、それからくすりと笑って言った。

「こういうところ、好きなの?」

 その言葉に、俺はたまらなく恥ずかしい気分になった。なぜかは分からない。
 自分のなかの未熟さや不安を見透かされたような気がしたのだ。

 何も答えられずに黙り込むと、彼女はすっくと立ち上がり、制服のスカートを両手でたたいて、気持ちのいい音を鳴らした。

「さよなら」

 と彼女は言った。俺は何も答えられなかった。

 どう答えればいいと言うんだろう? 何度もこんなことを繰り返しているような気がする。
 俺じゃない誰かが、俺の立場とまるっきり同じ経験をし、まるっきり同じ気持ちだったなら、何か別の手段を択べただろうか?
 いや、そんな考えは空しい言葉遊びでしかない。分かっているのだ。

 俺は何かを選ぶしかない。だからといって……何を選べというんだ?

54:2012/04/25(水) 19:28:06.88 ID:

 おそらく俺にとって最大の問題はそこなのだ。俺には選びたいものがない。
 欲望するべき何かがない。欲しいものなんてなにひとつないし、行きたい場所なんてどこにもない。
 だったら、馬鹿げた努力を続けて"世間"にとどまり続ける理由はあるのだろうか。

 こんなむなしさを誰もが持ち合わせているのだとしたら、そんな"世界"はまったく正気じゃない。

 屋上には俺以外の人間が誰もいなくなってしまった。立ち上がり、フェンスに歩み寄る。
 こんなところにいたら、昔は無性に泣き出したい気持ちになったものだ。今はそれがない。それすらない。
 より致命的な状況はどちらかと聞かれれば、おそらく今の方が重篤だろう。

 開けたばかりの視界には、沈みかけの夕陽は眩しすぎて、刺さるように痛かった。
 だからといって、何がどうというのではない。そんな感覚は、俺になにひとつもたらさない。

 陽が昇り沈むということは、一日の生活の象徴だ。それはサイクルを意味する。
 生活というサイクル。無限のような有限の中、永劫のような一瞬をただ繰り返すだけのサイクル。
 書き割りの街の中の、焼き増しの日々。ゆっくりと毒に侵され、刻一刻と身体の自由を奪われていくような時間。生活。

55:2012/04/25(水) 19:28:30.55 ID:

 惰性に支配された人間にとって、未来は向かうものではなく問答無用に襲い掛かってくるものだ。
 そこに自分の意思は存在しない。前には進んでおらず、また立ち止まるわけでもない。
 ただ、今まで歩いてきたのだから、まぁ、歩き続けたところでかまわないだろう、というわけだ。
 ベルトコンベアーに載せられているのと変わらない。

 立ち止まることはいつでもできるという言葉は、使い古されてはいるが、間違ってはいない。
 
 何もかもが動き続ける世界で自分だけが立ち止まることは、何もかもが立ち止まった世界で自分だけが後退することと等しい。
 
 後退はやがて自分を病ませる。その毒は静かに身体中を巡り、体の自由を奪っていく。
 この何もかもが動き続ける世界で立ち止まるということは、とりもなおさず死を選ぶ、ということだ。

 俺は立ち止まった。それは俺が死にたがりだったからじゃない。
 ただ、気付いていなかったのだ。立ち止まることがそのまま奈落に落ちることを意味するということに。
 このベルトコンベアーは後ろ向きに進んでいて、俺たちは歩き続けることでなんとか現状を維持できていたのだということに。
 立ち止まれば、奈落に落ちていくだけだということに。

 一度そこに落ちてしまえば、誰も助けることはできない。落ちてしまったら、誰も助けることはできない。
 声を掛けたりすることはできるかもしれない。怒鳴りつけたり、励ましたり、罵倒したり、嘲笑ったり。
 でも、誰も手を差し伸べることはできない。

56:2012/04/25(水) 19:28:57.44 ID:

 惰性というものは唐突に効力を失う。そこにはなんの予兆もない。
 あたかも電池が切れるかのように、突然、ぷつんと途切れてしまうのだ。

 前もって回避することは困難だし、常にそれを警戒していては疲弊してしまう。
 誰にでも訪れうる。それもさまざまな形で。

 だからこんなふうに、ある日突然、身動きがとれなくなって、そのまま何もできなくなってしまう。
 そういう種類の人間がいる。そうなってしまいやすい人間がいるのだ。

 俺を取り巻く状況すべてが、俺自身が限界に近付いていることを示している。
 かつて俺は、眠ったまま生き続けることを誓った。目を逸らして、さまざまな物事から逃れようとした。
 でも結局は逃れられないのだ。それはどこまでも追いかけてくる。どうやったって無駄だ。逃げられない。

 何もかも投げ出して、逃げ出してしまっても、それはそれでかまわない。自分自身がしっかりと納得できるのなら。

 いっそ何もかも投げ出し、逃げ出した方が楽なのだ。遥かに。明らかに。
 そうまでして再び歩きはじめる理由を、俺は持ち合わせているのか?
 おそらくない。まったくない。これっぽっちもない。俺は何も必要としていないし、何も俺を必要としていない。
 
 俺はいったい何をどうしたいんだろう? 

59:2012/04/26(木) 13:11:32.44 ID:

 自然科学部の部室には誰もいなかった。
 四人分の鞄は置いてあるので、帰ってはいないだろう。例の噂について調べているのかもしれない。

 夕陽が窓から差し込み、赤と黒のコントラストを作り出している。

 俺はパイプ椅子に腰を下ろした。手持無沙汰をごまかすために鞄から小説を取り出したが、退屈でまったく読み進められない。
 
 しばらくぼんやりと考え事に浸っていた。さまざまなことを考えた。
 トンボのこと、ハカセのこと、シラノのこと、幼馴染の女の子のこと、距離ができた妹のこと。
 ちっとも帰ってこない両親のこと、スズメのこと、奇妙な手紙のこと、黒いスーツの大男のこと。
 
 どれもこれも、布の上にばらばらに散らばったガラスの粒のように些末なことに思えた。
 誰のことをどんなふうに考えても、俺の思考はいつも自分自身のことにたどり着く。
 
 結局のところ俺は他人のことなんて考えていない人間だ。自分のことしか考えていない人間なのだ。

 そんな人間が誰かに好かれたりするわけがない。誰かに必要とされたりしない。
(こんなことを考えるのは俺が誰かに好かれたいからだろうか?)

60:2012/04/26(木) 13:12:03.54 ID:

 考えごとをやめてふと窓の外を見ると、世界は深い藍色に染まっていた。
 部員たちはまだ帰ってこないらしい。 時計を見ると、案外早い時間だ。
 そこで俺は雨音に気付いた。こんなに暗いのは、どうやら天気が悪いかららしい。

 雨が降れば、屋上には出られない。別に行きたいわけでもないのだが、心細く感じるのはどうしてだろう。
 
 遠く向こうの雲は煙のように黒く膨らんでいる。
 耳鳴りが聞こえた。

 立ち上がり、自分の荷物を持って部室を出る
 俺は図書室に向かった。借りていた本を返さなくてはならない。

61:2012/04/26(木) 13:13:16.39 ID:



 廊下を歩いても、人とはほとんどすれ違わなかった。時間が時間なので当然と言えば当然なのだが、天気も相まって不気味に思えた。
 
 校舎から人が消え失せてしまったような気がした。
 普段は気に留めない、壁や机や椅子が、俺には聞こえない囁きを交し合っているように思える。

 もちろん、そんなのは錯覚だ。現実に物は喋ったりしない。
 でも――そういえばここは、現実だっただろうか?
 
 俺は頭を振った。ここが現実であろうとなかろうと、俺がやることは変わらないはずなのだから。
 電灯に照らされていても、廊下はどことなく青白い闇をまとっている気がした。
 風が窓をかたかたと鳴らす。切れかかった廊下の電灯がカチカチと明滅する。

62:2012/04/26(木) 13:14:11.00 ID:

 誰かいないのだろうか? まるで例の噂の神隠しにでもあった気分だが、俺は旧校舎に足を踏み入れたことはない。
 そんな否定は、噂なんてあてにならないという一言で済んでしまうのだが。

 俺は旧校舎に行ったことがない。あんな薄暗い場所に、俺が行くはずがない。
(――"あんな薄暗い"?)

 頭の奥がズキズキと痛む。
 図書室への道のりはこんなに長かっただろうか。

 誰でもいいから俺の前にあらわれてくれないだろうか。
 トンボでもハカセでもシラノでも誰でもいい。できれば後輩がいい。幼馴染とスズメには会いたくない。
 
 誰か通りがかったりしないのか?
63:2012/04/26(木) 13:15:28.65 ID:

 やっとの思いで図書室にたどり着くが、様子はほとんど廊下と同じだった。
 本棚が林立する室内から、人の姿はほとんど消えていた。その光景は、なぜだか俺に世界の終わりを思わせた。
 ふと、あの手紙の内容を思い出す。

"理想と幻想の女神ガラテア様のお力により、漆黒の墓碑に封印された悪辣無比の巨人が、いま蘇りつつあるのです。"

 あの時代遅れにもほどがあるダイレクトメール。月刊ムーの全盛期でもあるまいし。 
 あんな内容の手紙を真に受けるバカがいるものだろうか?
 ましてや英雄だなんて。ばからしい。……本当に、ばからしい。
 
 カウンターの中では図書委員の子が本を読んでいた。
 この子はきっと、世界が明日終わるとしてもここで本を読み続けるに違いない。そう思わせる何かが彼女にはあった。
 
 俺はその姿に少しだけ安堵した。自分はひとりで取り残されてなんていないと分かったからだろうか。

 閑寂な図書室に、俺の足音は大きく響いたが、それでも彼女は顔をあげずにページに視線を落としている。
 
64:2012/04/26(木) 13:15:58.25 ID:

 その姿は図書委員というよりは、図書室の番人のように見えた。
 彼女はいつもここにいる。委員会の活動は曜日ごとの交代制なのに、毎日ここにいる。
 なぜなのかは分からない。聞いてみたこともない。話しかけたこともない。

 それでも彼女はここにいる。

 俺は鞄から本を取り出し、カウンターに差し出した。
 彼女は緩慢な手つきで本を受け取ると、時代遅れな貸出カードに返却日を記入するように無言でペンを示した。

 俺はペンを握り、カードに文字を走らせる。

 今日はいったい何日だっけ?

 一瞬、本気で今月が何月なのかもわからなくなった。 
 こんなことばかり起こる。……どうしてだろう。いつからこうなった?
 俺は何か大事な何かを見逃しているのかもしれない。……俺の生活から、何かが欠けてしまったのだろうか。

65:2012/04/26(木) 13:17:15.86 ID:



 
 シラノのことを思い出す。
 
 俺と彼女が最初に出会ったのは肌寒い四月。入学したての仮入部期間の放課後だった。
 俺は体育館裏の切り株で読書をして退屈をごまかしていた。そこにシラノが現れたのだ。

 俺とシラノは入学当初、かなり仲が良かった。俺にもシラノにも、知り合いと呼べる人間がほとんどいなかったからだ。
 男と女ふたりで会うにも、からかわれることもなければ邪推されることもない。
 友人がいないというのは、そういう意味では快適だった。

 シラノと話をするのは、俺に少なからぬ安心をもたらした。
 問題なく他者とコミュニケーションをとれる自分自身を発見できたからだ。

 彼女は自分のことをほとんど話さなかったし、俺も自分のことを話さなかった。
 だから、俺たちは本当のところ会話らしい会話をしたことがなかった。
66:2012/04/26(木) 13:17:47.14 ID:

 天気だとか、季節だとか、勉強だとか、食べ物だとか、せいぜいがそんなものだ。
 同じ部に入ったのも、部を選ぶ期間を共に過ごしていたからだという気分が強い。

 だからといって、俺はシラノに特別な感情を抱いたりしなかった。
 シラノの方もそうだろう。俺たちは結局、お互いに興味がなかった。

 俺は自分にしか興味がない人間だし、シラノは自分自身にすら興味がない人間だった。
 そんな者たちが一緒にいたところで、何かが起こるわけでもない。
 
 シラノに必要なのは、彼女に興味を持つ人間だった。彼女に対して積極的に影響を与えうる人物だった。
(そんな人間が本当に存在するのかどうかは別の話だ)

 彼女の方に友人ができると、俺たちは部活の時間以外はほとんど話さなくなった。
 だからといってどうというのではない。

 あるときシラノは、「君が何を考えているのかさっぱり分かりません」と言った。

 シラノ、俺も同じだよ。
 俺だって自分が何を考えているのか分からないんだ。
 きっと自分のことしか考えていないんだと思う。

 君のことなんてこれっぽっちも考えていないんだ。

67:2012/04/26(木) 13:18:25.98 ID:




 昇降口で、運動部の連中に声を掛けられた。見覚えはなかったが、どうやらクラスメイトであるらしい。
 背の高いサッカー部の部員は、気安げに俺の肩を叩いた。 

「お前も聞き込みか?」

「何の話?」

「あれ、お前、自然科学部だったよな? シラノたちが噂について教えてほしいって、校舎中歩いてるみたいだったけど」

「ああ」

 例の噂について、ハカセたちはシンプルな手段を取ったらしい。 
"噂"について調べるには、その噂の源を探すのが手っ取り早い。
 これまでほとんど話題に上らなかった怪談が、突然妙な盛り上がりをみせたのだから、その方法は有効だろう。
 
 いったい何が原因で噂が広がったのか。

68:2012/04/26(木) 13:19:03.92 ID:

「お前は何やってんの? サボり?」

「まあね」

 頷くと、彼は爽やかに笑って、「じゃあな」ともう一度俺の肩を叩いた。

「ああ」
 
 と俺は頷く。彼の名前は何と言っただろう。まあいいや。どうせ明日は話もしないだろうから。
(使いもしない情報を覚えて何になるというのだ?)

 俺は学校の敷地を出て、帰路を辿った。
 朝起きて、学校へ行き、家に帰り、眠る。生活というサイクル。

 何もかもが平坦で無意味だ。

70:2012/04/26(木) 17:51:24.35 ID:
読んでるよ
73:2012/04/27(金) 15:39:43.81 ID:




 ふと気付くと、俺は自室の椅子に座って携帯電話のディスプレイを眺めていた。 
 いつからここにいたのかは思い出せない。日付はさっきまでと変わっていた。十月。

"ズレ"たのだ。

 外は暗く、部屋の電気は既についていた。立ち上がってカーテンを閉める。

 部屋を出てダイニングに向かう。冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、コップに注いだ。
 一息に飲み干すと、冷たい液体がじんわりと体に染み渡るのがわかった。

 キッチンのカウンターに置かれた写真立てが、不意に目に入った。
 家族で撮った写真だ。いつ頃撮ったものだったか。俺が小学生くらいの頃だろうか。

 今より少し若い両親と、今よりも幼い俺と妹。夏の広い向日葵畑をバックに、全員が笑っていた。
 青空と太陽、向日葵とそよ風。今も克明に思い出せる。
 何もかもがおぼろげで判然としない俺の生活の中で、過去の思い出だけが眩いほど鮮明だった。
 
74:2012/04/27(金) 15:40:32.48 ID:

 あの夏から、俺は背が伸び始めた。声が太く、低くなった。力の加減が少しずつ難しくなっていった。
 指の関節がごつごつと形を変え始めた。喉にふくらみができた。
 
 それなのに、俺はあの夏から少しだって成長できた気がしない。
 今だってそうだ。出来うるものなら子供に戻りたかった。

 子供の頃はどうしてあんなに大人になりたかったのだろう。
 成長すれば、何かを変えることができるかもしれないと思っていたのかもしれない。
 何かを手に入れることができると、無根拠に確信していたのかもしれない。

 あるいは、俺から失われてしまったのは"それ"だろうか?

 "無根拠"であるとしても、確信というものが必要なのかもしれない。
 大人になれば幸せになれる。そう思わないで、子供が大人になりたがることはありえない。
「大人になれば幸せになれる」と信じられない子供は、そういう意味では不幸だ。
(だが、現代において、心からそうだと信じられる子供が何人いるだろう?)

75:2012/04/27(金) 15:41:13.91 ID:

 子供のままで生きていくには、この世界はたぶん気難しすぎる。
 そして、そんな人間が、現代にはたくさんいるのだ。息苦しくてたまらない人間がごまんといるのだ。
 正気の沙汰ではない。

 子供に戻りたいと思うということは、俺は大人なのか? きっと違う。
 大人でない。でも子供でもない。俺はなんなんだ? みんなこうなのか? こんな不安を、誰もが感じているのか? 

 こんな気が狂いそうな不安と空虚を、誰もが? 
 
 すべてを忘れて、あの夏の向日葵畑にもう一度行きたい。
 何もかもが白く輝いて見えたあの夏に。

 一度でもそうすることができたなら、俺は死んでもかまわない。
 そうすることができないなら、なおのこと死んでもかまわない。
(戻らない過去を思うことは死について考えることによく似ている)

76:2012/04/27(金) 15:41:45.95 ID:

 不意に、携帯電話のコール音が響いた。一瞬、どこから鳴っているのか分からなかったが、部屋に忘れてきたらしい。
 俺はコップをテーブルに置き、慌てて階段を昇って自室に戻った。

 無愛想な携帯のコール音は鳴り止まなかった。通話ボタンを押して耳に当てる。何も聞こえなかった。

 少しすると、声が聞こえた。小さな声だ。本当に小さな声だ。
 何と言っているか、まったくわからない。

「何?」

 と俺は訊ねた。電話の声は少し大きくなる。

「聞こえない」
 
 俺はスピーカーを耳に押し付けるようにして必死に聞こうとしたが、言葉はまったく聞こえなかった。

77:2012/04/27(金) 15:42:28.17 ID:

「なんだ?」

 俺の声は自然と大きくなった。電話口から、相手が怒鳴る気配が伝わってくる。だが、なんと言っているのかは分からない。

「なんだって? 全然聞こえない!」

 全然聞こえない。嵐の中で聞く叫び声のようだ。どれだけ相手が声を張り上げても、その声が俺の耳に届く気はしなかった。
 かろうじて口が動いていることが分かるようなもので、何を言わんとしているのかはまったくわからない。

「聞こえない! 聞こえない!」

 俺は怒鳴るように繰り返した。何も聞こえない。部屋の中は耳鳴りがしそうなほど静かだった。
 俺の声だけがバカバカしいほどの大きさで響いている。聞こえるのは俺の声だけ。
 不意に通話が途切れ、携帯電話がつー、つー、と寂しげに鳴く。

 何も聞こえない。自分の声以外は、何ひとつ……。

78:2012/04/27(金) 15:43:19.86 ID:




 俺は夕方の昇降口で立ち尽くしていた。そのことに、ふと気が付く。
 時間の流れをおそろしく緩慢に感じた。今日はいったい何日で、自分は今まで何をしていたのか。

 今日は一日を屋上で眠って過ごし、放課後になってから部室に顔を出した。
 誰もいなかったので、図書室で本を返して、帰ることにした。

 不意に、雨に気付く。音がまったくしなかったので分からなかった。もうほとんど霧雨のようになっていた。
 湿った空気が辺りを覆っている。

 このまま帰る気にはなれず、俺は屋上に向かうことにした。
 天気は悪いが、だからといって何かが変わるわけでもない。

 気分次第だ、全部。思うがまま。自由気ままに過ごしている。
 誰も隣にはいない。ひとりぼっちだ。それが自由ということなのだ。

 階段を昇る。いままで何度この階段を昇っただろう?
 もう数えきれないほどの時間、こんな生活を繰り返している気がする。

 いつまでこんなことを続けたらいい?

79:2012/04/27(金) 15:43:42.09 ID:



 屋上にはスズメがいた。

 彼女は俺に気付くとこちらを振り向き、いつもの微笑を浮かべる。

「どんな具合?」と彼女は言った
「さあね」と俺は答える。

「これで満足?」

「何の話?」

「分からないならいい」

 彼女の話はいつも要領を得ない。
 意味深にも聞こえるし、意味なんて何もないようにも聞こえる。
 どちらにしても、意味が分からないのは同じだ。
 
 フェンス越しに見る街は、いつの間にか深い霧雨に覆われている。
 なにかが、この霧雨のように、俺の生活に忍び寄っている。

80:2012/04/27(金) 15:44:08.26 ID:

「私はどうでもいいんだけどね」

 とスズメは言った。

「いいかげん、帰った方がいいよ」

「俺の勝手だろう?」

「君の勝手だから言ってるんだよ」

「何の話?」

「分からないならいい」

 俺が溜め息をつくと、スズメはおかしそうに笑った。

81:2012/04/27(金) 15:44:35.50 ID:

「みんな帰っちゃったね」

 彼女の声は、霧の中で澄みわたるようにくっきりと聞こえた。

「そりゃ、時間が時間だし」

「そうじゃなくて」

「……さっきから、何の話?」

「分からないならいい」

「分からせる努力をしてないじゃないか」

82:2012/04/27(金) 15:45:06.20 ID:

「理解するつもりもないくせに」

「決めつけないでくれる?」

 心底おかしそうに、スズメは笑う。何度も笑う。まるで案山子と話をしているような気分だ。
 こっちが何を言っても取り合うつもりはないらしい。
 
 居心地の悪さに、俺は舌打ちした。

「ねえ、こんなふうに話をはぐらかすのは、君が普段していることと、どう違うのかな?」

 彼女はぽつりと言う。
 街は霧に、空は雲に覆われていく。何も見えない。何も聞こえない。

 さまざまな感触が失われていく。 

83:2012/04/27(金) 15:45:32.25 ID:




 家に帰ると、妹がリビングのソファで眠っていた。何も言わず部屋に戻る。 
 鞄を机の上に置き、制服を着替えた。
 
 キッチンに入って、炊飯器で白米を炊く。時間は十分にあった。
 冷蔵庫の中を確認し、あまっていた野菜とベーコンを使い、野菜炒めとスープを作ることにした。

 頭が熱に浮かされたようにぼんやりとしていたが、作業には支障がなかった。

 準備ができた頃には六時半が過ぎていた。中学のジャージを着たまま眠る妹を起こして夕飯にする。

 会話はほとんどなかった。いつからかは分からない。
 
 両親は帰ってこない。仕事だ。"仕事"? そう、仕事だ。
 彼らが仕事だと言っているのだから、仕事には違いないのだろう。それがどんな内容なのかは知らない。

 とにかく仕事だと言ったら仕事なのだ。疑う理由なんてない。俺は言われた通りに家の中の雑事をこなせばいい。
 何も考えるべきじゃない。……嫌なことなんて考えない方がいいのだ。

86:2012/04/28(土) 21:29:53.16 ID:




「部長」と、後輩は、いつも俺のことをそう呼んだ。





 放課後、ハカセに呼び出されて部室に顔を出すと、中には後輩しかいなかった。
 彼女はパイプ椅子に座って気持ちよさそうに眠っている。
 開け放した窓から吹き込んだ風が、部屋の中で静かに巻き上がり、開かれた本のページをめくった。

 棒立ちのまま、彼女の寝顔に見とれる。

 人はこんなふうに綺麗に眠れるものだろうか。

 彼女を前にすると、俺はいつもある種の後ろめたさに苦しめられる。

 俺はさまざまなことについて考えている。そのことに苦しんでもいる。

 けれど、どれほど自分にとって切実な考え事だとしても、それは所詮"考え事"だ。
 現実の諸問題とぶつかってみれば、そんな"考え事"は結局、空疎な言葉遊びに過ぎない。

 自分は思考の海に逃げ込み、そこに溺れることで、現実のさまざまな問題から目を逸らしている。
 子供が積み木遊びでもするように、俺はこの世界を軽んじている。
87:2012/04/28(土) 21:30:51.45 ID:

 そういったことを、彼女を前にすると強く自覚せざるを得ない。
 おそらくは彼女が、この現実に対して彼女なりに真摯に向き合おうとしているからだろう。

 いつまで逃げているつもりなのかと、そう問いかけられているような気分になるのだ。
(けれど実際、俺という人間は"現実に即した"何かをこなせるのだろうか)

 だから、俺は彼女と一緒にいるのがあまり好きじゃない。
 自分の幼稚さを、眼前に突き付けられるような気がするからだ。

 そのこととは無関係に、俺は彼女に好意を抱いてもいた。
 それは否定することもできないほど大きな感情だ。
 
 どうしてなのかは分からない。本当に分からない。
 俺は彼女を前にすると冷静ではいられなくなる。
 激情と呼んでもいいほどの感情の波が、俺の心を強く揺さぶる。抗えないほど強く。

 そのことに気付くたびに、自分自身を軽蔑せずにはいられない。

 彼女は、俺が失ってしまった何かを持っているのかもしれない。
 だからこそ、俺は彼女に強く惹かれてしまう。……たぶん、そういうことだ。

88:2012/04/28(土) 21:31:25.40 ID:



 後輩が目をさましたのは、それから十分ほど経った頃だった。
 彼女は俺の姿に気付くと、自分が眠っていたことに気付いて驚き、照れくさそうに苦笑した。

 ハカセたちはどうしたのかと俺が訊ねると、後輩は首をかしげた。

「寝ちゃう前までは部室にいたんですけど……」

 俺は溜め息をついた。鞄はあったし、帰ってはいないのだろう。
 
「悪いけど、俺はもう帰らなきゃ。ハカセに伝えてくれる?」

 俺が言うと、後輩は考え事をするように眉を顰め、

「わたしも帰ろうかな」

 と言った。

「例の調査はどうするの?」

「焦ったところで進展するわけじゃありませんから。一日くらいサボっても大丈夫です」

 いちばん乗り気だったように見えたのに、案外やる気がないのだろうか。

89:2012/04/28(土) 21:31:46.79 ID:

「一緒に帰ってもいいですか?」

「どうして?」

「別に意味はありませんけど。だめですか?」

「……いや、ダメとかじゃなくて。だって家の方向が違うだろう?」

「一緒ですよ」

「そうだっけ?」

「はい」

「――そうだったっけ?」

「そうですってば」

 彼女はおかしそうに笑った。

90:2012/04/28(土) 21:33:13.82 ID:




 違和感を抱きながらも、帰路につく。後輩の家は、たしかに俺の家とさほど遠くない地点にあった。
 以前からずっとそうだったような気もするが、このあたりに住んでいたなら、小学も同じだったはずだ。
 
 ……そうだっただろうか? こんなに近所だったっけ? よく思い出せない。
 
 児童公園に通りかかると、このあいだと同じように、黒いスーツの男がいるのが見えた。
 赤いランドセルを背負った少女と、何か話をしている。
 あまりにも怪しく見えたので、俺は声を掛けることにした。

「人殺しの次は人さらいに転職するのか?」

「おい、そりゃ誤解だよ、少年。人聞きの悪いことを言うなよ。どちらかというと話しかけられたのは俺だ」

 殺し屋は親指で少女を示した。
 女の子は、目が合うとにっこりと笑った。
91:2012/04/28(土) 21:33:45.89 ID:

「こんにちは」と彼女は言った。
「初めまして」と俺は答えた。

 彼女は自己紹介をはじめた。自分はどこどこの小学校に通う何年生で、星座や血液型はこうで、向こうの家に住んでいる。
 そんなようなことを言ったが、彼女は名前だけは言わなかった。俺は何ひとつ覚えられる気がしなかった。

 俺のうしろについてきていた後輩も、咄嗟に混乱したのか、なぜだか自己紹介を始めた。

 自分はどこどこに通う何年生で、星座や血液型はこうで、向こうの家に住んでいる。

「わたしはよく明るいねって言われます」

 と少女が言うと、

「わたしはよく、えっと、暗いねって言われます」

 と後輩が返事をする。これはいったい何なのだろう。
 後輩もまた、名前だけは名乗らなかった。

92:2012/04/28(土) 21:34:36.73 ID:

「いたいけな少女に何をするつもりだったの?」

 俺は溜め息をついて大男に話しかけた。

「誤解だって言ってるだろ。この子から話しかけてきたわけ」

 言葉の通りだとしたら、こんな強面の男に、よく話しかける気になったものだ。
 見た目は臆病そうだが、案外度胸があるのかもしれない。

「あのね、君、知らない人に声を掛けちゃいけないよ」

「……ダメなんですか?」

 と、なぜか後輩が後ろから言った。
93:2012/04/28(土) 21:35:15.69 ID:

「ダメだろ? 普通に考えて」

「でも、ダメなのは、知らない人に声を掛けられて着いていくことじゃないですか?」

「……そうだな。まあ、でも、知らない人には声を掛けちゃダメなんじゃないか」

「じゃあ、時計を忘れても時間を聞けないし、道がわからなくても誰にも頼れなくなっちゃいますよ」

「……そうなるね。でも、ダメだろ? 子供が知らない人に話しかけるのは。危ない相手かもしれない」

「そうですかね? なんだか世知辛い世の中ですね」

「……まぁ、同意するけどさ、たぶんいつの時代だって似たようなものだと思うよ」

 後輩は納得がいかないような表情をしていたが、結局頷いた。
 俺たちのやりとりを眺めながら、少女はクスクスと笑った。……変な子だ。

94:2012/04/28(土) 21:35:48.44 ID:

「で、何の話をしてたんだ?」

 俺が問うと、殺し屋は肩を竦めた。

「男の子の口説き方を教えてくれって言われたんだよ」

 見かけに似合わず積極的な女の子らしい。

「おじさん!」

 少女は咎めるように怒鳴った。殺し屋は慌てた様子だった。

「言ったらまずかったか?」

「まずいです。とても、まずいです」

 まずいらしい。俺は溜め息をついた。いい年をした大人が子供に怒られている。

95:2012/04/28(土) 21:36:12.82 ID:

「わたし、帰ります」

 女の子は殺し屋の方をキッと睨んで舌を出すと、背を向けて公園を出て行った。
 彼女の背中で、赤いランドセルが揺れる。
 既視感があったが、さして気にとめなかった。彼女とどこかで会ったことがあるだろうか?

「嫌われたかな」

 黒スーツは苦笑しながらも、真剣に嫌われることを怖がっているような態度だった。
 親熊が小熊の機嫌をうかがっているみたいだ。

「なんだってアンタみたいなのに話しかけようと思ったんだろうね」

「お前、このあいだとはずいぶん態度が違うじゃないか」

 そうだっただろうか? 俺は彼がしたのと同じように肩をすくめた。
 
96:2012/04/28(土) 21:36:39.03 ID:

「わたし、先に帰りますね」

 後輩はそういうと、こちらに背を向けてさっさと行ってしまった。
 なぜだか呼び止める気にはならない。

「いいのか?」

 大男は言った。

「いいよ、別に。ここまで一緒にきたことにだって、別に大した意味なんてないんだから」

「アホか。意味なんてなくても、一緒に帰ってる相手が先に行くって言ったら呼び止めるもんなんだよ」

「どうして? 一緒にいるのが嫌だったのかもしれないじゃないか」

「バカかお前は」

 と、大男はこのあいだと同じ言葉を吐いた。
 話が続くと思って黙っていたが、彼はそれ以上何も言わなかった。

97:2012/04/28(土) 21:37:12.42 ID:

「ねえ、アンタって殺し屋なんでしょう?」

「アンタはねえだろ、坊主。まあ、そうだよ。殺し屋だ」

「どうして殺し屋になったの?」

「別になりたくてなったわけじゃねえよ。ならざるを得なかったんだ。殺し屋なんてみんなそうだ」

「人を殺すのって、悲しい?」

「まあ、そうだな、悲しいよ。特に、悲しむことが身勝手だと思うときがいちばん悲しい」

 大男はさして気にしていないように笑った。真剣な表情を見せないことが、彼なりの礼儀か何かなのだろうか。

98:2012/04/28(土) 21:38:46.27 ID:

「どうして人を殺しても平気なの?」

「別に平気じゃねえよ。でも、別につらくもない。結局、俺は自分のことしか考えていないわけだ」

「ふうん」

「お前も歳を取ると分かるよ。覚えておけよ、今は子供だけど、お前もハタチを過ぎると気付くことになる。
 時間は取り戻せないし、人間は過去に戻れない。そういうことを強く実感することになる。今以上に切実にな。
 三十を過ぎるのなんてもっとあっという間だ。
 これは実体験からの教訓だが、地に足のついていない考えごとに夢中にならないことだ。
 考え事をしながら満喫できるほど人生は易しくない」

 別に俺は人生を満喫することに興味なんてなかったのだが、それも俺が若いからなのかもしれない。

 アンタの説教こそ、あんまり地に足がついてる感じがしないね。
 そう感じるのは、やはり俺が若いからなのだろう。
(彼と俺との会話の「人」という部分を、「生き物」と言い換えても成立することに気付いたのは翌日のことだ)

99:2012/04/28(土) 21:39:29.98 ID:




「人間なんて、結局ひとりぼっちだな」

 中学のとき、ハカセは俺に言った。
 俺が一年、彼が三年。対等な友人同士として生活するには、あまり釣合のとれていない関係だ。
 もっとも、俺たちは友人なんかじゃなかったし、もともと周囲とは距離を置きがちだったので、釣合はあまり関係がなかった。

 彼のそのときの言葉は、今となっては、鼻で笑いたくなるほど思春期らしい言葉だ。
 けれどそのときの俺には、その言葉はとても納得がいくものだった。
 
 合点がいく、とでも言うのだろうか。俺は大いに納得したのだ。

 そうだ、人間なんてひとりぼっちだ。結局、誰も彼も孤独なのだ。
 上手いこと誤魔化しているだけだ。孤独なのだ。孤独なのだ。みんなそれをごまかしているのだ。
 だましだましで生きているだけなのだ。

 俺はそうやって納得した。
 思春期にありがちな斜に構えたものの見方のひとつだ。

 もちろん、孤独という言葉の定義によって、「人間は孤独」と言えるかどうかも変わる。
 人間は完全に理解し合うことができない。だが、それも「理解」の定義によって結論が異なる。
 同時に「完全」という言葉も定義しなくてはならないだろう。
(まさしく児戯に等しい考えごとだ)

100:2012/04/28(土) 21:41:05.29 ID:

 人間は、たしかに孤独らしい。そこはハカセの言った通りだ。
 でも、それはあげつらう必要があるほどの問題だろうか?

 人間は芯のところでは分かり合えない。結局のところ孤独かもしれない。
 だからといって、もし孤独だったとしたら何の問題があるのだろう?

 仮に孤独でも、友人や恋人を作って寂しさを紛らわすことはできるはずだ。

 少なくとも世間一般で言われる“孤独”という状態が悪いものとは、俺にはまったく思えない。
 孤独であるということを悲しむのは、「孤独でない」ということにある種の優越感を抱いているからではないのだろうか。

(もちろん、この世には友人や恋人どころか家族すらいない本当の孤独というものもあるのだろうし、
 こんなことを考えても平気でいられる時点で、俺は本当の孤独とは無縁の、やはり恵まれた人間なのだろう)

104:2012/04/29(日) 22:57:18.61 ID:




「関係ないわよ」

 女は溜め息をついて言った。
 喫茶店のカウンター席に、俺と彼女は並んで腰を下ろしている。

「いい? 一度しか言わないからよく聞いて。そんなことはね、関係ないの。あなたがどんな人間でもね」

 彼女ははっきりと言い切ると、煙を吐き、灰皿を煙草で叩いた。彼女の指に挟まれたパーラメントの先が静かに崩れ落ちる。
 灰を落とした吸いさしは、ぼんやりと笑うような赤色に、鈍く輝いた。その色は溶岩に似ている。

 何もかもを溶かそうと言うのだ。どんなものも無関係に溶かし尽くしてしまおうと言うのだ。
 その光は、かすかに俺の心をとらえた。それは些細な変化だったが、それでも無遠慮に俺の頭の中を荒らして回った。

 焼き尽くしてしまいたいのだ。

 俺は溜め息をついて、コーヒーに口をつけた。カウンター越しの店主が、うらぶれた風采をなんとか整えたような薄幸そうな表情で笑う。

「ところで、俺たちは何の話をしていたんでしたっけ?」

「何だったかしら?」

 女は笑わなかったが、俺は笑った。

105:2012/04/29(日) 22:57:44.38 ID:

「私、あなたと話していると、とても疲れる」

「どうして?」

「分からないけど、腹が立つの。無性に。たぶん嫌いなの。あなたみたいな人が」

「きっぱり言いますね」

「そういうところよ。どうしてそんなに平気そうなの?」

 俺は少し考えて、答えた。

「別に平気じゃありませんよ。人並みに傷ついたりもします。でも、誰かに嫌われたところで問題はないじゃないですか。
 嫌な気持ちになったりもしますけど、だからどうなるというわけじゃない。
 結局のところ、他人が自分にどういう感情を抱いているかなんて、気にしなければ存在しないのと同じですよ」

 彼女は「そうかしら」とでも言うように眉をひそめた。

「他人の感情が、自分の居場所を失わせることもあるわよ。嫌われ者は職場に居場所がないの」

「居場所がないからどうなるってわけでもないでしょう」

 彼女は鼻で笑った。きっとこの人は俺のことなんてすべてお見通しなのだろう。

106:2012/04/29(日) 22:58:11.15 ID:

 俺はいつも、人と出会うたびにこう問いかけたいのを我慢している。

「貴方はなぜ働くのか?」

 こう聞くと「趣味に使う金が欲しい」だとか言う人もいるが、大抵は「生活のため」だと答える。
 食っていくためには金がいるというのだ。

「ではなぜ食べるのか?」

 更にこう問いかけると、大半の人間はバカバカしいとでも言いたげに、もう半分はそんな問いにはもう飽きたとでも言いたげに、

「そうしないと生きていけないからだ」と答える。

「ではなぜ生きるのか?」

「なぜそうまでして生きるのか?」

「何のために?」
107:2012/04/29(日) 22:58:37.16 ID:

 ――惰性である。
 別に積極的に死にたくもない。だから生きる。そう言うのだ。

 生きるに足る理由を持つ人間は少数派だ。
 そして彼らは、理由について考えることは不幸の種であると考える。

「そんなことを考えたところで、分かったもんじゃないさ。いいから少しでも人生を楽しむのがいい。
 好きなことをやって、好きなように生きて、美味いものを食って……そういう生活を一秒でも多く送れればいいさ」

 その考えはきっと正しい。
 正しいのだ。おそらく、正しい。 
 ……きっと正しい。間違っていない。まったく間違っていない。完膚なきまでに正しい。
 そのはずだ。そうでなくては困る。そうであってほしい。

 だが、そうやって生きた人は、もし、いま死ぬというまさにその瞬間、最期のときに、

「俺は何のために生き、何のために死ぬのか?」

 という疑問が頭に沸いてきたらどうすればよいのだろう。
 俺はそのことがとてもおそろしい。
 自分というものが途方もなく無意味な存在だと、そう気付かされることが、とても怖い……。

108:2012/04/29(日) 22:59:08.61 ID:



 女神ガラテアの使者を名乗る「ティア」という名の妖精は、手紙が来た三日後には現れた。

「本当はもっと早くこちらに来る予定だったのですが、カリオストロの妨害が激しくなってきたのです」

 十五センチ定規と並べて少し大きいくらいの身体から、蝶のような羽を生やした、綺麗な女の子の姿をしていた。
 
「お話はご理解いただけていますね? 事態は火急です。速やかに対処しなければ!」
 
「対処って、具体的に何をするわけ?」

「は?」

「その"ズレ"ってさ、どうしても止めなきゃならないの?」

「何ですって?」

109:2012/04/29(日) 22:59:45.82 ID:

「別に良いじゃん。世界なんてズレようがズレまいが。カリオストロが復活して、それでどんな問題があるの?」

「世界が滅んでしまうかもしれないのですよ!」

「だから何なんだって聞いてるの。世界が滅んで、それで何の問題があるわけ? 人類なんて滅亡すりゃいいよ」

「罰当たりな!」

「神様がたかだか一生物の存亡に介入したがる方がよっぽど変だよ」

「罰当たりな!」

 ティアはそれだけを繰り返した。
 俺は溜め息をつく。

 カリオストロ、この世界を早々に焼き尽くしてしまってくれ。
 二度と陽の光に照らされるものがないように。
 二度と誰かと出会うことのないように。
 
 そうして焼き尽くした果ての孤独は、俺がすべて引き受けてもいい。
 このろくでもない世界をどうにかしてしまってくれ。 
 お願いだから。

110:2012/04/29(日) 23:00:42.39 ID:



"ズレ"た。
 授業中の教室で、ティアの説得を聞き流していたときだった。

 俺はコンビニに居た。なぜか制服を着ていた。レジに立っていた。こんなことは初めてだった。
 女性店員に指示されながら、俺はバーコードを読み取る。揚げ物をする。掃除をする。商品を陳列し直す。
(サッカ、アゲモノ、ゼンチン、エフエフなどの言葉が飛び交っていたが、俺には何の事だかわからなかった)

 俺はバーコードを読む。商品を袋に入れる。時計の針はちっとも動かない。
 煙草の銘柄も何が何だかわからなかった。マイセンって何の略だよと思った。
 でもやるしかない。
 ボックスとソフトは何が違うのだ? ショートとロングは見たまんまの違いでいいのか?
 6ミリとか1ミリとか何の話だ? ラッキーストライクだのフィリップモリスだのいったいなんなんだ?
 頼むから番号で言ってもらえないか?

「それじゃない!」と柄の悪い客が怒鳴った。

「申し訳ありません。こちらでお間違いありませんか?」

 変な日本語だと俺は思った。「お間違いありませんか?」って何だ?
 間違っているとしたら俺だ。だったら「お」をつけるのはおかしい。「間違いありませんか?」じゃないのか?
 違うのか? 俺の認識が間違っているのか? 

 でもやるしかなかった。
 やり過ごすしかなかった。そうしないと――取り残されてしまう。
 
 どうしてこんなに哀しいのだろう。

111:2012/04/29(日) 23:01:15.21 ID:



 
 放課後、誰かに会いたい気分になって、ティアの声を無視しながら自然科学部の部室に向かった。
 けれど、誰も部室にはいなかった。

 今ならあの調査を手伝ってもいい気分だったのに。俺はひとりぼっちになってしまった。
(違う。俺は最初からひとりぼっちだ)

 ああ、うるさい。何かが耳元でわめいている。ティアだ。こいつはいつまでここに居る気だ?
 
 どうでもいいんだ、そんなものは。勘弁してほしい。俺はカリオストロにも世界にも興味がないのだ。
 そんなもの復活すればいいし、滅んでしまえばいい。
 俺にはまったく関係ない。

 いやむしろ、世界が滅ぶのは望むところだ。
 亡びればいい。滅びてしまえ。

 そんなものは全部滅んでしまえ。

112:2012/04/29(日) 23:01:52.94 ID:

 不意に背中に声を掛けられた。振り返ると、見知らぬ上級生がこちらを見ている。
 
"上級生?"と俺は思った。なぜ俺は彼女を上級生だと思ったのだろう。背は年下に見えるほど低い。顔も幼い。
 見た目も声も、ぜんぜん年上には見えない。それなのにどうして、俺は彼女が上級生だと分かったのだ?

「今日は顔を出さないんですか?」

 彼女は言った。

「……何の話ですか?」

「ですから、×××の方には」

「は?」

「×××です」

「……え?」

「×××……ですけど、大丈夫ですか?」

 俺が混乱していると、ティアが叫んだ。

「カリオストロ!」
113:2012/04/29(日) 23:02:25.18 ID:




 ――追われていた。
 
 気分は狩人に追われる兎か、獅子に狩られるシマウマか。
 景色は真っ赤に染めあがっていた。とうに冷静さは失っている。

 ここはいったいどこなのだ?

 どこをどう逃げてきたのかも思い出せない。
 泣きたくなる。

 息が切れ、足がふらつく。熱が逃げ場所を失ったように全身に滲んでいた。

 逃げなくてはいけない。何から? ……カリオストロ、そう、カリオストロだ。

 あの魔神から……俺は逃げなければいけない。
(どうして? 死も亡びも、すべて俺が待っていたものなのに?)

 分からない。でも逃げなければならない。逃げなければ――そうしなければ、"つかまってしまう"。

114:2012/04/29(日) 23:02:51.22 ID:

 児童公園に逃げ込むのと同時、俺は四方を囲まれた。
 八つの赤い瞳が、俺を睨む。

 それは黒い犬――そう言うにはあまりに野生を滲ませた、犬だ。
 まるで影から這い出て、闇に溶けるような姿の、黒犬。

 獲物を睨んで流涎を止めず、隙をうかがい牙を剥く。
 まるで屍肉を漁る鴉のようだ。

"つかまってしまう"。

 やめてくれ。もう俺を襲うのはやめてくれ。俺はもうやめたんだ。諦めたんだ。 
 だから見逃してくれ。俺はこんなことちっとも望んじゃいない。君に危害を加えるつもりはなかったんだ。
 
115:2012/04/29(日) 23:03:21.65 ID:

「目を覚まして!」

 声が聞こえたが、それに応える余裕はなかった。
 
 もう忘れたいんだ。すべてを忘れてしまいたいんだ。もう嫌なんだ。こんなことを繰り返すのは。
 だからもう見逃してくれ。頼むから、忘れさせてくれ。

「思い出して! あなたは英雄の魂を持っているのよ! あなたはこの世界を守ることができるの!」

(守る? 俺に?)

「そう、あなたにはできるの! あなたにしかできないの!」

(……そんなこと、俺にできるわけがない。現実を見ろよ)

「現実なんて見なくていいわ!」

 ティアは言った。

「"現実なんて見なくていいの"!」

 俺の脳裏に、強い光が差し込んだ。一瞬後、それは掻き消える。夕闇の児童公園に、俺と四匹の黒犬がいた。

 黒犬は、不意に視線を動かし、鼻を鳴らす。
 ベンチには黒スーツの男が血まみれで倒れていた。

 ――頭が急激に冴えていく。

116:2012/04/29(日) 23:04:23.12 ID:

 彼の腕の中から、嗚咽の声が聞こえた。
 あの少女――あの赤いランドセルの少女が、男に庇われ、泣いている。
 彼の背中には無数の傷があった。爪牙の跡があった。

 ――どうしてこんなことをしてもいいと思えるのだ?

 俺は立ち上がった(そうしてから、自分がそれまでうずくまっていたことに気付いた)。
 頭を掻いて黒い犬を観察した。かなり大型だ。溜め息をつく。なんなのだ、こいつらは。

 俺の胸には沸々と怒りが込み上げていた。

 黒い犬を蹴り飛ばした。犬はみっともない鳴き声をあげて弾け飛んだ。
 どうしてこんなものから逃げていたんだろう。
 
「忘れないで、カリオストロはあなたを苦しめる魔物なの。赦しちゃいけないのよ」

 ティアの声が聞こえた。
 言われなくても、赦す気にはなれない。

117:2012/04/29(日) 23:04:48.37 ID:




 どこからが夢でどこからが現実なのか。
 どこからが妄想でどこからが現実なのか。
 どこからがまともでどこまでがまともじゃないのか。



 
118:2012/04/29(日) 23:05:14.47 ID:
つづく
119:2012/04/30(月) 05:37:14.20 ID:
1乙
一気に方向決まったな
121:2012/04/30(月) 16:05:36.05 ID:




 
 不意に、声が消えた。
 公園には血まみれの大男と、少女だけが倒れ伏している。
 
 ティアはどこかに消えてしまった。

 何がどうなっているのだろう。あの黒犬はどこに行ったのだろう。
 この"世界"に何が起こっているのだろう。

 俺は殺し屋の身体に歩み寄った。血だまりが出来ている。
 嗚咽はやまない。少女は泣いていた。

 俺は骸になったように動かない大男の身体をずらし、少女を助け起こした。彼女は泣き止まなかった。

 ここにはカリオストロの気配だけが残っている。

 少女は動かない大男の身体にすがりついた。
 俺は彼に話しかけてみた。かすかな反応がある。死んではいないのだ。

122:2012/04/30(月) 16:06:04.31 ID:




 ふと気付くと、俺は見知らぬ建物の中にいた。ソファに体を預けて眠っていたらしい。
 体を起こすと、全身が軋むように痛んだ。
 
 どこかの応接室のようだ。不意に、頭痛が襲う。

 周囲には誰もいない。耳を澄ますと、人の話し声が聞こえた。
 
 部屋を出る扉を押すと、声はよりはっきりと伝わってきた。

「ああ、起きた?」

 その部屋に入った瞬間、俺に気付いて、女は口を開いた。
 知らない女だ。近頃、こんな女にばかり会う気がする。

 わけのわからない女。どこから来たかもわからないような女。見覚えがあるような女。でも、会ったことはない女。
 女は気安げな笑みを浮かべた。俺にはそれが胡散臭げに見える。

 俺が怪訝に思っているのを分かっているのかいないのか、女は笑みを浮かべたまま続けた。

「英雄の生まれ変わりって言ってもさ、さすがにアレを一気に四匹はやりすぎだよ」

「は?」

123:2012/04/30(月) 16:06:50.65 ID:

「だから、あの犬。殺しちゃったんでしょ?」

 ――こいつは何の話をしているんだろう。

「しかも素手って。……つーか、素足? いや、靴は履いてたか。いくらなんでも無茶だって」

 女はからからと笑った。なぜだか知らないが、俺はこの女が好きじゃない。不意に、そう感じる。

「で、あそこで倒れてた男の人のことなんだけどさ」

 女はそう言って、部屋の隅のソファを指差した。さっきまで俺が寝ていたものと似ている。
 そこにはあの大男の姿があった。あらわになった上半身に包帯が巻かれている。すぐそばで、少女が泣き腫らしたような目で黙っていた。

「治しといた。かまわないでしょ?」

 唐突に変化した状況が理解できず、俺は安堵することも警戒することもできなかった。
 
「……アンタ、誰?」

「さあ?」

 ごまかすというよりも、本当に正しい答えを知らないような言い方だった。

「しいていうなら、魔法使いとか」

 俺は溜め息をついた。
(ところで、俺が起きる直前まで、彼女は誰と話をしていたのだろう?)
124:2012/04/30(月) 16:07:32.36 ID:




 どうでもいいのだ。
 魔法も殺し屋も魔神も女神も妖精も英雄もどうでもいい。
 そんなのはどうでもいい。本当のところなんだっていい。

 どうして俺を巻き込むのだ?
 俺にはそんなことよりずっと真面目に考えなければならないことがあるのだ。
 俺はさまざまなものから目を逸らしすぎていたのだ。だから今から可能な限り物事に真摯に立ち向かわねばならない。
 どうして俺を巻き込む? 放っておいてくれない?

 みんな俺のところを訪れたり、勝手にいなくなったり、うんざりだ。
 俺は他人のことなんてどうだっていい人間なのだ。
 自分のことしか考えていない人間なのだ。 

 それならばどうして俺は、あんなにも鮮烈な怒りを抱いたのだろう。 

125:2012/04/30(月) 16:08:23.54 ID:



 
 朝、いつもの通り学校に行くと、登校している生徒がおそろしく少ないことに気付いた。
 いや、生徒だけではない。教師もまた、来ていないものが多かった。

 ……いや、学校どころか、街中から人が減っているように思えた。
 
 ティアはカリオストロの流出が生んだ"ズレ"の影響だと言う。

「ガラテア様の結界が破かれつつあるのよ。今にこの世界は、絶望と破綻に飲み込まれてしまう」

 それを阻止するためにも、あなたの力が必要なのよ。ティアの言葉はさっぱり要領を得ない。
 何がどんなふうに影響すれば、人が減ったりするんだろう。

 放課後、自然科学部の部室に顔を出した。ここ数日、まったく顔を合わせていなかった部員たちと出会う。
 
 ハカセは俺を見るなり、真剣な表情をして言った。

「お前、俺に何か言うことはないか?」

 何の話だろう、と俺は思った。
 見れば、シラノもトンボも後輩も、真面目な顔をしてこちらを見ている。
 どこか恐れるような表情だ。

126:2012/04/30(月) 16:08:54.78 ID:

「どうかした?」

「本当に、心当たりはないか?」

 ハカセの言葉に、俺は失望したような気持ちになった。

「あのね、ハカセ。俺は隠し事ができるほど器用じゃないし、そもそも隠し事をするほどの人間性なんて持ち合わせちゃいないんだ」

 彼は溜め息をつくと、頭を掻いて、「そうか」と呟いた。

「何かあったのか?」

 俺が訊ねると、彼らの顔は気まずげにこわばった。

「例の噂を調べてたら、変なことがわかったんだよ」

「変なこと?」

「噂を広めた奴の正体」

「……へえ」

 あまり興味は沸かなかった。もともとあの噂にだって、たいして思うところがあったわけでもない。

 ハカセは頭を振って続けた。

「お前だって言うんだよ、みんな」

127:2012/04/30(月) 16:09:44.50 ID:



 自分でも分かっている。
 今の俺は、たしかにマトモじゃない。
 何が現実で何が妄想か、その区別がついていない。
 けれど、だからといってハカセの言葉はあまりにバカバカしい。
 
 だが、どうしてか納得のいく気持ちもあった。

 噂を広めたのは俺じゃないが、噂の原因を生んだのは俺だ、と、言いようのない確信があった。

 そんなことがあり得るものだろうか。
 俺は噂を広めたっけか? よく思い出せない。
 そもそもどうやって噂を広めたというんだろう。友達もいないのに。

 ジリジリと、頭の奥が痛む。

 いつからだ? いつからこんな生活になってしまった?

 あるいは、いや、それこそ、最初からこうだったのだろうか。

128:2012/04/30(月) 16:11:21.65 ID:




 夕方の部室に、俺は一人きりで立ち尽くしていた。
 何をやっていたのかが思い出せない。何が起こったのかも思い出せない。
 耳元でティアが騒いでいる。

「カリオストロの流出よ。このままじゃ、この世界は終わってしまう」

 そんなに大仰なものじゃない、と俺は思った。
 これはもっと単純なものだ。もっと密接に俺と関連している事柄だ。

 ハカセの言葉を聞いて、俺は取り残されたような気持ちになった。
 俺は何かを忘れているのだ。
 
 おそらくは大事なことを。それはひょっとしたら、ハカセやシラノたちも同じなのかもしれない。

129:2012/04/30(月) 16:11:48.08 ID:

 俺はポケットから携帯を取り出した。電池は充電されている。いつ充電したのかは覚えていない。
 
 ハカセの携帯に電話を掛ける。3コールほどで彼は電話に出た。

「どうした?」

 彼の声に、俺は少し緊張した。

「調査、手伝うよ」

 ハカセは息をのんだようだった。
 俺はこの事態をしっかりと見極めなくてはならない。
 
 さまざまなことが、俺にのしかかっている。訳の分からない混沌が、俺の世界で這いうねっている。
 断線した記憶と同じように、俺の周囲の事態は混迷を深めていく。
 
 なにかが変わろうとしているのかもしれない。
 俺はそれを確かめなければならないのだ。ひとつずつ。

 不意に、スズメの笑い声が聞こえた気がした。屋上に行く気にはなれない。なぜだろう?
 なにかが狂いはじめている。
131:2012/04/30(月) 16:27:11.10 ID:
ふむ
133:2012/05/01(火) 20:50:59.96 ID:




「部長」

「毎回、同じことを言うようだけどさ、俺は部長じゃない。ただの部員」

「そうでしたっけ?」

「そうなの。第一、俺は――」

「……第一、なんです?」

「……いや、なんだっけ?」

「知りませんよ」

 後輩はクスクス笑った。
 俺は何を言おうとしたのだ?

134:2012/05/01(火) 20:51:35.36 ID:




 旧校舎の入口は封鎖されている。ハカセたちが実地に調査に向かわず、聞き込みに終始したのはそのせいだろう。
 俺が旧校舎への入り方を(なぜか)知っていると言うと、彼らはそろって疑念を込めた目でこちらを見た。

 旧校舎の西側の窓は、一か所だけクレセント錠の取り付けが甘く、少し前後に揺すると鍵が開いてしまうのだ。
 幸い旧校舎の辺りは人通りも少なく、放課後でも誰かに見咎められることはない。

 旧校舎は黴の臭いがした。床に広がった埃は、ぱっと見ただけでは分からないが、振り向けば足跡が残るほどに積もっている。
 
 トンボが懐中電灯を取り出した(どういう事態になるかわからないからと、普段から持ち歩いているらしい)。
 何も点けずとも夕陽が差し込んでいて多少は明るく見えたが、灯りをつけると暗さがはっきりと分かった。

 俺たちは一階から順に校舎中の教室を覗いて回った。当然だが人の気配はしない。

 ――そもそも、どうしてこんなところに人が迷い込んだりするのだろう。
 何かの用事があるような場所ではない。誰もこんなところに来る理由はないはずだ。
 それならばなぜ、ここに"人が来て"、かつ"人が消える"ような噂が立つのだ?

 もちろん、窓から入ることはできる。でも、誰が何のために入るのだ?
 せいぜい肝試しくらいしかできない。その肝試しだって、怪談がなければ誰がするだろう。

135:2012/05/01(火) 20:52:23.39 ID:

「なんだかワクワクしますね」

 後輩が楽しそうに言った。

「そう? げんなりしない?」

「げんなりするんですか?」

 彼女は心底意外だという顔をした。

「こういうの、楽しいじゃないですか。なんだか子供の頃を思い出して」

「まあ、そうだな。子供の頃も、こんなことをしたっけ」

「はい」

 嬉しそうに頷いてから、彼女は喉に刺さった魚の小骨が痛んだような顔をした。

「……いま、わたし、何か変なこと言いませんでした?」

「さあね」

「じゃあ、部長、なにか変なこと言いました?」

「……さあ? あと、俺は部長じゃないから」

136:2012/05/01(火) 20:53:23.36 ID:




 現代社会にはびこる諸問題を俎上にのせようとすると、必ずと言っていいほどこのような言葉を使うものが現れる。

「いつの時代にだって問題はあった。社会に不平を言うのは子供がやることだ。
 自分でどうにかできないからといって社会にケチをつけても始まらない。
 まずはしっかりと大人になって、義務を果たすことだ」

 そうだろうか。

 いつの時代にだって問題はあった。それは正しい。
 だが、"だから問題を考えるのは後回しだ"という考えは正しいだろうか。

 もちろん身の回りのことをしっかりとこなした上でしか、社会を語ることはできない。
 だが、問題がいつの時代も変わらず存在していたように、それを解決しようとする人間もまた、常に存在していたのだ。

 そうすることで社会は発展してきたのだし、さまざまな問題は俺たちの身の回りから離れていった。

「社会にケチをつけることは子供のやること」だろうか?

137:2012/05/01(火) 20:53:52.98 ID:

 よりよい社会や世界について考えることは、現実から夢想へ遊離することに直結しやすい。
 心の弱いものはとくに、社会について考えることでミクロな問題から目をそらしてしまおうとする。

 だが、"だから後回しだ"は正しいのだろうか。
 少なくとも俺は、俺に対してなにひとつ保障しようとしない社会に安易に参加する気にはなれない。
 
 それならばいっそ社会に反して生きた方がマシだという気もする。
 秘境を求めて旅をするのでもいいし、法と道徳を無視して夜を駆けてもいい。
 山に逃げ込み熊に食われるのも一興だろう。もちろんこれは俺個人の認識だ。

 他人はみんな、"そんな時期はとうに通り過ぎたよ"と言いたげにするりと前に進んでいく。
"この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ"と記された門を前に躊躇しない。
(いま、生きることに何かの"望み"を持つことのできる人間がどれほどいる?)

138:2012/05/01(火) 20:54:34.25 ID:

 なぜみんな、そんなに迷わずに"社会"を選べるのだろう。
 少なくとも俺には、"社会"に参加している人間はひとりだって幸福そうに見えない。
"幸福なはずだ"と信じようとしているように見える。そんな場所に誰が参加したいと思うのだ?
"~せねばならない" と "~したい" はまったく異なる。

 時間の経過とともに選択の余地はなくなっていくし、やがて俺も社会に迎合することになる。
 だが俺は、"社会"とか"世間"とか言うものに素直に従う気にはなれない。まったくなれない。みんなそうじゃないのか?
 あるいはこれは俺の幼稚さを象徴しているのか? 安直なユートピア願望に過ぎないのか?
 きっと違う。"完全に良い世界"を求めることと、"今より少しでもいい世界"を求めるのはまったく違う。

 誰も彼もが不幸そうな顔をした世界に生まれた赤ん坊は、生まれてよかったと思えるのか?
 そんな考えこそが"現実から遊離した思考"でしかないと言われてしまえばそれまでだ。
 だが、現に俺は幸福そうな人間というものを目の当たりにしたことがない。誰も彼もつまらない顔をしている。

 こんな世界に誰が生きていたいと思うのだ?
(もちろんこれは"俺にとってはそうだ"という程度の意味しか持たない話なのだが)

139:2012/05/01(火) 20:55:14.06 ID:





 スズメはいつも、そんな俺のことを笑った。

「ばかみたい」

 彼女の表情は夏の空の下で見るにはあまりに白すぎた。

「上手に社会に適応して生きていく自信がないから、"この世界には適応してまで生きていく価値がない"って思いたいだけでしょ?」

「そういう見方もできるかもしれない。でも、本当のところどうなんだ?」

「なにが?」

「こう言ったらなんだけど、俺はクズだよ。無能だ。普通のことすらまともにこなせない。際立った才覚もない。
 そんな奴はさ、この社会にはいらない奴だ。いらない奴には、誰も優しくしない。
 だったら、なあ、死んだ方がマシなんじゃないか? 俺みたいな奴は。死んじまったほうが幸せなんじゃないか」

「知らないよ、そんなこと」

 彼女が笑うたびに風が吹く。入道雲が一秒ごとに形を変えていた。

「自分で決めなよ、どうするかくらい」

140:2012/05/01(火) 20:56:01.29 ID:




 二階から三階への階段をのぼるとき、嫌な予感があった。
 何か、ぶよぶよとした皮膜をくぐり抜ける感触が、俺の全身をつつみ、駆け抜けた。
 それは"予感"というには生々しい、怖気がするような感覚だった。

「ジョー、平気か」

 自分がどんな表情をしているのかは分からないが、どうも普通ではないらしい。

 踊り場には、たしかに鏡があった。細長くそっけない鏡。

「見た目、変わっているようには見えないけどね」

 トンボはそう言って鏡面をコンコンと叩いた。シラノも恐る恐る触れる。何も起こらない。

<逢魔が時の旧校舎は冥界に繋がっている。そういう噂がある。>

 とはいえ、噂なんて、所詮は噂だ。

141:2012/05/01(火) 20:56:40.98 ID:

「普通に考えて、何かある方がおかしいんですけど――」

 シラノは言った。

「――本当に何も起こりませんね」

 彼女は拍子抜けしたような顔で肩をすくめた。
 俺は周囲を見回した。特に変わった様子はない。
 
 妙な噂に振り回されて、こんなところまで来てしまった。
 だが、最初から何かが起こるわけがなかったのだ。俺にはやはり、無関係だったのかもしれない。

 当たり前のことだ。

「……ねえ」

 耳元で声がした。ティアだ。俺は声に出さずに彼女の方を向く。いつからそこにいたのだろう。
 彼女はずっと一緒に来ていただろうか。よく思い出せない。

 彼女の声は(今まで気にしたことはなかったが)俺以外の人間には聞こえないらしい。

142:2012/05/01(火) 20:57:31.94 ID:

「ここにはあまりいない方がいいわ。引きずり込まれてしまいそう」

 俺は小声で訊ね返す。

「引きずり込まれるって、どこに?」

「冥界」

 その言葉が彼女の口から出るのは意外だった。思ったことをそのまま告げようとしたとき、彼女の手紙にあった記述を思い出した。

 ――あの忌々しい異形の魔神、混沌と破綻と絶望の使者、あの暗愚な冥王――

 <冥王>?
 
 不意に、何かが落ちる音がした。静まり返った校舎に、その音は大きく響き渡る。
 シラノの身体がすくみあがるのが、俺の視界からはよく見えた。ハカセは音のした方を振り向く。
 
 どうやら、懐中電灯が落ちたらしい。皆が安堵の溜め息をついたのが分かる。
 後輩は懐中電灯を拾ってから、不思議そうに辺りを見回して、言った。

「……トンボ先輩は?」

143:2012/05/01(火) 20:59:08.60 ID:

 その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。

 自然科学部員は、俺、ハカセ、シラノ、後輩、トンボの五人だ。
 俺たちは今日、ついさっき、一緒にここに来た。

 俺はもう一度、彼らの顔を確認した。

 シラノ、ハカセ、後輩、そして俺。
 この場には四人の人間しかいない。

 トンボはどこに行ったのだ?

 後輩は何かに気付いたように懐中電灯を放り投げた。彼女の顔は何か恐ろしいものを目の当たりにしたように歪んでいる。
 シラノは鏡から後ずさった。ハカセが、後輩が振り落した懐中電灯をもう一度拾う。

 鏡が照らされる。四人の男女の、こわばった表情が映っていた。
 あるいはそれは、鏡の向こうに囚われた、もうひとりの自分たちの姿なのかもしれない。

144:2012/05/01(火) 20:59:35.18 ID:
つづく
145:2012/05/01(火) 22:06:38.63 ID:
1乙
147:2012/05/02(水) 19:19:06.14 ID:





 スズメはあの時、「優しくされたいの?」と俺に反問すべきだった。
 そうすれば俺は自分が持つ欲求に気付くことができたし、そのことを希望として何かに立ち向かうことができたかもしれない。
 
 だがスズメは反問しなかった。結局、そこで他人を頼ることはできない。
 自分の力で気付き、自分で判断しなければならない問題なのだ。

 スズメにしたのとまったく同じ話をハカセにしていたなら、彼は「甘ったれるな」と言うだろう。

「社会がこうしてくれないだの、身の回りがどうだの、そんな風に期待するのはやめろ」

 だが、自分に対して利をなさない集団に所属することは愚かしいことではないのか?
 もちろん、所属せざるを得ない状況ならば、やむをえまい。

 だからといってそこに胡坐を掻き、足元を見るように人を侮りだした社会とはなんだ?
 いったい何様のつもりで人間を軽んじている?
 それは何処にあるのだろう? いったい何処に行けば見える?

 そんなものの中に、俺はとどまったままでいいのか?


148:2012/05/02(水) 19:19:32.32 ID:

 「甘ったれるな」という言葉は正しい。
 結局のところ、他人からの優しさなどというものは期待するべきではないのだ。
(他人の優しさが期待できない社会というものに、いかに不満があろうとも)

 こういうことを考えるとき、俺はいつも死ぬことを思う。
 手っ取り早いのだ。死んだ方が。

 何も欲しいものがなければ、行きたい場所がなければ、生きている意味はない。
 どうせこれからさき、たいしたことなど起こらない。何もかもが無感動だ。娯楽も芸術も何もかも。
 
 期待するだけ無駄だ。期待は甘えだ。何かを期待するべきじゃない。
 俺の感受性は、俺自身を原因に死んでしまったのだろう。
 誰のせいでもなく、自分のせいで、俺はこんなふうになった。
 どうせ死ぬのを待つだけなら、いつ死んでも同じだ。

 ならばなおさら死ぬべきだ。
 
 なぜ生きる?

 何のために?

149:2012/05/02(水) 19:20:07.40 ID:


 死ぬことを思う、と言うと、いつも似たような返事が返ってくる。

「生きたくても生きられない人がいるのに、罰が当たる」

 罰とはなんだ? あたると困るのか?
 あたったところでどうなる? それとも死後の世界というところがあり、そこで罰を受けるとでも?
 死んだ人間にくわえられる罰とはなんだ?
 
 あえて付け加えるなら、どのような罰もおそろしくはない。
 仮に永遠の苦しみだったなら、それを嘆くだけ無駄だし、仮に有限の時間の苦しみだったなら、過ぎ去るのを待てばいい。

 結局、死の前にはどのような罰でさえも無意味だ。
 来世でミミズや蛙になったところでそれがどうした? 人間でいるよりはましだ。 

 更に重ねるなら、今まさに死にかけている人間に対して命を分け与えることができたとして、それでどうなる?
 俺の寿命があとどのくらいか知らないが、そのすべてを分け与えたところで、せいぜい数十年がいいところだろう。

 数十年後、生き延びた彼はなんと言うのだ?
 まだ"死にたくない"というだろうか、それとも"もう死んでもかまわない"というのだろうか。

150:2012/05/02(水) 19:20:45.45 ID:

 きりがないのだ。
 生きたくても生きられないからどうした。じゃあ、あとどれくらいの時間があれば満足なんだ?
 一日か? 十日か? 一年か? 十年か? 百年か? どれくらいあれば満足するんだ?

 もちろん志半ばで倒れる人は山ほどいる。したいことが明確にあり、それを達成できない人は山ほどいる。

 それで?

 どうしてそんな人々に同情しなくてはならない?
 満足できなくても死ぬ。
 満足したところで死ぬ。
 同じことだ。
 
 それを思えば、俺たちは「なぜ生きるのか?」ではなく自らにこう問うべきなのかもしれない。

「何故まだ死なないのか?」

「死ねない理由があるのか?」

「俺は何故死なないのだろう?」

 いつかは死ぬのだから、その方がよっぽど健全だ。そこを曖昧にごまかすから、話がややこしくなる。




 
 旧校舎中を探し回ったが、トンボの姿は見つけられなかった。


151:2012/05/02(水) 19:21:11.63 ID:


 

 駅前近くの雑居ビルの二階に、あの魔法使いの事務所はあった。
 ドアをノックすると気だるげな返事があり、扉を開けると彼女は「おー」と挨拶ともつかない声をあげた。

 応接間に足を踏み入れると、あの大男がソファに座って新聞を読んでいた。傍で例の少女がリンゴを剥いている。
(この少女は、どうしてこんなにこの男になついたのだろう)

「どんな具合?」

 俺が訊ねると、大男は笑った。

「至って健康そのものだよ。明日には包帯もとれるさ」

「へえ。良かったね」

「ああ。まぁ、慣れっこだよ」

 それはそうだろう。

「近頃は変なことばかり起こる」

 大男は言った。サングラスを外した彼の表情は、なんだか優しげな野生の熊みたいに見えた。

152:2012/05/02(水) 19:21:42.40 ID:

 話を続けようとしたところで、魔法使いの女が俺の肩を叩いた。立ち上がり、彼女の後をついて別室へと向かう。
 おそらくは女の事務室だろう。大きなデスクの上に、大量の書類が散らばっている。

「で、どうするつもり?」

「カリオストロの話?」

「カリオストロ!」と女は笑った。

「まぁ、そうだね。それも含めて。カリオストロ。カリオストロか」

 意地の悪い含み笑いで、女の表情は歪んだ。やはり俺はこの女を好きではない。

「あの黒犬……たしかにね、アンタが言うところの"カリオストロ"の影響だよ」

「"俺が言うところの"って、どういう意味?」

「いろんな言い方があるってこと。"ガラテア"とか、"英雄の魂"とか、そういうのにもね」

 俺は舌打ちしたい気分を押さえこむのに必死だった。

153:2012/05/02(水) 19:22:22.86 ID:

「でもガラテアが変化をくわえてるから、ちょっとややこしくなってる」

「どういう意味?」

「そのまんま。こっちはガラテアの庇護下だから、カリオストロの攻撃もガラテア的なの」

 女の口調に不自然なものを感じ取って、俺は疑問を口にした。

「アンタは何がしたいの?」

「別に。何が目的とかないよ。しいていうなら、趣味だけど?」

 魔法使いは苦笑する。悪趣味な女だ。

「つうてもね、別にわたしはさ、アンタにあれしろこれしろとか言わないよ」

154:2012/05/02(水) 19:23:02.44 ID:

「……どうして? カリオストロの流出を止めないと、世界は滅ぶんだろ?」

「滅ぶよ。でもまあ、わたしはいいんだ。こんな世界がどうなろうと」

「アンタ、死にたがりなの?」

 彼女は楽しそうに笑った。

「まあ、そうね。八十パーセントくらいは死にたがりかも。
 でも、世界がどうなろうといいっていうのは違う話。
 それはどっちかっていうと、わたしの問題じゃなくてアンタの問題なんだよ」

「俺の問題?」

「そ。他の誰でもなくてね」

「俺の……」

 俺の問題?
 そうだ。
 最初から最後まで、完膚なきまでに……これは俺の問題だ。
 いま、この女の言葉を聞くまで忘れていた。

 これは俺の問題だ。
 解決すべき問題なのだ。

155:2012/05/02(水) 19:24:06.65 ID:



 
「つまり、こういうことかな」

 喫茶店のマスターは、俺の顔を見て不器用そうな微笑を浮かべた。

「君は、自分の問題意識を他人に共有してもらえないのがいやなんだね。
 自分が不満に思うことを、自己責任だの独りよがりだの言われるのが嫌なんだ」

「そうなのかな?」

「たぶんね。でも君はこうも言ったよ。"時間は何もしなくても過ぎる。どんな問題も過ぎ去るものだ"って。
 もし本当に君がその言葉を信じられるなら、そんな不満を持つ理由はないんじゃないのかな。
 だってそうだろ? そんなものはそれこそ、通り過ぎていくだけのものなんだから」

「……ねえ、マスター。アンタは俺を励ましたいの? それともバカにしてるの?」

「僕は人を励ましたりしない。馬鹿にしたりもしない。君みたいな人には特にね」

 注文したブレンドコーヒーのカップを俺の前に置いて、彼は笑う。

156:2012/05/02(水) 19:24:44.58 ID:

「そうなのかもしれない。マスター、俺はたぶん寂しいんだと思う。
 誰も俺のことなんて気に掛けなくて、誰も俺に優しくなんてしなくて、誰も俺を必要としてない。
 それが心細くてたまらないんだ。そんなふうに出来た世界が怖くてたまらないんだ。
 必要とされたいのかもしれない。……でも、そんなのよりずっと、もう諦めた方が楽なんだ。
 積極的に行動するほどの気力なんて、残ってない。
 俺の魂はさ、生きながらにして死んでるんだ。とっくに。去年の夏あたりに」

 マスターは微笑を崩さずに、俺の表情を観察するように見つめたあと、視線をカウンターに落とした。

「君のような人間には、ときどき、分からなくなってしまうかもしれないけど……。
 世の中にはいろんな人がいるよ。誰も彼もがみんな君に似ているわけじゃない。
 でもね、それでも君と似ている人はやっぱりいるものなんだな。
 きっと君のような不安を抱えている人はたくさんいる。それも君よりもずっと大きな問題かもしれない」

 でもね、と彼は続けた。

「だからといって、君の悲しみが誰かのものになるわけじゃない。
 誰かと比較して自分の苦しみが小さいからって、別に後ろめたく思わなくてもいいよ」

「そういう風に見える?」

「僕の思い違いかもしれないけど」

 いつからこんなふうになったんだろう。
 あの夏の日を、もう二度と取り返せないのか?
 
157:2012/05/02(水) 19:25:11.44 ID:





 学校にトンボが現れなくなってからも、俺たちは調査を続けた。
 なぜそうしようと思ったのかは分からない。
 
 だが、そうしなければならないという確信だけはあった。

 二度目の調査の日、後輩が旧校舎から姿を消した。

160:2012/05/04(金) 13:53:40.63 ID:




 シラノの話をする。俺が知らないはずの話だ。

 中学三年の修学旅行の日、彼女はひどく憂鬱だった。
 前日から胃にのしかかるような鈍痛が消えず、気分はまったくすぐれない。顔面は蒼白と言ってよかった。

 彼女の中学時代の人間関係は惨憺としたものだった。まともな友人がひとりもいない。 
 彼女の立ち位置(この概念は俺がもっとも憎悪するものだ)が、そのまともじゃない環境に拍車をかけた。

「アンタって、ホントうざいよね」

 大した理由もなく、最初にそう言われたのはいつだったか。言った当人も、さしたる意図があったわけでもないだろう。
 だが種はまかれた。やがてそれは芽吹き、根を張る。

「うざい」

 という言葉は、言語であるにも関わらずコミュニケーションを拒絶する力を持つと、何かで読んだ。
 たぶん、マズローの段階欲求説だの承認欲求だのを表面だけなぞったような、くだらない新書だったはずだ。
(そういうタイプの本はありふれている。大抵は「考え方を変えれば楽になれるかもよ」と言っているだけのスピリチュアルな本に過ぎない)

161:2012/05/04(金) 13:54:04.75 ID:

「うざい」

 世の中にはうっとうしいことが溢れている。
 一言で言えば、世の中は「うざい」。
 「うざい」奴ばかり。「うざい」ことばかり。勉強も仕事も恋愛も「うざい」。「うざい」。
 
 思春期の少女たちにはなおさら、ちょっとしたことですら「うざい」ものばかりだったのだろう。
 それを一言で綺麗に失わせる、「うざい」という言葉の切れ味は、ナイフのように鋭い。

 シラノが本当にうざかったのかどうかは分からない。憂さ晴らしのつもりだったのかもしれない。
 誰も彼もが胸の内側に、発散しきれないわだかまりを抱え込むような時期なのだ。

 たかだか数人のクズの心の安寧の為に、彼女の安らぎが犠牲にされたのは、赦しがたいことではあるが。

 何をするにもそんな調子で、仲の良い友人(と、担任たちは思っていただろう)に責めたてられるものだから、彼女はすっかり弱ってしまった。
 まずは食欲がなくなって、夜眠れなくなった。何かをしていて急に不安になることが多くなった。
 そんな調子でいると、「被害者ぶってる」と言われて、また責められる。

 それでも他に友人はなく、彼女はその人間たちと行動をともにするしかなかった。
 修学旅行の班もホテルも移動時間も、すべて友人たちの近くにいることになった。

162:2012/05/04(金) 13:54:35.90 ID:

 彼女は、本当は修学旅行になんて行きたくなかった。
 楽しい思い出になんてなるわけがないと、誰でも分かる。
 誰も自分を助けてくれないと気付いて、絶望的な気分になっていたせいもある。
(彼女が助けを求めなかったせいでもあるが、仮に他の人間が彼女と同じ立場になったとき、助けを求められるだろうか?)
 
 案の定、一日目、宿泊先のホテルの部屋では、ひどい目に遭った。

 彼女は友人たちにいないものとして扱われ、あげくの果てに彼女を除いた人間が、みんなで話を始めたのだ。

「あいつうざいよね」「あいつって誰?」「さあ? 誰だっけ。でも、うざいよね」
「じゃあ、あいつのうざいとこ、みんなで一個ずつ順番に言ってみない?」

 よくもまぁ、楽しいはずの修学旅行で、そんな気分が悪くなるようなことができたものだと、他人事だから思う。
 彼女は最初、笑うしかなかった。なんとか友人たち(と信じていたひとびと)の名前を呼んで、とめようとした。
 女らはそれを見てケタケタと笑う。その焦点は、みんな彼女に合っていた。見えているのだ。
 見えているのに、誰も返事をくれなかった。

163:2012/05/04(金) 13:55:12.28 ID:

 彼女は考えた。どうしてわたしがこんな目に遭うのだろう? わたしはそんなにひどいことをしただろうか?
 いや、ひどいことはしたかもしれないが……それは"ここまで"だろうか。こんな罰を受けなければならないほど、悪いことだっただろうか。 

 彼女は部屋では泣かなかった。けれど、そこに居続けることは耐えられない。
 誰もいない廊下で、黙って窓の外をじっと睨んでいた。
 自分はどうしてこんなところに来てしまったのだろうと彼女は思う。


 やがて消灯時刻が近付き、教師が見回りにやってくる。
 彼女を見つけた学年主任は、どやしつけるような調子で言った。

「何をやってる。部屋に戻れ」

「部屋に戻れ」
「部屋に戻れ」
「部屋に戻れ」

 その言葉は、言われるであろうことを覚悟していた彼女の耳にも、おどろおどろしいものに聞こえた。

 部屋に戻れ。そしてお前を傷つける暗闇に帰れ。
 お前はそこで耐えればいい。大丈夫。"どんな苦しみだって問題だって、いつかは過ぎ去るものだ"。
 さあ、行け。存分に苦しめ。若いころの苦労は買ってでもしろと言う。つらい思いをすればするほど人には優しくできるのだ。
 大丈夫。涙の数だけ強くなれるさ。アスファルトに咲く花のように。
 全部、うそじゃない。本当のことさ。

 だから、戻れ。
 お前を損なわせる場所に戻れ。――お前を苛み傷つける、現実<カリオストロ>に帰れ。

164:2012/05/04(金) 13:55:53.99 ID:



 
 おそらく俺たちは、無意識下に、彼女がされたようなことを誰かにしているに違いない。
 どんなに自分を無害と思っていてもそうだ。絶対にそうだ。

 そうでなければ、どうしてあんなふうに彼女を傷つける者が現れるだろう。
 彼女の友人が特別にひどいわけじゃない。
 みんなそうなのだ。

 条件があってしまえば、誰だってしてしまうだろうことなのだ。
 俺たちはそのことを忘れるべきじゃない。

 いつだって誰かを傷つけかねないということを忘れるべきじゃない。

 だが、それを忘れている人間があまりに多い。
 
 誰かを傷つけたその唇で、弱者を憐れむようなことを言って見せる。
 あるいは傷つけずにはいられないからこその罪滅ぼしだと、都合のよい言い訳を重ねて。
 赦しがたいことだ。
 度し難いことだ。
 
 けれど、蔓延っている。

165:2012/05/04(金) 13:56:19.99 ID:

 おそらく俺も、こんな言葉を並べることで、誰かを傷つけたりしている。
 そして誰かを傷つけていることに気付けない人間ほど、こんな言葉に頷くのだ。

「人間は誰かを傷つけずには生きられない」

 ――でも、それを少しでも減らす努力くらい、みんなしてもいいのだ。
 その努力はするべきなのだ。

 そんなあれこれが積み重なって、「今」が出来上がっている。
 いつのまにかみんな、当たり前のことを忘れてしまったみたいだ。

 人は傷つけあうことによって加減を覚えていく。傷つけあうことで成長していく。
 ――という、自らの怠慢の言い訳に、ごまかされるべきではない。
「傷つけあう」にも種類があるのだ。

166:2012/05/04(金) 13:56:46.04 ID:


 

 後輩がいなくなった日から、ティアが姿を消した。
 それは本当に、綺麗さっぱり姿を消した。まるで最初からいなかったんじゃないかと思えるくらいに。
 
 変化はそれ以外にもたくさんあった。

 児童公園に行くと、あの赤いランドセルの少女が、ベンチに座って憂鬱そうにしていた。

 俺は咄嗟に何と言うべきか迷いながら、「よう」と声を掛ける。すると彼女は怪訝そうに顔をあげて、

「……あなた、誰ですか?」
 
 と、そう言った。

 俺はたまらなく悲しい気持ちでその場を去り、自宅に戻った。
 ひとつひとつの変化はそんな調子だ。だが、そんなことがたくさんあった。

 まるで世界そのものが変化してしまったようだ。

167:2012/05/04(金) 13:57:23.72 ID:

 玄関の扉を開ける前から、家の中からは怒鳴り声が聞こえた。
 殴りつけるような大声と、切り裂くような金切声が対照に。

 両親が帰っているのだ。

 俺はリビングに入らず、階段を昇って直接自室に戻った。鞄を放り投げてベッドに体を預ける。

 階下から聞こえる声と声との隙間に、かすかな音が聞こえた。

 ずっと遠く、遥か彼方から聞こえてくるような啜り泣き。
 ――また、妹が泣いているのだ。

 俺は彼女のために何かをしてあげられるだろうか。
 そんなことを大真面目に考える。

 いつも考えるだけで行動はしない。

168:2012/05/04(金) 13:57:55.67 ID:

 俺は可能な限り上手に立ち振る舞う自分の姿を想像する。
 この家と世の中にはびこる問題に立ち向かい、上手に解決する自分を想像する。

 何の慰めにもならない。笑い話にもならない。
 俺は何をしているのだろう?
(言うまでもなく何もしていない)

 ……俺にはもっと別に考えるべきことがあるのだ。

「俺は何を忘れているのだろう?」とか、そんなことが、たくさんあるのだ。

169:2012/05/04(金) 13:58:27.34 ID:



 屋上にはスズメがいる。彼女とこの場所だけはなにひとつ変わらない。
 俺はあくびをひとつして、フェンスに向かい合って街を眺める彼女の隣に立つ。

 スズメは何も言おうとしなかった。当たり前といえば当たり前のことだ。
 俺たちには本当なら話すことなんて何ひとつない。
 今まではだましだまし、どうでもいいことで間を繋いでいたにすぎない。

 じゃあ、俺はどうして屋上にくるのだ? 外でもなく内でもない場所。
 こんな曖昧な場所に、どうして近付くのだ?

「ねえ」

 スズメは呆れかえったような調子で口を開いた。

170:2012/05/04(金) 13:59:24.31 ID:

「まだこんな茶番を続けるの?」

「何の話?」

「分からないならいい」

 彼女はいつもそれだ。
 分からないならいい。――俺には分からないことだらけだ。

 何が起こっていて、何がなくなっていて、何が見失われているのか。
 なにひとつ分からない。どこまで分かっていないのかすら、分からない。

 それともこれは、俺の意思でどうにかなるような問題だとでもいうのだろうか?

171:2012/05/04(金) 13:59:52.20 ID:




 放課後、ひとりの上級生が教室にやってきて、俺の名前を呼んだ。
 見覚えのある女だった。背が低く、体格は子供のように見える。
 ともすれば年下のようにも見える「上級生」。 
 
 カリオストロの黒犬に追われたあの日、会った女だ。

「今日は顔を出さないんですか?」

 彼女はあの日と似たようなことを言う。俺も似たように問い返すしかなかった。

「何の話です?」

 女はきょとんとして、それから溜め息をついた。困ったようにこめかみを掻き、言う。

「文芸部ですよ」

「ああ、文芸部」

 ――文芸部?
172:2012/05/04(金) 14:00:24.69 ID:



 教室を出るとき、クラスメイトたちがベランダで騒いでいるのが見えた。
 彼らのうちの一人が、手すりに止まっていたトンボを捉まえ、指先をはじき、その頭を吹き飛ばした。

 頭を失ったトンボの身体が少し動く。
 友人たちはその悪趣味な遊戯に呆れながらも、どうでもよさそうに文句をつけるだけだった。

 あの、首を刎ねられたトンボの死骸……。

173:2012/05/04(金) 14:01:23.41 ID:




 俺は文芸部の部室に連行された。
 彼女いわく、俺は文芸部の部員だったらしい。
 まったく記憶になかった。そもそも文芸部なんてものが存在していただろうか。

「十月には文化祭ですよ」

 と、どうやら部長であるらしい、背の低い先輩は言った。

「文集を展示するので、作品を書いてきてください、と、ちゃんと言いましたよね。書けましたか?」

 何の話をしているのだろう。
 そもそも俺には文章なんて書けない。なにひとつ。

 そうだ。俺は文章なんて書けない。ぜんぜん書けない。思った通りのものなんて一行だって書けないのだ。
 どうしてそんなことを忘れていたのだろう? 俺は文章を書けない。

 俺は不意に、目の前の彼女とどこかで会ったことがあるような気がした。

 いつか、彼女は俺にこう言ったのだ。

「自らを慰撫するためだけに書かれたものは、見ていて気分が良くなるようなものじゃないですから」

 そういうことだ。そういうことなのだ。俺はやはり、自分のことしか考えていない人間なのだ。
 俺は自らを慰撫するものしか書けない。人に見せられるようなものなんて、なにひとつ書けない……。

174:2012/05/04(金) 14:01:51.82 ID:



 
 文芸部の部長の話を聞き流して、自然科学部の部室に向かった時には四時を回っていた。
 窓から差し込む夕日が、街を赤く敷き詰めていく。

 部室には、既にシラノとハカセの姿があった。彼らは疲れ切ったような表情をしている。
 ひょっとしたら彼らも、俺と同じような変化を目の当たりにしてきたのかもしれない。

 思い出したように唐突な変化。日常の微細のすげ代わり。そういうものを。

「やめにしよう」

 ハカセは言った。

「これ以上は全部無駄だ。やめにしてしまおう」

 その言葉が、例の旧校舎の話に繋がっていることに、少し遅れて気付いた。
 俺たちはまだ何ひとつしていない。何も分かっていない。何も突き止めていない。

175:2012/05/04(金) 14:02:18.10 ID:

 でも、たしかにこれ以上は続けられない。

 人が消えたのだ。
 ふたり。

 そんなことを、繰り返していられない。

 シラノも俺も答えなかった。ハカセは自分の鞄をもつと、苦しそうな表情で部室を出ていく。

 俺は窓の外を見た。

 ハカセは、後輩は、いったいどこに行ってしまったんだろう。

176:2012/05/04(金) 14:02:44.03 ID:



 
 帰り際、児童公園に寄ったが、誰もいなかった。
 子供たちは公園では遊ばない。あの少女も、あの大男もいなくなってしまった。

 俺がベンチに腰を下ろすと、その下からかすかな声が聞こえた。

 遠くから聞こえる啜り泣きのような声。
 覗き込むと、そこには段ボールがあった。俺はそれを引き出し、中身をたしかめる。

 子犬だった。

 不意に、心細くてたまらなくなった。
 俺もお前も同じだよ。なにひとつ変わらない。誰にも助けてもらえない。誰も助けてくれないんだ。
 
 お前がこんなところで泣いているのだって、誰かが悪いわけじゃないんだ。
 そういう風にできてしまっているだけなんだ。

177:2012/05/04(金) 14:03:45.12 ID:

「捨て犬」という境遇は、人間が愛玩動物として犬を扱わないかぎり、絶対にあらわれないはずのものだったのだ。
 
「捨てた」人間だけが悪いのではない。
「飼う」人間もまた同じように非道なのだ。
 俺たちにできるのはエゴの押し付けだと自覚した上で、彼らに対して可能な限り真摯に向き合うことだけだ。
 
 人間に飼われた犬の末路はふたつにひとつだ。
 飼殺されるか、捨てられ、野犬となって殺されるか。
 ふたつにひとつだ。

(犬猫も幸福に過ごしていると、人間の考えを押し付けるのはあまり好きではないが、仮に彼らが人とともに生きて幸福だったとしても同じことだ)

 飼い殺したことに変わりはない。
 やっていることに変わりはないのだ。

178:2012/05/04(金) 14:04:11.14 ID:

「責任を持つ」という言葉に、俺たちはある種のまやかしを抱いている。
 人間は何もかもに責任をとれるほど万能じゃない。
 分を知るべきなのだ。

 俺たちにはどうしようもない境遇というものがあるのだ。
 それをどうして忘れてしまえるのだ? あたかも何もかもが掴みだせるような顔で、何もかもに手を伸ばして見せる?
 そんな世界は、まるで正気じゃない。



 従妹の家では三匹の犬を飼っている。室内犬だ。餌も躾も散歩もしっかりとやっている。
 鳴き声がうるさく、近所に迷惑をかけることもあるが、それでも仲良く暮らしている(少なくともそう見える)。

179:2012/05/04(金) 14:05:15.97 ID:



 トンボは猫を捨てたことがある。俺が知らないはずの話だ。
 
 子供の頃、彼の家の周りには捨て猫が多かった。
 ある日、憐れんだわけでもなく、ただかわいいから、という理由で、彼とその姉は自宅に一匹の捨て猫を連れ帰る。
 (タダで手に入るのだからいいじゃないかと親を説得するつもりでもいた。よくよく考えればひどく歪んだ、当たり前の価値観だ)

 自分たちで世話をするという約束で、彼は母親に飼うことを許可させた。
 もちろん飼うためにかかる金は全て親が出した。

 数年一緒に暮らすと、猫はあっというまに大きくなった。やがて、どこの野良との子供か、彼女は身ごもる。

 生まれた五匹のこどものうち、一匹は飼うことになった。
 残りの四匹は新聞紙を敷き詰めた段ボールに入れ、遠くの児童公園のベンチの下に捨てた。

 その日は強い雨が降っていて、誰も外になんて出なかっただろう。

180:2012/05/04(金) 14:05:44.51 ID:

 あまりに強い雨だったから、彼は母にお願いした。

「晴れた日にしようよ」

 だが母は受け入れなかった。当然だ。明日には瞼を開けるかもしれない。早ければ早い方がいい。
 それに――と彼女は思っただろう。雨だろうと晴れだろうと、我々は所詮、猫を殺そうとしているのと変わらない。
 中途半端な優しさなど無意味だ。何よりも、捨てる猫の姿なんて、いつまでも見ていたくない。

 捨てる神も拾う神も同じものだ。殺す神も生かす神も同じものだ。
 気付いていないだけなのだ。

"たかだか"、"愛玩動物"でしかない犬猫に、本当の意味で責任を持てる人間は少ない。
 いままでは、たまたま、偶然、なんとかなってきていたに過ぎない。

 そういう例はきっとごまんとある。
 おそらく、その記憶がトンボを苛んでいた。

 お前は所詮、猫を殺したじゃないか。
 どれだけ善人を気取っても、猫を殺したじゃないか。

181:2012/05/04(金) 14:06:08.77 ID:

 彼はそのたびに、自分の心を守るために、声に出さず反論しただろう。

 仕方なかった。たしかに俺や、俺の家族の怠慢が生んだことだ。
 その点は自分の間違いを認める。いや、認めなくてはならない。
 でもそもそも、ペットを飼うということが身勝手なのではないか?
 そんな人間がいまさら動物に気遣ってどうする? ――いや、それはごまかしだ。それとこれとは話が別だ。
 
 だが、それを考えれば、あの仔猫は殺してまずく、アリや蛙やトンボを殺してもよいのはなぜだ?
 トンボの頭を弾き飛ばし、アリを踏み潰し、蛙の腹を引き裂くのが許されるのはなぜだ?

 トンボの頭を弾き飛ばした男、あいつが、家に帰れば愛猫とじゃれているのはなぜだ?
 それとこれとは話が違う。ちがうけれど、じゃあ……何がどういう基準で、そんな話になっている?

 いや――それもごまかしだ。歪んだ自己防衛にすぎない。欺瞞だ。
 俺が悪かったのだ。言い訳のしようもなく。もっとやりようがあった。もっとずっと良い方法があった。
 そもそも最初から、猫に避妊手術を受けさせておけばよかった。そうすれば捨て猫は生まれなかった。

 ――生まれなかった。そう、生まれない方がよかったのだ。
 捨て猫は生まれない方がマシなのだ。少なくとも現代は、社会はそう言っている。
 人間が責任を持てる範囲なんて、限られているのだから……。
 無責任に生み出すくらいなら、あらかじめ刈り取る方がマシだ。
(なんて残酷でまっとうな価値観だろう)


 いったいどうなっているんだ?

 トンボは常にそんなことばかりを考えていた。

182:2012/05/04(金) 14:07:34.09 ID:




 俺は屋上に寝そべって眠っている。妙な夢を見ていた。

 ひどく薄暗い夢だ。病院、寝静まった夜の病院だ。
 病室の入口の引き戸の擦りガラスから、非常口を示す緑色のライトがぼんやりと幽霊みたいに見えた。
 俺はベッドで体を休めている。

「目をさましなよ」

 男の声がした。
 俺は言葉の通り、瞼を開く。上半身を起こすと、瞼を擦った。左手から点滴のチューブが伸びている。

 ベッドの脇に立つ男は、ひどく歪んだ笑みを浮かべていた。

「いいかげん、目を覚ますといい」

 彼は大仰な口調で言った。
 
「いつまでガラテアに頼っているつもりだ? あんなものは所詮、幻に過ぎない。現実はいつでも俺と共にある」

 黒い前髪をたらし、顔を隠した青年。ひどく薄暗く、青白い男。
 彼は静かに、名乗りをあげる。

「このカリオストロが、君に"現実"を見せてあげよう」

183:2012/05/04(金) 14:08:17.14 ID:
つづく
184:2012/05/04(金) 15:41:19.76 ID:
1乙
186:2012/05/05(土) 16:17:47.84 ID:




「私もね、一生懸命やってきたつもりよ」

 喫茶店のカウンター席に、俺と女は隣り合って座っていた。

「昔からろくでもない人間だったけど、それでもね、がんばってきたつもり。
 きっと何かをつかめるって信じてた。……信じてたわけじゃないかもしれないけど、信じたかった。
 だから、嫌で嫌で仕方なかったけど高校も出たし、大学にも行った。就職もした。
 恋人だってできたし、服や家の中のことや趣味にお金を掛けるのも楽しかったわ」

 でも、と彼女は言う。

「結局、なんにも残らなかったじゃない。なんにもなかったじゃない」

 俺は彼女の言葉を実感として理解することができない。
 そんなふうに、失ってしまうのだろうか。

 俺は自分が今までしてきたことを思い出そうとした。
 これまでしてきた成功、失敗、好きなもの、嫌いなもの、そのすべてを。

 そのなかのどれくらいのものが、今の自分に残っているだろう。

 ――何もなかった。何も残ってなんていなかった。なにひとつ……。

187:2012/05/05(土) 16:18:14.15 ID:




 放課後、駅前の商店街で、黒スーツの大男を見かけた。
 大きな図体を激しく揺らし、走っている。どうやら怪我は治ったらしい。

 俺が呼び止めると、彼は訝るように眉をひそめた。

「悪いな、誰だか知らないが、急いでるんだ」

 彼もまた、俺のことを忘れているらしい。

「何があったの?」

「探しものがね、見つかったんだ」

 彼はティアドロップのサングラスの位置を指先で正すと、また駆け出した。

188:2012/05/05(土) 16:18:46.52 ID:



 ふと立ち寄ったコンビニで、店員と警官が話をしていた。
 今日の午前中、どこどこのコンビニに強盗が侵入して云々。
 犯人はレジの中の金を奪って逃走云々。
 こちらでもみなさんに警戒を云々。

 急いで作られたであろう配布用のプリントには、「市民の敵、強盗、窃盗から身を守ろう!」とポップ体の文字が躍っている。
  
 窃盗はともかく、強盗なんてことをするのはよっぽど切羽詰まった状況なのではないだろうか。
 
 市民の敵、と俺は思った。

 なぜ強盗なんてしなければなかったのだろう。
 強盗は「金に困っている。申し訳ない」と言って金を奪っていったという。

 俺はそれを読んでとても悲しい気持ちになった。
 俺には強盗の言葉が他人事には聞こえなかった。いつか何かの拍子で自分も、そんなふうになってしまう気がした。
 それは俺だけではなく、どんな人間でも、何かの拍子で越えてしまうかもしれない一線なのだ。
(こんな考えも突飛だろうか)

189:2012/05/05(土) 16:19:13.29 ID:




 ハカセは悲しかった。俺が知らないはずの話だ。

 優秀な兄と、愚劣な弟との比較はありふれている。
 父母が揃って権威主義者なら、安いドラマが出来上がるだろう。
 それを思うと、彼は苦笑せざるを得ない。考えれば考えるほど、自分の境遇があまりに月並みだと思えるからだ。
 もはや慣れっこだ。家に安らげる場所はなく、彼はいつも外に出て遊んでいた。
 
 家にいれば勉強をしろとどやされる。
 勉強することは嫌いではなかったが、兄ばかりをもてはやす両親に対する反発心が、素直に従うことをさせてくれなかった。

 居心地の悪さを感じるたびに、彼が家にいる時間は徐々に減っていった。
 そうすると、なおさら両親の彼に対する風当たりは強くなる。居心地は余計悪くなる。
 悪循環。サイクル。

 両親や兄に対する愛着はないでもなかったが、あるいはだからこそ、彼は自らの家族に軽蔑を抱かずにはいられなかった。
 もともとの性格のせいか、ハカセは学校で浮いていて、友人が少なかった。

190:2012/05/05(土) 16:19:56.34 ID:

 別にまったくいないというわけではないし、話す相手もいる。避けられても嫌われてもいない。

 だが、結局ひとりなのだ。休日に遊びに行く話になっても誘われない。
 班決めになっても、一人で余る。もちろん余ったあとで誘われたりするが、それは所詮「後付」なのだ。
 俺は誰にとっても二番目以下の存在なのだ、と彼は思う。両親にとっても、友人たちにとっても。

 そう気付いたとき、彼はくだらないことを気にすることをやめた。
 眠ってしまえばいいのだ。すべてを忘れて。気にすることはない。所詮はそれだけのことだ。 

 孤独は気が楽だ。後ろ向きな考え事も楽しくてしかたない。好きでひとりになったわけではないが、これはこれで悪くない。

 そう思う。本当に、本心から、そう思った。ときどきそのことを思い出すと、なんだか自分が哀れに思えて、とても悲しい。

 ひとりでいると死ぬことばかり考える。
 どれだけ両親に反発しようと、今年、ハカセは受験生だ(……何かおかしいだろうか?)。
 結局勉強はしなければならない。反発していた時間分のロスを抱えて。
 選択の余地なんて、最初から最後までひとつだってなかった。

191:2012/05/05(土) 16:21:01.47 ID:

 ひどく疲れていた。もういいじゃないか、と思う。
 これまでに楽しいことはそこそこあった。そうだ。俺は十分に楽しんだ。
 これまで以上に楽しいことなんて、どうやらこれから先、ありそうにない。

 じゃあ、もう終わりでいいじゃないか。
 人間は、未来に何の楽しみも見いだせなくても生きていけるものだろうか。

 これは一種の自己憐憫にすぎないのだろうと彼は思う。
 どれだけ孤独でも、どれだけの苦痛でも、雄々しく現実に立ち向かうことが、人間としての正しいありようなのかもしれない。
 
 でも、彼は別に、人間としての正しいありようになんて興味はなかった。正しい人間に興味なんてなかった。
 それに――と彼は思う。この世の中の誰も、俺のことを憐れんではくれないのだ。
 もちろん憐れんでほしいわけではないけれど、せめて自分で自分のことを憐れむくらい、何が悪い?
    
192:2012/05/05(土) 16:21:35.91 ID:

 ハカセは悲しかった。なぜかは分からないが、とても悲しかった。
 この先もこんなことが続くのかと思う。あと何度繰り返されるのかと。
 それでも脱落することはできない。膝をつくことはできないようになっている。
 もう永遠に等しいほどの時間、こんなことを繰り返しているような気がした。

 ――憂鬱を振り払い、新しい何かを探す気になったのはごく最近のことだ。

 何も感じなくなって、何も好きじゃなくなった。それでも、"それでも"という何かが彼の中に残っている。
 捨てきれない期待のようなものが彼を動かす。
 とうに凍てついてしまった自分の魂を、あたため溶かす何かがあるに違いないと信じたかった。
 いや、むしろ――それを信じずにどうして生きていくことができるのか。

 だから、もう一度、何かを探そうと思った。それは自分にとっては"必要なこと"なのだ。
 誰も自分のことなんて求めていないし、自分に興味なんてもっていないけれど、そういえば俺自身だって、他人に興味なんてないのだ。

 探して、それでも自分を突き動かす何かを見つけられなかったなら、そのときは素直に、頭を垂れて現実に平伏しよう。

 そうして彼は、逃げ込んだ空想<ガラテア>の楽園を離れようと決めた。
 
193:2012/05/05(土) 16:22:01.92 ID:




"ズレ"る。
 ついさっきまで自分だったのに、今は他人になっている。
 それが現実にあったことなのかどうかは分からない。

 さまざまな人間の記憶が、思考が、俺の頭に入り込んでいる。
 
 混線しているのだ。あたかも、あの"ズレ"のように。
 途切れ途切れの記憶をむりやり修復しようとした結果、まったく無関係の場所と接続されてしまったのかもしれない。

 自分というものが見失われていく。

 俺は一ヵ月後に行き、二ヵ月前に行き、シラノになり、トンボになり、ハカセになる。
 あるいはそれらの何にもならず、自分は自分のまま、まったく不自然な状況を経験する。

 どんな境遇でも、俺のやることは変わらない。
 自分というものの中の何かを台無しにしないように行動を選び、言葉を選ぶ。

194:2012/05/05(土) 16:22:42.40 ID:

 だが、そうまでして俺はいったい何を守りたいのだろう? 社会的な立場? 周囲からの信頼? 高慢な自己像?
 どれも最初から有って無いに等しい。何を守りたいのかもわからないのに、俺はとりあえず自分が周囲から外れないように行動する。

 どうしてだろう。

 でも、じゃあ他に、どうすることができるっていうんだ? 俺はあまりに無力で、"しくみ"に対抗する手段を持っていない。
 こうなったのは俺のせいじゃない。誰かのせいでもない。じゃあそれは"しくみ"のせいだ。もっといえば"世界"のせいだ。
 世界が持つ"しくみ"の、"構造"の欠陥なのだ。"設計図"のミスなのだ。
 俺のせいじゃない。俺はこういうふうに出来上がってしまったのだから――。

 カリオストロ、あの男の声が聞こえる。
 今も耳元でささやいている。俺の逃げ場所を失わせようと、舌なめずりをして待ち構えている……。

195:2012/05/05(土) 16:23:27.23 ID:


 

 後輩が俺の前に姿を現したのは、俺たちが例の怪談について調査することをやめた二日後の、夕方五時を過ぎた頃だった。
 その二日間はとても長く感じた。一日が一年のように長かった。それだけ遅れて彼女は現れたのだ。

 俺たちは例の児童公園で出会った。誰かと会うのは、そういえばいつもこの場所だ。
 彼女は俺の姿を見つけると、迷子の子供が母親を見つけたような表情で駆け寄ってきた。
 実在をたしかめようとするみたいに、何も言わずに俺の手を取り、指先で触っている。
(そんな行為で人の実在性が確認できるものだろうか)

 いなくなってびっくりした。今まで何をどこにいたのか。そんなことを訊ねると、後輩はうろたえた。

「いなくなったのは、部長たちでしょう?」

「はあ?」

 と思わず声が出た。彼女は訝しげに眉をひそめる。

196:2012/05/05(土) 16:24:00.27 ID:

「旧校舎で部長たちが突然いなくなっちゃうから、わたしずっと探してたんですよ。
 シラノ先輩もハカセ先輩も消えちゃうし、どこ行ったのかと思って、本当に怖かったんですよ」

「……待って。違う。いなくなったのはお前の方だろう? 俺たち三人はずっと同じ場所にいた。あの鏡の前に」

「違いますよ! わたしは普通に生活してました。部長たちがいなくなって一週間くらい。
 部長たちはいなくなったまま学校に来ないし、家を訪ねてもいないし、それでわたし……」

「……それで、どうしたの?」

「例の鏡を、もう一度調べてみたんです。ついさっき。何も見つからなかったけど……。
 でも、部長、いったい今までどこに行ってたんですか?」

 どこに行っていたも何も、俺もハカセもシラノも普通に生活していた。
 いなくなった後輩やトンボを追おうともせず、普通に。

197:2012/05/05(土) 16:24:27.31 ID:

「……トンボは?」

 と俺は訊ねる。

「一緒にいないんですか?」

「……あいつはいないのか」

「シラノ先輩とハカセ先輩は?」

「いるよ。明日も学校で会えるはずだ。あいつらはいる。でも……」

 どうしてトンボだけいないんだ?

198:2012/05/05(土) 16:24:55.55 ID:





「なんつーかさ」

 魔法使いの女は、ソファに背をもたれてコーヒーを啜ってから口を開いた。

「カリオストロっていうのも、なんだかガラテア的だよねえ」

「その"カリオストロ的"とか"ガラテア的"っていう言い方、よく分からないんだけど」

 俺が問うと、彼女は気だるげに溜め息をついた。

「そのうち分かるんじゃない? 確かめる気があればね、どんなことだって分かるものなんだよ。だいたいね」

「生きていく意味とか?」

「そんなもんない。自分で決めろ。しいていうなら、それはカリオストロ的ガラテアだね」

 ばっさり切り捨てると、コーヒーを一気に飲み干し、彼女は立ち上がった。

199:2012/05/05(土) 16:25:28.90 ID:

 いろいろなものが変化したはずなのに、彼女の様子は一切変わらない。

 なぜなのかと問うと、彼女はこう答えた。

「わたしはさ、そういう次元の存在じゃないからね。なんつーの、神の境地? 簡単に巻き込まれたりせんのですよ」

 バカバカしい話だ。

 魔法使いの女はこうも言った。

「アンタって絶対ロリコンだよねえ」

「はあ?」

「もし記憶を保持したまま小学生に戻れたら、クラスメイトに悪戯をするのに……とか考えてそう」

「なんですか、それ」

 俺は呆れた。

200:2012/05/05(土) 16:26:05.95 ID:



 俺と後輩は児童公園からの帰路を歩く。こうして会っても、話すことは何もない。
 お互い、自分の身に何が起こったのかを理解できていないからだ。

 俺たちの認識は完全に異なっている。
 彼女は消えたのは俺たちだと思い、俺たちは彼女が消えたと思っている。

 どちらが正しいのか分からないが、どちらもごく普通の生活を送っていたことは変わらないらしい。
 何が起こったのかはまったくわからない。わからないこと、説明できないことは、話にはならない。

 俺と後輩はほとんど言葉を交わさないまま別れた。俺にはそのことがひどく示唆的なことに思える。
 まるで何も起こっていないようだ。

 家の扉を開けると、両親は既に帰ってきていたが、喧嘩はしていないようだった。
 和やかだと言うわけじゃない。お互い大声で騒ぎ合うのに疲れたのだろう。
 決して居心地のいい空気じゃない。

 妹はまだ帰ってきていないようすだった。部活か、友達と遊んでいるのか。
 いずれにせよ、この家にいるよりはずっとましだろう。
 解決しきれない問題というものもある。
 いまさらどう取り繕ったところで、この船はもはや沈む寸前なのだ。

201:2012/05/05(土) 16:27:03.33 ID:




 かしましいコール音が部屋の静寂を切り裂いた。電話を受け取っても、すぐには声が聞こえなかった。

「……部長?」

 少しして、後輩の声がする。怯えたように震えた声音だ。
 
「どうした?」

 俺は少し緊張しながら訊ねた。
 何かがあったのだろうか。

「……あの、変なこと言っていいですか?」

「なに?」

「……ないんです」

「ない? 何が?」

「家が――」

 後輩の声は泣き出しそうに聞こえた。

「――わたしの家が、ないんです」

204:2012/05/05(土) 17:13:27.49 ID:
随分文の雰囲気変わったな
207:2012/05/06(日) 18:13:09.41 ID:



 
 後輩に居場所を聞くと、彼女は「自分でも分からない」と答えた。
 ひどく錯綜している様子だった。俺は移動しないようにと伝えて電話を切った。

 俺の家から二十分ほど歩いた場所に、後輩はいた。
 彼女は顔面を蒼白にして膝をついている。寒そうに自分の肩を抱いて震えていた。
 その表情は、今に凍え死んでしまいそうに見える。

 声を掛けると、彼女はひどくうつろな瞳で俺を見返した。

 まるで存在そのものが希薄になったように、彼女の姿は頼りなく見える。
 体が透けているようにすら見えた。

 彼女は不意に気付いたように目の光を取り戻すと、泣き出しそうに表情を歪めた。

208:2012/05/06(日) 18:14:08.41 ID:

 どう説明するべきかを迷っているように、彼女の視線は俺の顔と目の前の景色とを行き来した。
 そこには家があった。表札がある。郵便ポストがある。庭先に子供用の小さなブランコが置いてあった。
 二階の部屋のクリーム色のカーテンが視界に入った。

「ここに、あったはずなんです!」

 後輩は叫ぶ。

「わたしの家が! でも、違う。この家は違う。ぜんぜん違うんです!」

 俺は後輩の家の様子を知らなかったが、たしかに表札の苗字は違う。
 主観的なことを言えば、彼女の家にはとても見えない。
 それとは別に、この家はたしかに彼女の家ではない、というある種の確信が胸の内にあった。
 こういうことが多すぎる。

209:2012/05/06(日) 18:14:58.93 ID:

 俺の身の回りに変化が起こったのと同様に、彼女の身にもまた変化が起こった。
 それも、俺のものとは比べ物にならないほどに巨大な変化が。

 俺は夢で見たカリオストロの声を思い出した。
 彼が言う"現実"とは、まさかこれのことか?

 俺の頭の中では、既にさまざまな不自然に対する疑問が芽生えはじめていた。

 たとえば、それは後輩の存在。
 たとえば、それはシラノの口調。
 たとえば、それはトンボとの記憶。

 いくつかのものが混線し、理解が難しくなっているが、それでも不自然を掴み取るのは難しくない。

 何が原因でこんなことになっているのかは分からないけれど、この状況が明らかに異常だということははっきりしていた。

210:2012/05/06(日) 18:17:10.10 ID:




 雨が降り出したので、後輩を連れて喫茶店に向かった。彼女の家があった場所からは、そちらの方が近かったのだ。
 家から三十分ほどで到着する、街角の喫茶店。いつも通り隠れ家めいた雰囲気で、客の数は少ない。

 まだ肌寒そうにしている後輩のためにホットミルクを注文し、俺は自分の分のコーヒーを頼んだ。
 席についてすぐ、口から溜め息をこぼしそうになったが、後輩の手前、飲み込む。

 こんなことばかりが起こっている。いったい何がどうなってこんなことになったのだ?

 訳の分からない混乱に巻き込まれている。いったいいつから、こんなことになったのだ?
 ティアの手紙を受け取ってから? 公園で大男と出会ってから? それともハカセが怪談について調べようと言ったときから?
 あるいは、あの黒犬に襲われてからか? それとも、何ヵ月か前からあらわれはじめた"ズレ"のせいか?
 旧校舎でトンボが消えてから? 後輩がいなくなってから? 
 
 そういえば――ティアが来てから、街中で見かける人間は少なくなったはずだ。
 そんなことを、たしかに思った。でも……ここ二、三日出歩いていても、学校にいっても、人は別に少なくなかった。

 俺の身の回りに何が起こっているのだろう? それともあの悪趣味な魔法使いなら、こんなことにさえ説明をつけてくれるのだろうか。
 スズメなら俺になんというだろう。また、あたかも俺が、気付くはずのことに気付けていないような言い方で嘲るだろうか。
  
 マスターは俺と後輩の雰囲気に異様なものを感じ取ったのか、注文した品を届けると何も言わずにカウンターの内側に戻った。

211:2012/05/06(日) 18:17:32.12 ID:

 俺は後輩に話を聞くことができなかった。
 彼女に何を聞くことができる?
 見間違いじゃないのか、道を間違えたんじゃないのか、気のせいだったんじゃないか。まさかそんな馬鹿げたことは言えない。

 あきらかに異常は起こっている。俺はそれに対して解決を提示できない。
 何も言うことなんてできない。結局のところそれは、俺の問題ではなく彼女の問題なのだ。

 彼女はしばらく泣きじゃくっていたが、やがて気分が落ち着いていたのか、心ここにあらずという様子ではあったが、涙をとめた。

 ふと気づいたように顔をあげ、今にも消え失せてしまいそうな弱々しい微笑を浮かべ、俺に謝った。

「すみませんでした、部長。いきなり呼び出して……」

「いや」

 俺は苦笑しそうになったが、押し殺した。非常識な状況で常識的な対応をされても笑うしかない。
「呼び出してごめんなさい」なんて言っていられる状況じゃないのだ。

212:2012/05/06(日) 18:18:09.12 ID:

 彼女の目は少し赤くなっていたし、決して平気そうではない(当たり前のことだ)。

 それでも後輩は、あたかも自分は平気だとでも言いたげにホットミルクをすすりはじめる。
 触れれば砕けてしまいそうな、ガラス細工のような作り物の微笑を浮かべていた。

 彼女はホットミルクを飲み、俺はコーヒーを飲んだ。
 そのことを考え、俺は自分が失敗を犯したことに気付いた。

 ホットミルクは別に体を温めないと聞いたことがある。コーヒーも同様に。

 当然のように注文してしまったが、余計体調が悪くなったりはしないだろうか。

213:2012/05/06(日) 18:18:35.51 ID:

 俺の懸念とは反対に、彼女の顔色はよくなってきた。血色が戻り、強がりではなく落着きはじめているらしい。

「どうする?」

 と俺は訊ねた。急ぎすぎたかとも思ったが、ずっとここにいても始まらない。

 彼女は弱々しく苦笑して、「どうしましょう」と言った。

「うちに来るか」

 そう誘うと、彼女はにわかに慌てはじめた。

「いえ、そんな、あの、あれだ、ご迷惑に――」

「そういう状況じゃない。他に心当たりがあるならいいけど。なんならシラノを頼ってもいい」

214:2012/05/06(日) 18:19:52.96 ID:

「心当たり?」

「友達とか」

「……友達?」

「いないの?」

「いえ。えっと、あれ?」

 彼女は混乱したように額を押さえた。

「……思い出せません」

「は?」

「思い出せない。部長、わたしって、ふだん学校で何してました?」

「何って……」

 そんなの、俺が知るわけがない。
 だが、そういえば、俺は学校では彼女をめったに見かけたことがない。
 会うのはいつも部室とか、そういう場所ばかり。他の誰かと話しているところも、見たことがない。
 
 ――いったい、彼女の身に何が起こっているのだ?

215:2012/05/06(日) 18:20:29.98 ID:



 俺が中学にあがったときのこと。ついさっきまで忘れていた話だ。

「本当は子供なんて欲しくなかったのよ」と母は言った。

「アンタなんて生まなきゃよかったわ」

 遠くを見るような、真剣で、どこか儚げな表情で、彼女は言ったのだ。
 美しい過去を思うような、望郷のような――俺は、こんな綺麗な表情をした人間が、さっきのような言葉を吐けるのかと感心した。

 そうか、と俺は思った。

 俺は生まれなければよかったのだ。

216:2012/05/06(日) 18:20:58.10 ID:

◇ 

 
「生まれた」ということは、そのまま、未来の死が確定されたということを意味する。
 すべての命は生まれたその瞬間に死ぬことが確定している。
 
 子猫だろうが人間だろうが変わらない。
「いきものを生む」ということは、そのまま「いきものを殺す」のと変わりない。

 すべての親はあらかじめ子供を殺している。
 もちろんそんなのは、言い回しを変えてみただけの一般常識に過ぎない。
 だが、こう考えたとき、俺はいつも不安になる。

 子供が生まれるというとき、その決定権は常に親の側にある。
 子供は望んで親のもとに生まれたわけではない。
 それどころか、そもそも「生まれてくる」ということを意志的に決定してきたわけでもない。
 それは誰でも同じだ。俺も妹も母も父も、誰だって同じなのだ。

217:2012/05/06(日) 18:22:01.64 ID:

 だから俺は母の言葉に対して上手に反論することができない。

「俺だってアンタを選んで生まれてきたわけじゃない。生んでくれと頼んだわけじゃない」

 そう言えたとしても、

「わたしだって、アンタを選んで生んだわけじゃないわ。生もうとしたわけでもない。
 生まれてくれって頼んだわけでもない。あんたが勝手に生まれてきたんじゃない」

 そう言われてしまえばそれで終わってしまう話なのだ。
 
 俺は望んで生まれてきたわけじゃない(発生する前の命は、そのように思考し選択することができない)。
 だが、母だって別に、俺を生むような女になりたかったわけではないのだ。

 それは、たまたまそうなってしまっただけのことにすぎない。

218:2012/05/06(日) 18:23:06.02 ID:

 もちろん、親である以上、子供に対しては真剣に向き合うべきだとか、責任はとれとか、そういうお題目を唱えることはできる。
 責任をとれないのなら子供ができないように注意すればよいとか、そんなことだって言える。
(つまり"親に責任を取ってもらえない子供"は、生まれてこなかった方がマシだということだ)

 だが、幸いというべきか、母は最低限の親としての義務を果たしていたので、俺はそんな言葉を振り回さずに済んだ。

 そもそも俺は責任という言葉が嫌いだったし、本当に一人ひとりの人間の下に帰結する責任なんて存在しないと信じている。
 そうでなければ、俺はトンボが猫を捨てたことを糾弾しなければならないし、シラノに対して「もっと上手にやれたはずだ」と怒鳴らなければならなくなる。
 
 俺を一個の人間として扱い、同時に母を一個の人間として扱ってみる。
 すると、俺はたしかに「望んで生まれたわけではない」し、
 母も「望んで生んだわけではない」ことになる。結果として「生まれるような行為を軽々しくしてしまった」だけだ。

 要するにそれは、誰にとっても悲劇でしかなかったということだ。
 
219:2012/05/06(日) 18:23:50.18 ID:

「わたしのせいじゃないわ」と母は言うだろう。
「アンタが勝手に生まれてきたのよ。わたしは別に、アンタなんていらなかった」
 
 俺はそのことを想像するととても悲しい。どうして悲しいのかは分からない。
 母のことは好きじゃない。死んでしまえばいいとすら思う。
 こんな無責任な人間がはびこっているのかと思うと、社会とか世の中というものが心底いやになる。

 けれど、悲しいのはなぜなのだろう。
 それは、俺が母を好きだからではない。
 
 たしかに俺は母に執着している。
 だがそれは、手に入らなかったものこそ欲しくなるというだけで、別に彼女という人間が特別に優れているというわけではないのだ。

220:2012/05/06(日) 18:24:16.45 ID:

 両親に愛されないということは、そのままこの世の誰にも愛されないということだ。
 両親というもっとも色眼鏡のかかった人間から見ても、俺はまったく必要のない、愛す価値のない人間なのだ。
 
 そんな人間が誰かに愛してもらえるわけがないし、必要とされるわけがない。
 分かりきったことだ。

 そんな奴は生まれてこなければよかったのだ。
 こんなに苦しみも生まれたからこそ抱かねばならないものなのだから。

 捨てられるくらいなら、生まれてこない方がよかった仔猫と同じように。

221:2012/05/06(日) 18:25:15.57 ID:




 かつて、中学のときの同級生の女子だっただろうか、名前は覚えていないが、大真面目に話をしたことがある。今はもう顔も覚えていない。
 俺はこう言った。どういう話の流れだったのかは覚えていない。

「俺は自分なんて死んでしまってもいいと思っているし、両親に対して特別な愛情なんて抱いていない。
 なんなら、明日家族みんなで車でドライブした帰りに、大事故が起きて死んでしまってもかまわない。それまでだ。
 別にこの世に未練はないし、後悔なんて何もない。今日隕石が降ってきて世界が滅んでも、ああ、そうかと思うだけだ」

 彼女は不快そうに眉を吊り上げた。

「そんなこと言うものじゃないわよ。両親がいない子供だっているし、明日には飢えて死んでしまう人もいるのよ。
 あなたは五体満足だし、食べ物にも飲み水にも暮らす家にも困っていない」

 そこで彼女は溜め息をついて、「あなたは恵まれているのよ」と言った。

「だからそんなことを言ってしまえるの」

222:2012/05/06(日) 18:25:41.61 ID:

「恵まれている」という言い方をするなら、俺はたしかに恵まれている。

 俺は、彼女と自分の人生はきっとねじれの位置にあるのだと考えながら、頭の中で反論した。

 両親がいない子供の悲しみは、その子供の悲しみでしかない。
 俺が何かを言ったとしても言わなかったとしても、それは"彼"の問題でしかない。

 どうして"彼"の問題に対して俺が配慮しなければならないのだろう?
 仮に俺が「両親は必要だ」と口に出したなら、彼のもとに両親が帰ってきたりするだろうか。
 
 更に、俺はたしかに五体満足の身体を持っているが、だからといってこの手や足で成し遂げたいことなどない。
 もし腕がなかったり足がなかったりしたら欲しがるかもしれないが、だからどうしたというのだろう。
 現に俺は五体満足の身体であり、そのことにさしたる喜びを抱いてはいないのだ。

 鼻から空気を吸い込むたびに、この世のすべてに感謝しろとでも言うのだろうか?
 見ず知らずの他人について考え、その人のために言葉を選ぶべきだとでも?

223:2012/05/06(日) 18:27:02.07 ID:

 「明日には飢えて死ぬ人間もいる」という言葉は、彼女の発言の中でもっとも配慮に欠けたものだ。
 今この瞬間だって、人は死んでいるし生まれている。誰かが泣いているし誰かが笑っている。
 誰かが心の底から幸せだと感じ、誰かが強い絶望に打ちひしがれている。

 この世のすべての人々に思いを巡らせることは不可能だ。

 俺が考えるのはいつだって自分のことだけ。
 俺は自分のことだけで精一杯の人間なのだ。

 今、現実に苛まれ、傷ついているたったひとりの妹にさえ、何ひとつも差し出してやれない人間なのだ。

 俺は頭の中で自分なりの論理を打ち立てると、もう二度と誰かに本音を話したりするものかと思った。
 こんなふうに言いようのない怒りを覚えなければならないくらいなら、最初から何も言わなければいい。

 以来俺は、自分の考えを口に出さなくなったし、周囲が望むように行動するようになった。
 彼女はそれを自分の説教が効果的に響いたからだと思ったらしいが、あえて否定する気にはなれなかった。

224:2012/05/06(日) 18:27:23.46 ID:

 俺は満たされた人間だ。恵まれた人間だ。
 だが、こんな人間は生まれてくるべきではなかった。俺はいつもそう考えている。

 俺は今日まで生き延びてきた。それは、俺がまだ現実に期待しているからとか、そういうわけじゃない。
 死にたいと思いながらも、積極的に死ぬ手段を取るのが面倒だっただけだ。
 労力をかけたりするよりは、ベッドに埋まって眠っていたい。

 俺が今日まで生きてきたのは、単純に、机の引き出しにピストルが入っていなかったからという、ただそれだけが理由に過ぎない。

225:2012/05/06(日) 18:30:09.34 ID:
つづく
229:2012/05/06(日) 23:06:55.44 ID:
乙ッス
231:2012/05/07(月) 14:34:38.14 ID:

◇ 


 逃げて逃げて落ち延びた先に、いったい何があるのだろう。

 病室のベッドに寝そべる俺に、カリオストロはこう言った。

「君だってとっくに知っているはずだよ。この世界はひどくバカバカしいものだって」

 彼は言う。
 どのような綺麗ごとも所詮はまやかしに過ぎず、どのようなお題目を唱えようと生は無為であり、人は悪であると。
 所詮、この世は俗悪のみが報われ、善性と悟性を持つものは、それゆえに滅びていくのだと。

 君は自分が善人でないことを知っているし、特別でないことを知っている。
 多くの人がそうであるように、君もまた俗悪に染まることでしか生き延びることのできない人間だ。
 現に君は多くの悲しみに触れ、多くの怒りを感じ、そして多くの失望に
 この世で素晴らしく見えるものなど全て、火影のような幻想に過ぎないのだ。
 結局すべて幻<ガラテア>だったのだ。

232:2012/05/07(月) 14:34:54.49 ID:

 中には本当に素晴らしいものもあるかもしれない。
 いや、あるだろう。本当に優れているとしか言いようがないものが、中にはある。
 君も見てきたはずだ。それらが踏みにじられ、軽んじられ、損なわれ、失われていくさまを。
 結局のところこの世界はそういう場所なのだ。

 だから、僕と一緒にくるんだ。
 この世界を滅ぼそう。この嘘と苦渋と悪と裏切りに塗れた世界を。

 この世はしょせん嘘<ガラテア>で飾らなければ見るに堪えぬほどみすぼらしいものなのだから。
 幻想<ガラテア>に頼らねば生きていくことすら困難な場所なのだから。
 根源的苦悩<カリオストロ>に対しては、詭弁やごまかしでしか対抗できないのだから。
 優しい人ほど踏みにじられるのだから。
 美しいものほど傷ついていくのだから。

 こんな場所は終わらせてしまおう。君はそれを望んでいるはずだ。

 僕と一緒にくるんだ。
 そうして世界を滅ぼしたあと、君の手で僕を殺してほしい。

233:2012/05/07(月) 14:35:46.76 ID:




 俺にはようやくスズメの言いたいことが分かりかけてきた。





 俺の家を目にしたとき、後輩は悪臭でも嗅いだように顔をしかめた。
 おそらくはそれだけのものを感じてしまったのだろう。結局のところ、"そういう家"なのだ。

 後輩をリビングに上げて、適当に飲み物を入れていると、妹が帰ってきた。いつもより早い時間だ。

 後輩の姿を見つけると、彼女は一瞬目を丸くして、「どうも、こんにちは」と言った。
 不自然なものを感じたが、それは別に不明な事柄ではなく、既に説明された事柄のようにも思えた。

 後輩もまた、一瞬きょとんとしたが、特に何か言うでもなく頭を下げる。

 さて、と俺は思った。これからどうすればよいのだろう。
 俺にあらわれた問題は些細なものだ。だが、後輩にあらわれた問題はそういった次元のものではない。

234:2012/05/07(月) 14:36:28.36 ID:

 後輩はおそらく、彼女という存在そのものを揺さぶる問題に突き当たっている。
 そのこととも無関係ではないが、ガラテアだのカリオストロだのという話を何度も聞いたせいで、俺の中にはひとつの疑問が芽生え始めていた。

 それは、俺たちはどこにいるのか、という問いだ。

 俺がこんな問いをするのだから、事態はよっぽど異常なのだと言える。
 本来俺は、どこに居ようと、目の前の景色を"現実"として受け止めることを決めていた人間なのだ。
 あるいはそのことが、この混乱に一層の深みを招いたとも言えるかもしれない。

 だからこそ、俺は今一度目を見開き思考しなければならない。
 それが今は、俺の"考えなければならないこと"だ。

 この状況の変化は、いったいどの時点から始まったものなのかを考えなければならない。

 そのためにはまず、起こった変化について整理するべきだろう。

235:2012/05/07(月) 14:37:15.62 ID:

 俺は思い出せるかぎりの記憶を遡り、"日常"と名付けられる場面と"非日常"との間を区切ることにした。

 まっさきに思い浮かぶのは、あの手紙。今となってはあの手紙の内容もなんだか白々しく感じる。
 "女神ガラテア"の力によって封印された"魔神カリオストロ"の復活。
 それを防ぐために、"半神の身になった英雄の魂"の生まれ変わりである俺の協力が必要だという。
 
 あの手紙はティアからのものだったはずだ。……そういえば、ティアの姿はしばらく見ていない。

 俺は目の前に現れたものはすべて"現実"として扱うことにしていた。
 だからティアという妖精の存在を疑うことなく認めたのだ。

 ――それならば、なぜ"現実として扱ったか"についても考えておくべきだろう。

 俺の身には、六月の半ば頃から奇妙な"ズレ"が起こっていた。
 過去とも未来ともつかない奇妙な時間に、俺は巻き込まれてしまっていた。
 その光景は、白昼夢と呼ぶにはあまりに生々しい感触を伴っていた。
「これを現実でないことにしたら、何が現実なのか分からなくなる」と思い、俺はそのすべてを現実として扱うことにしたのだ。

 目の前に起こったことはすべて現実として受け止めていた。夢と現実、妄想と現実の区別は、俺にはとうに曖昧だった。

236:2012/05/07(月) 14:38:21.23 ID:

 ティアからの手紙を受け取った直後、「殺し屋」を自称する黒スーツの男に出会う。
 大金の入ったアタッシュケースを持ち歩いている怪しげな男だった。
 
 彼の言っていることが本当かどうかという点に、俺は興味がなかった。
 彼が嘘をついているとしても俺に害はなかったし、彼が本当のことを言っているとしても俺に害はなかったからだ。
 実際問題、彼の存在はあまり関係がないだろう。
「殺し屋」という職業はたしかに非日常だが、それはどちらかといえば「裏社会的」な非日常だ。
 いま探している「非日常」とは形が違う。
 
 次に、幼馴染の存在。

 俺はあのとき、夢と現実との区別を求めていなかった。
 だから気付かなかったのだが……よくよく思い返してみれば"幼馴染は俺が小学生の頃に転校したはずだ"。
 彼女はこの街からいなくなった。"彼女はあんな場所にいるはずがなかったのだ"。

"いるはずのない場所にいる人間"という言い方をすれば他にも心当たりがあるが……これは保留にしよう。
 まずは時系列にそって話をまとめていかなくては。

237:2012/05/07(月) 14:39:08.60 ID:

 幼馴染と出会って以降は、新しい異変はしばらく起こらなかった。
 大男が少女と話すのを見かけたり、"ズレ"たり。
 あとは……後輩の家の位置だとか、日付だとか、そういった単純なことが記憶から抜け落ちることが多かった。
 まるで、同じ一日を永遠に繰り返しているような、平坦な日常を送っている気がした。

 そして、手紙が来てから三日後、ティアは俺の前に姿をあらわした。
 
 ティアが現れたその日のうちか翌日だったかは思い出せないが、ここで大きな変化が起こる。
 正体不明の上級生の出現だ。

 彼女は俺を何かに誘ったが、その内容は聞き取れなかった。
 いま思って見れば、彼女は文芸部の部長であるのだから、"文芸部の方に顔を出さないのか"と訊ねたのだろう。
 たったそれだけのことが、なぜ、俺にはしっかりと聞き取れなかったのか?

 更に、彼女の言葉を聞いて混乱する俺に向かって、ティアは「カリオストロ!」と叫んだ。

238:2012/05/07(月) 14:39:29.73 ID:

 前後の状況を踏まえれば、あのとき俺が聞き取れなかったのはカリオストロの影響なのだろう。
 カリオストロ――あの男についても、分からないことが多い。いま考えるのはよそう。

 そして実際、カリオストロの使役する(らしい)黒犬が俺を追いかけた。
 児童公園に逃げ込んだ俺が見たのは、その爪牙に傷つき倒れ伏す大男の姿だった。

 今思えば、なぜ彼らはあの大男を狙ったのだろう。
 ――いや。

 彼は少女を庇っていたから、ひょっとして狙われたのは、あの女の子の方だったのか?

 黒犬は全部で四匹。俺を追いかけてきたのが何匹かは忘れたが、大男を狙ったのもそのうちの一匹だったのだろう。
 俺はその場で怒りに身を任せ、黒犬を追い払った。
 考えてみれば、あれほどの大男をあんなふうに傷つけた犬を、よく撃退できたものだ。

239:2012/05/07(月) 14:40:55.33 ID:

 そして、次に目を覚ましたとき、俺は"魔法使い"の事務所にいた。
 彼女が本当に魔法使いなのかどうかはさておくとして、彼女はたしかに大男の怪我を治して見せた。
 俺はあのときの大男の姿を思い出す。――どう考えても、医者でもない人間が治せるレベルの怪我じゃなかった。
 
 彼女が医者崩れか何かなのかもしれないが、それでも処置に使えそうな道具を持っているようには見えなかった。
 とりあえずのところ害はないので、彼女は「魔法使い」ということにしておこう。
 そして彼女自身の言葉を信じるなら、彼女はこのさまざまな変化には無関係の場所に立っている。
 
「神の境地」と彼女は言った。実際、何かを知っていそうではあるが、高見の見物というような雰囲気が滲んでいる。
 ……あの女のことは考えても分かりそうにない。とりあえずは、無視してしまおう。
 
240:2012/05/07(月) 14:41:22.15 ID:

 次は――そうだ、これはある意味、いちばん最初に起こったことだとも言えるが、噂の話だ。

 例の怪談。"冥界"の鏡の話。あれを流したのは"俺"だという話が、突然出てきたのだ。
 ちょうど、人々の姿が消えはじめたのと同じ時期だった。

 冷静になって思い返してみれば、噂を広めた心当たりはまったくない。
 だが、そのときの俺は"原因は俺にある"と感じた。確信すら抱いていた。 

 これはなぜなのだろう?

 そういえば、ハカセが「怪談について調べてみよう」と言ったのは、ティアの手紙が来るよりも前の話だ。
 ハカセはあのとき、こう語った。

『わからない。でも、なんだかそういうことを考えていた。これは確かめるべき事柄なんだ』

"確かめるべき事柄"。 

241:2012/05/07(月) 14:42:24.63 ID:

 ハカセの言葉は要領を得なかったが、結局、俺以外の皆はその場で彼の思いつきに参加し、のちに俺も加わることになった。

 そういえば――その頃からだろうか。俺が妙に憂鬱になり、小難しいことばかり考えるようになったのは。
 暗くて後ろ向きで、観念的で地に足のついていない思索に夢中になりはじめたのは。

 俺という人間はたしかに社交的じゃないし、明るくもない。
 だが、だからといって――そこまで"自分とは関係のないこと"について考えるような人種だったっけ?
 少なくとも、「世界」だとか「人間」だとか、「大人」がどうだとか、「世間」がどうだとか、「惰性」がどうだとか……。

 以前の俺なら、そんなことはまったく考えようとしなかったに違いない。
 たしかに日常に嫌気がさすことはあったし、ネガティブな悩みに没頭することは多かったけど、それにしても考えごとにとらわれすぎている。
 俺は自分の身の周りのことをこなすので精一杯だった。それが、いつのまにこんなことになったのだ?

 ティアなら、「カリオストロの影響よ」と叫んだかもしれない。――その想像は、ふたつの意味で、大きく外れていない気がした。

242:2012/05/07(月) 14:42:55.92 ID:

 そうして旧校舎を調べることになった。鏡には何の変哲もなかった。
 だが、その日からトンボは姿を見せていない。シンプルに考えれば、彼は"冥界"に呑まれたということになる。

 俺はトンボの行方を確認していない。
 だが、シラノやハカセが「トンボがいなくなったこと」を重大に受け止めていたことを考えると、家にも帰っていないことは確認したのだろう。

 次に旧校舎に調査に行くと、今度は後輩がいなくなった。
 その日から、変化は急激にあらわれはじめる。

 まず俺は、俺自身が知らないはずの「シラノ」のこと、「トンボ」のこと、「ハカセ」のことについて知ることになる。
 これはあの"ズレ"と同じようなものなのだろう。まだ説明はつけられそうにない。

 同時期にティアが姿を消し、少女は俺のことを忘れた。さらに、いつの間にか「文芸部」に所属していたことになっていた。
 これが俺の身にあらわれた変化だ。
 
243:2012/05/07(月) 14:44:06.14 ID:

 どの話をさして言ったのかは分からないが、スズメはこの頃、「いつまで茶番を続けるつもり?」と言った。

 彼女には"茶番"に見える何かがあったということだろう。
 あのスズメという少女の存在についても……考えてみるべきなのだろう、本来ならば。
 彼女はまるでただの人間ではなく、神か悪魔か何かのように、俺のことを見下ろしているように感じる。

 ――だがそれゆえに、彼女のことを考えるにはとっかかりがない。スズメのことは置いておこう。

 トンボと後輩が消えたことで、ハカセは調査を中止しようと決めた。それ以来、彼らとはろくに顔を合わせていない。
 
 そして、俺は病室の夢を見るようになった。
 自分はベッドに眠っている。その傍で、カリオストロが呼びかけるのだ。
 この世界はくだらない。生きる価値などない。だから、滅ぼすべきだ、と。

244:2012/05/07(月) 14:44:50.57 ID:

 黒スーツの男に会えば、彼もまた俺のことを忘れていた。

 そしてそれから、後輩と会うことになる。

 ここで、彼女と俺たちとの認識の違いが浮き彫りになった。

 俺たちは、"トンボ"と"彼女"が消えたと考えていた。
 だが彼女の視点では、"トンボ"と"俺たち"が消えたように見えていたのだ。

 最初は受け入れがたいと思っていたが、彼女の視点は俺に一つの仮説をもたらした。

 つまり、本当に、あの日消えたのは彼女ではなく、俺たちの方だったのではないか、と。

245:2012/05/07(月) 14:45:41.09 ID:

 ひとまず、大雑把に、近頃起こった変化を、おおまかに区別する。

"俺についての変化"…………A
"カリオストロ、ガラテア、ティアについての変化"…………B
"黒スーツ、少女、自然科学部員についての変化"…………C
"この街全体についての変化"…………D

 まっさきに考えるべきなのは"C"だ。
 
 黒スーツの大男、赤いランドセルの少女は、ティアが現れる以前に俺と顔を合わせている。
 だが、彼らは俺のことを忘れた。それがいつ起こったものかといえば、"後輩がいなくなってから"なのだ。
 
 同時に、"D"……一度は人の姿が減り、様子を変えたこの街が、いつのまにか元通りになっている。
 それもたしか、"後輩がいなくなってから"だ。

246:2012/05/07(月) 14:46:07.38 ID:

 それを考えると、"後輩がいなくなった"タイミングというのが、おそらく変化が起こったタイミングなのだ。

 ここから発想すると、
 
「少女や大男が俺のことを忘れた」

 というよりは、

「あのふたりは俺と会ったことがない」

 と考える方が話が分かりやすくなる。
 
247:2012/05/07(月) 14:46:58.29 ID:

 つまり、あの日"鏡"に飲み込まれ、"冥界"にやってきたのは、俺たち三人の方だったということだ。
 俺たちが現実だと信じていたこの世界は、あの日以来"冥界"だったのだ。

 酷似したふたつの世界が存在し、俺たちはあの日を境に"冥界"にきていた。
"冥界"という響きにおどろおどろしいものを感じていたせいか、"冥界"が"現実"と酷似している可能性には思い当らなかった。

 もちろんこれだとおかしい部分がある。トンボの存在だ。
 仮にトンボもあの鏡に呑まれたとすれば、こちら側にトンボがいないのは不自然だ。

 だが、後輩がいた世界にもまた、トンボはいなかったらしい。そのことについては保留するべきだろう。

 こう考えると、後輩は少し遅れて"冥界"にやってきたことになる。
 となると、彼女の家がなくなった理由も簡単に説明できる。

248:2012/05/07(月) 14:47:54.33 ID:

 彼女と再会できたのは、「彼女が鏡の中から現実に戻ってきたから」ではなく、さらに言えば「俺たちが冥界から出て行ったから」でもない。 

 彼女は俺と再会したとき、「旧校舎の鏡をもう一度調べた」と言った。おそらくそのとき、彼女もまた"こちら"に来たのだ。

 おそらく、「俺と黒スーツが会ったこと」が、なかったことになっているように、「彼女の家」もまた、"冥界"には存在しないことになっているのだ。
 同様に、俺が「文芸部」に所属していることになっていたのも、"冥界"での出来事だった。
(だが、"現実"でも例の部長は現れた。ティアが"カリオストロ"と呼んでいたので、例の"流出"という奴なのだと言うこともできるが) 

 もし俺たちが知らぬ間に"冥界"に迷い込んでいたとすると、いくつかのことに説明がつく。
 ここ最近カリオストロの夢を見るようになったことにも、ティアが俺の前から姿を消したことにも、ある程度の想像ができるようになる。

 つまり俺は、いつのまにか"カリオストロの領域"に迷い込んでしまったのだ。
 だから、カリオストロは俺の夢に現れ、ティアはカリオストロの領域にあっては存在できなかったのだ。

 これで大雑把には説明がつく。……もちろん、合っているかどうかはわからないが、もっともらしくは聞こえる。

 仮にここまでの仮説が正しいとなると、現在起こっている問題は、ふたたびあの"鏡"を通り元の世界へ帰れたなら、ある程度解決する。

249:2012/05/07(月) 14:49:22.21 ID:

 だが、そうだとするともっと根本的な問題がある。

 それは俺がこれまで散々疑問に思い、保留にし続けてきた問い。

"どこからが現実"で、"どこからが現実じゃないのか"という問題だ。

 仮説に従えば、俺たちの目の前には"現実"と呼んでいる"世界A"、"冥界"と呼んでいる"世界B"が存在することになる。
 ふたつ存在する以上、片方が嘘で片方が本当と考えるべきなのだろうか。
 それともこれはパラレルワールドのようなもので、どちらも可能世界のようなものなのか。

 俺は可能世界なんてものは信じちゃいないので、どちらかが偽物だと考えたいところだ。
 そもそもどちらかが可能世界だとすると、"その世界の俺"とこの俺が鉢合わせしていなければおかしい。

 とにかく話を進めると、俺たちはずっと世界Aにいたのだから、世界Aがもともとの現実だと考えたくなる。
 だが、ここでいくつかの疑問が現れる。
 まず、世界Aでは、ティアが現れ、黒犬が現れ、人が消えた。つまり"非現実的"なことが実際に起こったのは世界Aばかりなのだ。

 それを"現実"と呼べるだろうか?
(だがそもそも、世界がふたつあるという話が"非現実的"なのだから、そんなものは何の参考にもならないかもしれない)。
 
250:2012/05/07(月) 14:50:17.11 ID:

 かといって、世界Bには後輩の家が存在せず、トンボもいない。
 仮にこれが"現実"だというのなら、悪い冗談だとでも言いたくなる。

 あえて世界Bが現実であるという説を後押ししようとするなら、俺は世界Aにいたとき、「行ったことのないはずの旧校舎の記憶」を持っていた。
 このことから意味をくみ取ろうとするなら、世界Bが俺にとっての現実であり、世界Aは幻想に過ぎないと考えることもできる。
 一度旧校舎を通じて世界Bから世界Aに移動した俺は、そのまま世界Aを現実だと信じて暮らしていた……という風に。

 "カリオストロが世界を滅ぼそうとしている"というティアの言葉はどちらを指しているのだろう。
 Aか、Bか、それとも両方なのか。だが――カリオストロが力が実際に流出しはじめたのは世界Aだ。
 世界Bではなんの問題も起こっていない。……いくつか、俺たちの身の回りに起こった変化を除けば。

 いずれにせよ、カリオストロが世界を滅ぼすという問題についても、そろそろ真剣に考えてみるべきなのだろう。
 俺は世界になんて興味はないが……それでも、滅ぶとなれば、あまりいい気はしない。

251:2012/05/07(月) 14:50:57.13 ID:

 仮にどちらかの世界が本物だとすると、もう一方は偽物だということになる。
 それがどういう原理で存在しているのかは分からないが、いずれにせよ現実と非現実の区別はつけられそうにない。

 あの魔法使いの女や、スズメの言葉も、こうなってみればただ意味ありげなだけではなく、一定の意味を持っていそうなものだ。 

 それにしても、この状況はあまりに多様な解釈が可能すぎて、混沌としている。

 世界Aが現実で、この世界Bが、カリオストロが俺に見せている悪夢のようなものだと言うこともできる。

 反対に、世界Bが"現実"なのかもしれないとも言える。
 だが仮にそうだとすると、トンボはおいておくにしても、後輩に関してはある種の絶望的な疑惑が浮上しかねない。

 それは一言で言えば、

「彼女は本当のところ、実在しない人間なのではないか?」

 ということに尽きる。

252:2012/05/07(月) 14:51:49.64 ID:
つづく
253:2012/05/07(月) 17:18:48.52 ID:
1乙
核心に近づいてきた
254:2012/05/08(火) 18:37:20.48 ID:



 
"ジャックと豆の木"は、ポピュラーな童話である割に、ストーリーがひどく歪だ。

 貧乏な母子家庭の少年ジャックは、ある日母親に頼まれ牝牛を市場に売りに行くが、途中である男と出会う。
 ジャックは男の持っていた綺麗な豆に心を惹かれ、牝牛との交換を条件にその豆を譲り受ける。
 当然母親は激怒して、ジャックがもらってきた豆を庭に捨ててしまう。

 そして翌朝、ジャックが目を覚ますと、そこには雲まで貫く巨大な豆の木ができていた。

 ジャックが豆の木を登り、雲の上まで辿り着くと、そこには彼を見守っていたと語る、妖女を名乗る老婆がいた。
 彼女が言うには、雲の上の巨大な城に、ジャックの父を殺し、宝を奪った巨人が棲んでいるらしい。

 怒りに駆られたジャックは大男の家に忍び入り、金の卵を産む鶏を盗み出す。
 そうして彼らは、金の卵を産む鶏のおかげで、もう金に困らず、いつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。

 と、そこで終わっていればまだよかった。

255:2012/05/08(火) 18:37:58.43 ID:

 しばらくして、ジャックは再び雲の上の城へと向かい、巨人の家から金銀財宝を盗み出す。
 ジャックが姿を消したことで憔悴しきった母親も、彼が無事帰ってくると大喜び。金銀財宝を見て更に感激する。

 味を占めたジャックはみたび城に忍び込み、今度はひとりでに鳴り響くハープを盗み出そうとする。
 ジャックが手を伸ばしたところで、ハープは大声をあげ、巨人を呼ぶ。
 するとあっというまに巨人がやってきて、ジャックはついに見つかってしまった。 
 
 ハープを抱えたまま逃げ出したジャックは、巨人に追われて大わらわ。
 なんとか下界に戻るものの、巨人もまた、豆の木の梯子を渡ってジャックを追いかけてくる。

 ジャックはそこで、豆の木を斧で切り倒す。巨人は宙に投げ出され、頭を打って死んでしまう。

 最後に、美しい貴婦人の姿になった妖女が、彼に向かってこう語る。

「あのとき、豆のはしごをみて、すぐとそのまま、どこまでものぼって行こうという気をおこしたのが、そもそもジャックの運のひらけるはじめだったのです。
 あれを、ただぼんやり、ふしぎだなあとおもってながめたなり、すぎてしまえば、
 とりかえっこした牝牛は、よし手にもどることがあるにしても、あなたたちは、あいかわらず貧乏でくらさなければならない。
 だから、豆の木のはしごをのぼったのが、とりもなおさず、幸運のはしごをのぼったわけなのだよ。」

 そんなわけがあるか、と俺なら思う。

256:2012/05/08(火) 18:38:26.41 ID:

 俺はこの話を読むたびに、巨人には子供がいなかったのだろうかと考える。
 いたとしたら、その子供にもまた、ジャックを見守っていた妖女のような存在がいたに違いない。
 
 ジャックの父親は"財宝を盗み出されたあげく殺された"が、これはジャックが大男にしたのとまったく同じことである。
 これはまったく同じ形で達成された一種の復讐であり、そうである以上ジャックは"いつまでも幸せに暮らしました"とはいかないはずだ。

 母親が「金銀財宝」の存在に喜んでいることも、童話にしては不思議である。
 本来ならばここで母親は、「いいんだよ、お前が帰ってきてくれただけで」と語るべきだ。

 こういった歪さにある種の意図があったとすれば、この話には続きがなければならない。
 
 つまり、父を殺された巨人の息子が、ジャックのもとから金銀財宝を盗み出さなくてはならないのだ。
 そうでなければならない。そうでなければ、この話はあまりに不条理だ。

「だが」と俺は考える。
 本当にそれでよいのだろうか?
 
257:2012/05/08(火) 18:38:54.28 ID:



 幸いというべきか、両親は帰ってこなかった。
 妹に着替えを貸させて、ひとまず後輩に飯を食わせ、風呂に入らせた。
 
 後輩が借りたスウェットのサイズはほとんどぴったりで、よく馴染んで見えた。

 彼女はしばらく俺の部屋で休んでいたが、やがて八時を回った頃に布団を敷いた空き部屋に戻った。
 後輩の姿を見ていると、俺はなんだか胸の奥にじくじくとした痛みを覚える。
 そういう感覚に気付くたびに、自分の中に彼女に対する好意を強く自覚せざるを得なかった。

 俺は彼女のことが好きなのだと思う。どうしてなのかは思い出せないが、俺にとって彼女はそういう存在なのだ。
 同時に俺は、彼女に対する衝動とでも呼ぶべき暴力的な欲望が、自分の中にたしかに存在するのを認めざるを得ない。

 それを踏まえて言うなら、彼女は俺にとってあまりに都合の良い存在だった。
 都合の良い存在であり過ぎた。

258:2012/05/08(火) 18:39:29.16 ID:

 いわば彼女は、俺と現実との間を繋ぐ最後の紐のようなもので、彼女がいるからこそ俺はかろうじて生きていくことができていた。
 彼女の存在を励みになんとかやることができた。だが、それはあまりに都合がよすぎる。
 
 ひょっとしたら彼女は――あるいはあのティアがそうなのかもしれないが――俺の作り出した妄想か何かなのではないか。
 既に現実と妄想の区別は曖昧になっている。  

 俺は、自分はどうしてティアの存在を疑わないのだろうと考えていた。
 まっさきに疑問に思うべきなのはティアや、あの黒犬の存在ではないのだろうか。
 ましてや、いないはずの幼馴染を目の当たりにしたという前提があるのだ。
 
 目に見えていることすら疑ってかかるなら、俺にはさまざまなものを疑う必要がある。
 だからこそ、俺は現実と非現実を区別しようとしなかったのだが……。

 そしてその問題は、もっと別の形で目の前に現れるだろう。

 と、そこでノックの音がして、部屋の扉が開いた。 

259:2012/05/08(火) 18:40:14.16 ID:

 扉を開けたのは後輩だった。彼女は困ったような表情で、部屋の前に立ち尽くしている。

「どうした?」

 訊ねてみても、彼女は「あの」だとか「えっと」だとか、意味のない言葉を口から発するだけで、何も言ってこない。

「とりあえず入れば?」

 そう言ってみても、彼女は少し躊躇した様子だったが、やがて吹っ切るように部屋に踏み込んだ。
 彼女が扉を閉めると、俺たちはふたりきりになった。妹はもう眠ってしまっただろうか。

 俺は彼女の様子を眺めた。黒い髪が濡れている。普段と違う格好だからか、彼女の表情はいつもより幼く見えた。
 しばらく待ったが、彼女は何も言ってこなかった。
「早く寝た方がいい」とも「何か用があるのか?」とも言う気にはなれなかった。
 俺たちの状況はあきらかに普段とは違う。そういった状況で、常識的なことを言う気にはなれなかった。

260:2012/05/08(火) 18:40:40.63 ID:

 彼女は何かを言おうとしてここに来たのかもしれないし、それを待つのも悪くない。
 第一、俺自身、彼女と少しでも長い時間、一緒に居たい気分だったのだ。

 やがて彼女は口を開いた。

「部長は、どう思いますか?」

「なにが?」と俺は分かっていないふりをする。

 後輩は話を続けようとしたようだったが、急に不安になったように口ごもり、結局何も言わなかった。
 彼女とこんな時間を過ごしたことが、以前にもあったような気がする。

「この部屋で寝てもいいですか?」

 後輩は言った。俺はひどく混乱した。なるべく平静を装って訊ね返す。

261:2012/05/08(火) 18:41:06.39 ID:

「あっちの部屋、なんかまずかった?」

「いえ、そうじゃないんですけど……」

「まぁ、別にこの部屋を使ってもいいけど。俺があっちの部屋使おうか?」

「ですから、そうじゃなくてですね」

 彼女は一拍おいて、覚悟を決めたような顔で息を吸う。
 俺は自分の想像と彼女の言葉が一致していないことを祈った。あるいは、一致していることを祈った。
 どっちが本心だったかは分からない。その一瞬の間で、俺の心は完全にふたつ分裂し、暴走しかかっていた。

「一緒に寝ても、いいですか?」

262:2012/05/08(火) 18:41:40.67 ID:

「ずっと考えていたんですけど、わたしたちはどうして、あんな鏡を調べようと思ったんでしょうか」

 俺は少し考えて、言った。

「具体的なことは分からないけど、たぶん危機感のようなものだと思うよ。ハカセは"このままじゃいけない"と思ったんだと思う」

「このままじゃいけないって、何が?」

「分からないけど……。たぶん俺たちは全員、何か巨大なものから目を逸らしているんじゃないかと思う」

 俺はずっと考えていたことを口にしてみた。

「おそらくハカセは、そこに危機感を覚えたんじゃないかな。どうしてかは分からないけど……そういう感覚はあった気がする」

 俺が言うと、彼女は思い当るところがあったのか、黙って考え事を始めた。
 自分で言ったことを反芻してみても、それがどうして鏡に繋がるのかが分からない。

 だが、声に出した途端、その考えは俺の頭に染み渡るように入り込んだ。
 俺はその考えにすんなり納得できた。不思議なことに。

263:2012/05/08(火) 18:42:08.11 ID:

 おそらく俺たちは逃げていた。何かから。それが何なのかを考えるのは後にするべきだろう。

 俺は後輩の横顔を見ながら、やっぱり彼女は実在していないのかもしれない、と思った。
 こんなにも綺麗な少女が現実にいるものだろうか。
 やっぱり俺は、夢でも見ているのかもしれない。

 それとは別に、彼女の実在を疑う理由を俺は思い出す。
  
 ハカセは今年受験生。つまり三年だ。
 ハカセが中三のとき、俺は中一だった。つまり歳の差はふたつ。
 である以上、ハカセが三年なら俺は"一年"ということになる。

 はっきり言ってしまえば、俺に後輩なんているわけがないのだ。
 そのことにどうして気付かなかったのか。あるいは気付かないふりをしていたのか。

264:2012/05/08(火) 18:42:34.11 ID:

 こう考えてしまえば、なおさら世界Aが偽物で、世界Bが本物ととらえるのが正しく思える。

 存在しないはずの後輩がいる世界よりは、それがいない世界の方がまだまっとうに思えるからだ。 

 だが、怪しいと言い出したら、トンボだって怪しい。 
 トンボとの記憶に関しては、ある程度の信憑性がある。ハカセについても同様だ。
 それは推測というより確信に近い。少なくとも、トンボとハカセは、昔から俺の友人だった。

 トンボ。彼はたしかに実在の人間だ。少なくとも、そう感じている。
 だが、俺の記憶が正しければトンボは……。

265:2012/05/08(火) 18:43:01.60 ID:

「部長?」

 と後輩に呼ばれ、俺の思考は途切れた。

「なに?」

「話、聞いてました?」

 俺はなんと言うべきか迷って、適当にごまかそうとしたが、結局やめた。

「もういいです」

 後輩は拗ねたように布団をかぶり、こちらに背を向けた。
 その仕草がいつもより子供っぽく、可愛らしく思えて、俺はなんだか頬が緩むのを押さえられなかった。

 俺が笑っていることに気付くと、彼女はバッと振り向いて、

「何笑ってるんですか!」

 と心外そうに怒鳴る。それがなおさら可笑しくて、俺はよけい笑いが止まらなくなった。

267:2012/05/08(火) 18:44:14.08 ID:

「……もう」

 彼女は毒気を抜かれたように呟いて、また布団をかぶった。ようやく笑いがおさまった俺は、電気を消して、自らもベッドにもぐりこむ。
 そういえば、と思って、

「ベッドの方使うか?」

 と訊いてみたが、

「いいです!」

 と、"わたしは今怒っています"といわんばかりの不機嫌そうな返事があった。
 彼女の仕草のすべてが愛らしく、俺になんだか、そのすべてが福音のように思えた。

 彼女と一緒にいるということが、なんだか奇跡めいたことに思えた。

 ――そして、だからこそ、現在起こっている問題に、俺は真剣に向き合わなくてはならないのだろう。

 俺はしばらく寝付けなかった。なぜだか考えて、いや、この状況で眠れる方がおかしいのだと思い返した。

268:2012/05/08(火) 18:44:40.40 ID:

 目を開くと、部屋は暗くて視界はきかなかった。
 少しカーテンを開ける。真黒な夜空に月がぼんやりと浮かんでいた。その姿が、今晩はひどく綺麗に見える。

「なあ、怒ってる?」

「怒ってます」

 彼女はすぐに返事をよこした。
 俺はそれに苦笑しそうになったが、一応こらえておく。

「悪かったよ」

 謝ったものの、本心からの謝罪とはとても言えない。
 それを悟ったわけではないだろうが、彼女はしばらく何も言わなかった。

 少しして彼女は、

「別にいいです」

 と、まだ少し拗ねているような声で言った。

269:2012/05/08(火) 18:45:37.14 ID:

「部長」
 
 不意に後輩は、不安そうな声で俺を呼んだ。

「大丈夫ですよね?」

 懇願するような声音だった。俺は息を呑む。
 自分の考えが見透かされたような気がした。
 だが、そうではなく、彼女は今の状況のことをさしているようだった。

 俺はどう答えるか迷った。いったいこれからどうすればよいのか、まったく考えていなかったからだ。
 
「大丈夫」

 と俺は嘘をついた。

「何の問題もない。心配するな」

 俺は、こんな言葉を、以前にも彼女に言ったことがあるような気がした。
"ズレ"るよりももっと前、ずっと昔、ずっとずっと昔に。

“現実なんて見ない”。……でも、本当にそれでいいのだろうか。
 ズキズキと、頭の奥が痛んだ気がした。
270:2012/05/08(火) 18:46:19.48 ID:



 特にどうというところのない夏だった。

 子供らしくよく遊び、子供らしくよく出かけ、よく寝た。
 今と違いがあるとすれば、両親もそのことに積極的だったという程度だ。

 あの夏、俺と幼馴染と妹は、三人でたくさん遊んだ。
 両親がああなってからも、変わらずに遊んだ。

 俺と妹にとって幼馴染は、閉鎖的な場所に取り残された自分と"外"とを繋ぐ、たったひとつの糸のようなものだったのかもしれない。
 
 幼馴染が転校して、俺と妹は両親のいる家に取り残された。
 誰かが悪いわけではないし、誰かが望んだわけでもない。
 なぜだかわからないが、そうなったのだ。

 おそらくはそういう種類の形の、それも悲劇が、日々繰り返されている。
 それはたぶん"世界のシステム"の問題だ。

271:2012/05/08(火) 18:46:45.38 ID:

 ――だったら、こんな世界は滅びるべきじゃないか?
 何の理由もなく、苦しみが生まれるような世界なら。

 カリオストロならこう言うのだろう。だが俺なら、

 ――まさか。

 と思う。
 
 たしかに不満は多いけれど、それは自分の手で改善するべき種類の問題だ。

 滅びるべきなのは世界よりもむしろ"自分"なのだ。
 俺こそが滅びるべきなのだ。

 だが、そう考えるには何かが足りないような気がする。
 ひょっとして、俺はまだ何かを忘れているのだろうか?

272:2012/05/08(火) 18:47:11.75 ID:
つづく

>>266
重複ミス
274:2012/05/08(火) 23:02:06.40 ID:




「どんな具合?」とスズメは訊いた。

「よくないね」

 俺が言い返すと、彼女は満足そうに頷く。

「何がどうなっているんだか、まるで分からない」

「まあ、そうだろうね。でも、この状況を作ったのは君だから」

「本当に?」

「割とね」

275:2012/05/08(火) 23:02:34.23 ID:

「どうすればいいと思う?」

 訊ねてから、俺は本当のところ彼女を普通の人間として扱っていないのではないかと思った。
 最初からずっと、彼女が俺のすべてを見透かしていることを前提に話をしていたような気がした。

「好きにすれば」

 ことさらそっけなく、スズメは呟く。
 俺は頭を掻いた。

「ここはどこなの?」、

「"ここ"は屋上。でも、君が言いたいことは分かる。"屋上"とは別だけど、君が言う"ここ"はカリオストロの冥界」

 スズメの声が屋上に響くと、風がいっそう強まった気がした。

276:2012/05/08(火) 23:03:00.56 ID:

「ここは"現実"なの?」

「君がそう呼ぶものに近しい。でもちょっと違う。まだ思い出せてない」

「何を思い出せてないんだろう?」

「思い出すしかない」

 彼女はそこで言葉を区切った。俺は次の質問を投げかける。

「あの鏡を通って、元の場所に戻ることはできる?」

「できるよ。でも、本当にそれでいいの?」

「分からないけど……」

 俺はフェンスの向こうの空を見つめた。灰色にくすんだ雲が頭上を覆っている。
 ここにも長くはいられない、と俺は思った。

 スズメには何も言わず、俺はそのまま屋上を出ることにした。
 俺は何を忘れているのだ?

277:2012/05/08(火) 23:03:56.90 ID:





 自然科学部の部室にはハカセがいて、シラノがいて、それから後輩がいた。
 後輩とは、今朝一緒に登校してきたが、俺はそのことをあまり気にしないように意識した。

 ハカセとシラノは後輩の姿を見て驚いた。どういうことだ、とハカセは言ったが、説明はできなかった。
(何をどう説明できるというんだろう?)

 俺には、ハカセやシラノの姿が曖昧な、おぼろげなものに思えてきた。

 恐れていたことが現実になりはじめている。
 現実にしか見えないものを何かひとつでも疑ってしまえば、現実ですら、現実には見えなくなるのだ。

 ハカセはしばらく後輩の姿をじっと見つめていたが、彼女が何も言わずにいると、やがて諦めたように溜め息をついた。

278:2012/05/08(火) 23:04:30.23 ID:

 もちろん、現状では、俺にとって世界Aもまた現実の一部分でしかない。区別をつけることは困難だ。
 だが、俺たちは世界Aという場所にいることで、何か(おそらくは本当の現実)から必死に目を逸らそうとしていたのだ、と考えることができる。
 
 スズメの言葉を信じるなら、けれど――“世界Bすらも現実ではない”。

 では、現実はどこに行ったのだ?
 
 シンプルに結論付けてしまえば“ここは現実”ではない。“世界A”も“世界B”も現実ではない。
 ここは現実味のある夢のような場所なのだ。

 そう考えるほうがよっぽど自然だ。俺自身の感覚を疑ってしまうなら。
 
 まず妖精なんてものが存在するわけがないし、あんな黒い犬が街を徘徊するはずがない。
 あの怪しげな大男が住宅地の公園にいて通報されないわけがない。魔法使いなんていない。

 であるならここは、夢の中なのではないだろうか。

279:2012/05/08(火) 23:04:51.43 ID:

 今になって、ようやくそのことに思い当る。

 では次の問題は、“では、どうして俺は目覚めないのか?”という問題だ。

 もちろん夢というものは何でもありだし、長い時間夢の中に居たように思っても、たった一晩眠っていただけだった、ということも珍しくはない。
 だが――この“夢”にはもっと大きな意味がありそうだ。
 
 これは願望ではない。
 おそらくこの“夢”は、俺に何かを伝えようとしている。
 そういう漠然とした確信が俺を悩ませている。それをどこまで信用していいのだ?
 この世界すべて、俺が作り出した妄想なのかもしれない。……そんな結論を、どう受け止めればいい?

 この世界で起こる出来事は、今にして見れば俺にとってあまりに痛切すぎる。
 ひとつひとつの出来事が、俺の精神に対してひどく強烈に影響を与える。

 俺は本当に“世界A”で生活していたのだろうか?
 俺にはティアに会う前の“世界A”での記憶がほとんどない。
 どれもこれも焼き増ししたように同じものに感じられる。生活というほどくっきりとした抑揚は存在しなかったはずだ。

 ある瞬間、唐突に“世界A”の途中に投げ入れられたようにすら思える。
 どうしてそんなことを感じるのか、分からない。分からないことが多すぎる。

 もう一度、世界Aに戻るべきなのかもしれない。スズメは“それでいいのか”と言ったが、俺にはこのままでいる方が納得できない。
 何が現実なのだ? 俺はいったい何を忘れているのだろう。

 そこがはっきりしないかぎり、俺はなにひとつ行動できないのだ。

280:2012/05/08(火) 23:05:26.54 ID:



 もう一度鏡を調べに行こう、と言うと、ハカセは一瞬だけ強く反発したが、結局頷いた。
(現実的な手触りを備えた夢は、一種の現実に過ぎないと俺は強く思う)

 シラノは何も言わなかった。

 旧校舎は相変わらず黴臭く、埃っぽい。その様子は世界Aとなんら変わらない。
 俺たちは例の鏡を目指した。そこまでの距離は以前より長く感じられた。

 後輩は何かに怯えるような表情でこちらを見た。
 俺は彼女の視線を無視して、ずっとひとつのことを考えていた。

(俺はいったい何を忘れているのだろうか?)

 それはおそろしく大事なことなのだろう。
 それを忘れているからこそ、俺の推測は、なんだか大事な芯が欠けたように曖昧なのだ。

281:2012/05/08(火) 23:05:52.63 ID:

 それにしても、旧校舎の廊下は長い。こんなに長かっただろうか?
 カリオストロ。彼はいったい、今どこで何をしているのだろう。世界を滅ぼすのではなかったのか。
 俺は静かに考える。

 カリオストロ。
 彼はいったい、俺に何を見せようとしたのだろう。
 彼が俺に見せようとした“現実”とはなんなのだろう。

 俺が世界Bにやってきて分かったことと言えば、世界Aの不確かさ程度のものだ。
 それだけのためにこの“世界B”が用意されていたのだろうか。
 
 現実に近しい世界B。けれど、ここは現実ではない。

 俺はとりあえず、世界Aを現実だと信じることにした。そうすることでしか前に進めない気がした。
 それは“現実である”と確信するというよりは、世界Aを基準にする程度の意味でしかない。

 少なくとも“世界B”を基準にするよりは分かりやすい。

282:2012/05/08(火) 23:06:44.43 ID:

 ――いつの間にか、袋小路に落ち込んでしまっている気がした。

 世界Aを信じるとしても、世界Bを信じるとしても、両方を信じないとしても同様に、巨大な混乱が俺を襲ってくる。
 もうわけがわからなかった。俺は何を信じるべきなのだろう。俺はどうしてこんなに混乱しているのだろう。
 何が現実で何が現実じゃないかなんて、俺に区別できるはずがない。

 ティア、と俺は思った。せめて彼女がこの世界Bにいてくれたなら、もう少し何かがわかったかもしれないのに。
 何を信じればよいのだろう。ここは本当に夢の中なのだろうか? どう考えても現実としか思えないのに。
 だが……俺は心の底で、ここが現実ではないことに納得しているような気もした。

 わけがわからない。俺の思考はいつからこんなに混線しているのだ?
 以前はこんなことはなかった。俺の思考はいつのまにかひどく混乱している。
 おそらくはカリオストロの影響だ。……カリオストロ? そうだろうか? 根拠はなんだ?
 ――ない。根拠がなかった。俺の考えていることには根拠がなかった。まったくなかった。
 いつからこんなことになったんだ?
 自分自身の考えでさえ、しっかりとまとまっていない。
 いや、違う。俺は何を考えているのだろう。結局俺は何について考えているんだっけ?
 第一、ここが世界Aだとか世界Bだとか、そんな区別だって本当のところ無根拠なのではないか。
 無根拠なことを原因に他者の実在を疑ってどうなる?
“世界Bが現実ならば、後輩の実在性が疑わしい”? どうしてそうなる?
 世界Bの中がただの夢であって、世界Aが本物なのかもしれない。どうしてその可能性を無視しているのだ?
 俺はいつからかこんなふうに混乱している。ヒドクコンランシテイル。何かが俺を追いかけてきている気がした。
 なんだろう? いつからだ? いつからこうなった? 俺の頭は上手に動かない。

283:2012/05/08(火) 23:07:12.31 ID:

 そうだ。ここは酸素が薄いのだ。だから混乱している。でも、どうして酸素が薄いのだろう? 
 ここは別に密室でもなんでもない。酸素が薄いなんてことはないはずだ。でも、事実息苦しいのだ。
 息苦しい。息苦しくてたまらない。ひどく生き苦しい。こんな場所に、正気の人間がいられるわけがない。

 逃げなくてはならないのだ。俺はこんな場所に一秒だっていたくない。もう一秒だってこんなものを見ていたくない。 
 でも、“こんな場所”ってどこだ? “こんなもの”ってなんだ? 俺はまた何かから目を逸らそうとしている。何から?
 
“現実”。

 不意に、前を歩いていたハカセが足を止めた。あともう少しで、鏡のある場所にたどり着くはずだった。
 彼は踊り場を見上げ、呆然と立ち尽くしている。シラノが彼の視線を追った。後輩もまた、少し遅れて“それ”を目にする。
 俺は見たくなんてなかったけれど、見るしかなかった。

 そこにはトンボがいた。

286:2012/05/09(水) 18:28:52.81 ID:
シュルレアリスムだね
好きだよ
287:2012/05/09(水) 23:13:16.43 ID:




 トンボの足元には四匹の仔猫がいた。
 それらはしばらくのあいだ鳴き声をあげてトンボの足にすり寄っていたが、やがて鼻を鳴らしてこちらを向いた。
 怖気を覚えるのと同時に、俺はトンボの顔を見る。彼は何の感情も宿していない無表情で、じっとこちら眺めている。
 あたかも俯瞰するような目だった。

 俺はまったく動けなかった。シラノやハカセも同じだろうと思う。
 トンボの瞳はあまりに冷徹だった。俺には彼が、トンボとまったく同じ顔をした別人に見えた。別人にしか見えなかった。

 何の言葉も行き交わないまま時間が過ぎた。トンボはやがて足を揺すり猫を動かした。ちょうどけしかけるような動きだ。

 悪い予感が消えてくれない。

 猫は牙を剥いた。最初、俺は何が起こったのか分からなかった。
 四本の足を器用に動かして、子猫は宙を舞う。階段の途中にいた俺たちはなんとか回避できたが、バランスを崩しかかった。
 
 次の瞬間には、猫は階下にいた。挟まれた、と俺は思う。俺は自分が子猫に怯えていることに気付いた。
 
 トンボを見れば、口角を釣り上げて笑っている。

288:2012/05/09(水) 23:13:51.19 ID:

「逃げるぞ」

 と俺は言った。ハカセたち三人は状況を飲み込めていない。俺も本当のところ、仕組みに気付いてはいない。
 舌打ちしたい気分だ。これが"カリオストロ"の嫌がらせなのだろう。

「どこへ?」

 と後輩が言う。彼女の声には緊迫感がなかった。
 そもそもなぜ逃げなければいけないのか、今、何がどうなっているのか、彼女は分かっていないのだろう。

 俺はトンボの背に隠れた鏡を見据える。一歩足を踏み出すと、猫ががなり声をあげて飛びかかってきた。
 右手の指先に強烈な痛みを感じ、咄嗟に振り払う。血が滴った。噛まれたのだ。

 四匹の仔猫は俺たちを囲んだ。トンボは高見の見物をしている。
 悪い夢でも見ている気分だった。たった四匹の仔猫に、どうしてこんなに怯えなければいけないのだ。
 俺の指は抉れていた。跳躍力を見た時点で分かっていたが、ただの猫ではない。

 俺はハカセとシラノを急き立て前に進ませた。彼らは状況を分かっていないながらも従う。
(俺は階段を"昇る"ように彼らを急き立てた)

 そうこうしている間も、猫は頭上を飛び交った。足に、腕に、首筋に、噛み付こうとしてくる。
 俺は避けるのに精一杯だった。自分がどうしてこんなことをしているのかもわからなかった。

289:2012/05/09(水) 23:14:33.41 ID:

 いつのまにか、小さかった仔猫が、犬ほどの大きさになっている。頭痛がしそうなのをこらえた。
 
 俺は近付いてきた猫を跳ね飛ばし、蹴り飛ばし、殴り飛ばしたが、それでも彼らはひるまなかった。まったくひるまなかった。
 俺の身体には自然と傷が増えていく。どんどんと抉れている。段々と、俺は自分が何をしているのか分からなくなった。

 隙を見ては階段を昇る。鏡までの距離はひどく長いものに思えた。
 一緒にきた三人はもうすぐ鏡にたどり着く。その間も猫が彼らを襲おうと身構えている。
 
 トンボは表情を変えずにその様子をじっと眺めていた。やがてハカセが自分の前に来ると、彼は鏡の前からすっと身を動かした。
 ハカセは戸惑っていたが、すぐに決心を決め、鏡に触れた。すると彼の身体がするりと鏡に飲み込まれていった。
 トンボはここで大きな笑い声をあげた。俺には何がなんだかわからなかった。トンボは何がしたいのだろう。

 シラノはトンボを追って鏡に腕を伸ばす。ここで仔猫がシラノの下に向かおうとしたが、俺はそれを蹴り飛ばして阻止した。
 そうしている背中に、猫が噛み付いてくる。もはや何が起こっているのかもわからない。
 猫は猪ほどの大きさになった。もはや蹴り飛ばせも跳ね飛ばせもしない。噛み付かれれば死んでしまうだろう。
 腕をもぎ取られてしまうかもしれない。
 
290:2012/05/09(水) 23:15:08.46 ID:

 後輩はしばらくこちらを振り向いていたが、俺が目で促すと鏡に手を伸ばした。彼女はことさらスムーズに、鏡に飲み込まれている。

 やがて猫は動きを止めた。トンボが静かに俺の様子を見下ろす。
 満身創痍というにはなまぬるい。だが、血が床に垂れる程度には傷ついていた。 
 
 これはいったいなんなのだろう。俺は何かを思い出しそうな気がした。
 頭の奥の方が疼く。俺は何かを思い出そうとする。カリオストロの声が聞こえた気がした。

 俺は仔猫の動きがないことを確認して、階段を昇る。鏡までの距離はおそろしく長い。
 それでもやがては辿り着き、俺はトンボを一瞥して、鏡に手を触れようとした。
 そこでトンボは、

「おまえは駄目だ」
 
 と厳めしい声をあげる。

 頭が後ろに強く引かれる。髪を引っ張られているのだ。トンボは激しい力で俺をひきずろうとしている。
 両足を踏ん張り、それに抵抗しながら、必死に鏡に向かって手を伸ばす。
 だが鏡の向こうには何もつかめるものがなく、俺は後退していく。
 意識が徐々に朦朧としてきた。なぜなのか分からないことが多すぎる。

291:2012/05/09(水) 23:16:17.50 ID:

 不意に俺の指先を掴む何かがあった。その力は俺を鏡の向こうに引きずりこもうとしている。
 痛みはいっそう激しくなった。トンボは空いている方の手を俺の抉れた傷口に差し込んだ。
 差し込んだ指先が俺の身体を激しく貪る。痛みが脳髄に痺れるようだった。
 呼吸が上手にできない。それでも何かの力が、俺を鏡の中に引きずり込もうとしていた。確実に。

 俺の身体が鏡に呑まれる。正常な思考ができる状況ではなかった。
 どうしてこんなことになった? 俺にはどうにもできなかったのか?

 やがて俺の身体は鏡を通り過ぎる。トンボに掴まれている頭だけが残った。
 不意に力が強まり、俺を鏡の中に引きずり込む。俺は最後にトンボの顔を見た気がした。

 なにかが落ちる音がして、自らもまた床に投げ出される。
 旧校舎の踊り場。そこには三人がいた。
 俺は自分の様子を眺めようとして、やめる。

292:2012/05/09(水) 23:16:45.86 ID:

 ハカセやシラノが大声で何かを言ったが、俺にはそんなことよりもっと気になるものがあった。

 俺は落ちていた"それ"を拾う。

 手首だ。おそろしく綺麗な指先。ともすれば女性のものと見紛うような……。

 俺は不意に立っていることができなくなって、膝をつく。何もかもが溶けていくようだった。
 全身が脈動しているように感じた。血が震えている。
 
 ああ、俺は意識を失おうとしているのだ、とふと思った。
 意識が途切れる。断絶。断線。
 
(俺は何を忘れているのだろう?)

293:2012/05/09(水) 23:17:13.11 ID:




 夢を見ている。
"夢"と分かる夢を見ている。つまりこれは明晰夢だ。
 
 蝉の鳴き声が異様にうるさい、暑い夏の日だった。

 道路の向こうが蜃気楼で歪み、街路樹の葉陰が鮮やかに地面を彩り、道路には車の通る気配もしなかった。

 俺はそのとき学校にいた。
 吹奏楽部の練習の音が、人の気配のしない校舎に冴え冴えと響いていた。
 開け放たれた窓からは少しの風すらも吹き込まず、グラウンドからは運動部の掛け声だけが聞こえる。
 昼下がりの太陽の日差しは、時間の割には白く明るい。 
 
 そこではあらゆる時間が止まっているように思えた。
 その日だけではない、どこまでも透き通るような夏が、永遠に続いていくかのように思えた。そんな日だ。

294:2012/05/09(水) 23:17:43.71 ID:

 俺にとって重大なことはすべて夏に起こった。
 そしてすべての夏は、あっというまに俺を取り残して去っていく。
 俺は秋になるといつも悲しくなる。夏の終わりになると、ひどく後ろめたくなる。
 
 どこにも行けない自分自身を発見し、どこにも行きたくない自分自身を発見する。
 そうして俺は秋をひとりで過ごす。
 夏に思いを馳せることだけに熱中し、ただ静かに時の流れに身を任せる。
 夏は終わってしまった。

295:2012/05/09(水) 23:18:11.15 ID:



 
 目を覚ますと、呆れ顔の魔法使いが見えた。

 最初に感じたのは後悔だった。どうして目を覚ましたんだろう。
 もう俺は目を覚ましていたくなかった。何かを思い出してしまった気がしたのだ。

 もう手遅れだった。俺はもう涙も流せなかった。いっそこのまま機械になってしまいたい。
 何もかもが俺の表面だけを撫で、通り過ぎている。何も俺の奥底の芯には触れてくれない。
 俺を揺さぶるものはひとつだって残されていない気がした。

 でも、それはただの錯覚だ。現に俺は後輩の姿を見れば胸を揺さぶられ、ハカセと笑い合えば楽しくなる。
 シラノと話すことで悲しくなることもあるし、新しく出会った誰かの内面に触れることは常に面白い。

 だからこそ、この世は地獄よりも地獄的なのだ。
 俺はもう楽しい気持ちになんてなりたくない。ただ嘆いていたい。悼んでいたい。悲しんでいたい。憐れんでいたい。
 俺の精神は明らかにそういった形の生を望んでいる。にも関わらず、なぜ心は未だに活発に動き回るのだろう?
 結局のところ、俺は真実傷付いてはいないのかもしれない。そのことが何よりも悲しい。

296:2012/05/09(水) 23:18:58.42 ID:

 魔法使いの事務所には、黒スーツと少女がいた。後輩がいた。ハカセがいた。シラノがいなかった。トンボもいなかった。

「また無茶苦茶したね」

 魔法使いが言ったので、

「仕方なかったんだ」

 と俺は答える。
 だが、彼女は肩をすくめて首を振った。

「うそつき」と彼女は笑う。たしかに俺は嘘をついた。

「ねえ、ひょっとして死にたかったの?」

 今度は俺が肩をすくめる番だった。

「八割くらいはね」

297:2012/05/09(水) 23:19:24.88 ID:

「本当に死ぬところだったのよ!」

 耳元で声がして、俺は咄嗟にのけぞった。聞き覚えのある声。ティアだ。

「どうしてあんなことをしたの?」

「さあね」
 
 実際、俺には自分がなぜあんなことをしたのかがわからなかった。
 もっと上手いやりようはあったはずだが、あのときはああするしかなかった。
 あんな風に噛み千切られ、抉られ、引きずられることの方が、無傷でいるよりもよほど慈悲めいて見えた。
 俺は別にマゾヒストではないし、血液や傷跡に陶酔する柄でもない。
 痛いのは苦手だった。

 けれど、俺には必要なことだったのだ。……結局、無意味なことでしかなかったけれど。

 俺は、もう二度とトンボとは会えない気がした。それが自然なのだ。

 何もかも通り過ぎていく。俺の現実は、ひそやかに蠢いている。息づいている。舌なめずりをしているのだ。
298:2012/05/09(水) 23:19:51.81 ID:
つづく
299:2012/05/10(木) 05:15:17.70 ID:
1乙
300:2012/05/10(木) 14:40:18.69 ID:



 トンボは猫を捨てた。
 小さな猫だった。
 四匹の猫だ。
 つまり殺したのだ。彼は四匹の仔猫を殺した。
 
 だが、そのことで彼が何かから咎められたことはない。
 誰も彼を咎めるだけの正当性なんて持っていなかった。
 
 彼は猫を殺したが、それ以前から、そもそも彼は命を踏みにじって生きていた。
 豚、牛、鳥の肉を食べた。魚も食べた。

 こうい ったことに対して、

「生きるために食べるのは仕方ない。身勝手で殺すのは違う」

 という反論が現れうるが、これはかなり欺瞞的だ。

301:2012/05/10(木) 14:40:47.06 ID:

 そもそも生きようとする行為そのものが身勝手なのだし、第一に本当に"生きる為"に牛、豚、鳥"を食べる必要があるのかは疑わしい。
 菜食主義者になれというわけではないが、それはどちらかと言えば"嗜好"に近い。

 実際、牛を食べない国も豚を食べない国もある。"牛や豚を食べること"は必要ではない。
 逆に、「人間が食べる為に飼育しているからこそ、豚、牛は絶滅せず生き延びている」と言うこともできる。
 だが、絶滅するよりは絶滅しない方がいい、という考え方そのものが人間の身勝手な押し付けでしかない。

"残っていない"よりも"残っている"が尊いことだと誰が決めたのか。 

 生きていくために命を踏みにじるのは仕方ないことだ。

 菜食主義者であろうと植物を食べることは確かであるし、そうするためには虫をも殺さないわけにはいかない。
 人間はあらかじめ生命を踏みにじっている。

302:2012/05/10(木) 14:41:31.76 ID:

 だから人間は悪い、というのではない。命はみんなそうした性質をもってめぐっている。

"人間が動物の命をどうこうできる"と考えることがそもそも傲慢なのだ。
 殺さざるを得ない状況のときは殺す。殺す必要がなくても殺す方が楽しめるなら殺す。
 それだけのことをしているにも関わらず、お前は猫を捨てたな!"と空々しく責めることのできる人間がどれだけいるだろう。

 じゃあ仮に。仮にの話、トンボが食うために猫を殺したとしたら、彼らはどうするのだろう?
"生きていくために仕方ない"と言えるか?
 言えない。他のものを食えばいい。

 だが、"他のものを食えばいい"のは、別に豚にも牛にも言えることだ。鯨にも海豚にも言えることだ。
 俺たちはそもそも嗜好によって生命を自分たちなりに価値づけている。
 
 だから俺は言う。

"生き物を殺すこと"は悪ではないし、"食べること"も悪ではない。
 よって"捨てること"も悪とは言えないし、"可哀想"と思うのは勝手な自己投影に過ぎない。
 猫を大事にしたい人間は身の回りの猫に愛情を注げばよい。

303:2012/05/10(木) 14:42:04.79 ID:

 所詮それが相応だ。人間にはそこまでしかできない。 
 自分の生活を犠牲にしてまで猫を生かそうとする人間はいない。
 そもそも人間は、食うに困れば自らの子供ですら捨て去る生き物なのだから。
 そのことで他人を責める権利なんて誰にもない。
 それが罪ならば俺たちは等しく同罪だ。

 トンボは仔猫を捨てた。だがこのとき、周りの人間が猫を引き取ったらどうなっていただろう?
 もちろん、彼は猫を捨てなかったことになる。

 現実には、誰も引き取らなかった。だから猫が死んだのだ。トンボは捨てざるを得なかった。
 引き取らなかった奴が悪いというのではない。
 つまりそもそも、そういう"システム"なのだ。

 だからトンボが命を踏みにじったとしても、誰も文句は言えない。
 誰も文句は言えないのだ。

304:2012/05/10(木) 14:42:31.54 ID:




 例の二人は俺を覚えていた。そのことを不思議がる余裕も今の俺にはない。
 俺の頭の中はからっぽになりつつあった。あるいは最初から、からっぽだったのかもしれない。

 魔法使いの女は、この世界に起こったいくつかの変化について、俺に教えてくれた。

 人が更に減ったこと、黒い獣が街を徘徊していること……どれもこれも、今の俺にはどうでもいいことのように思えた。

 赤の他人がいなくなったところで、俺はまったく悲しくない。
 視界に入らない他人は、もはや背景ですらない。数字だ。数字が増えたり減ったりすることに悲しみを覚えるはずがない。
 
 少女は赤いランドセルを背負って事務所を出た。黒スーツはしばらくコーヒーを飲んでいたが、夕陽が沈むころに去って行った。

 残ったのはハカセと後輩、魔法使いと俺、それからティアだけだ。「シラノはどうしたのか」と訊ねると、彼らは首をかしげた。

305:2012/05/10(木) 14:43:03.14 ID:

 結局、ここ数日の俺は振り回されてばかりだった。
 なにひとつ突き止めることはできなかったし、なにひとつ取り戻すこともできなかった。

 俺は何もしていないのと同じだった。何かを得ようとしてあの鏡を調べようとしたのに、何も得られなかった。
 無数の傷を受けただけ。あるいは……無数の傷を思い出しただけと言うべきなのか。

 俺はまた逃げ出したのだ。そう思う。なぜかは分からないけれどそう感じる。

 ティアがかすかに溜め息をついて、俺に言った。

「これでよかったのよ。あなたにはこうすることもできた。そういう選択肢があったのよ、最初から」

 そうだ。別に俺が逃げたところで誰かが困るわけではない。俺はもともと必要とされていない人間なのだ。
 逃げずにいるのはあまりに苦痛だし、あまりに耐えがたい。何もかも忘れて退屈に溺れた方が、よっぽどマシだ。

 喉の渇きはいくら歩いたところで満たされるわけがないのだから、熱砂に沈み、干からびるのを待つ方がよほど理性的だ。

 俺は起き上がって学校に行くことにした。魔法使いが俺を止めようとしたが、体に問題はなかった。怪我は痛んだが、少し、だ。
 呆れ顔の三人を置いて、俺とティアは事務所を出る。脇腹がじくじくと痛んだし、首筋が火傷のように疼いた。
 
306:2012/05/10(木) 14:43:29.25 ID:

 学校には人の気配がしなかった。時間が時間だというのもあるが、それよりももっと根本的に、人がいなくなりつつある。
 俺は旧校舎に足を踏み入れ、鏡へと向かった。薄暗く埃っぽく黴臭い。誰が好き好んでこんな場所に近付くのだろう。
 錆びついたドアノブを思わせる場所。そんな場所に。

 ティアは耳元でささやき続けている。

「カリオストロはまだ諦めていないみたい。一度取り込みに失敗したから、少し警戒しているようすだけど」

「取り込み?」

「取り込み。奴はすぐにでもやってくるわ。警戒しているって言っても、彼には他に方法なんてないんだから。
 でも、大丈夫よ、今のあなたなら。あなたは肝心なことを分かってる。信じたいものを信じるしかないってことをね」

 俺には彼女の言葉が空疎な言い訳にしか聞こえなかったが、事実俺は信じたいものを信じる以外に方法がなかった。

307:2012/05/10(木) 14:44:00.84 ID:

 何もかもが相対的で、だからこそ物事が懐疑の波に襲われている。俺は別にシニシストじゃない。
 けれど、他にどういう態度がありえるのだ? 

 どんなものも相対的な価値しか持ちえないということは、結局のところどんなものにも価値なんてないのだ。
 たとえば俺は後輩に好意を寄せているが、そんなのは所詮一時の感情に過ぎないと言ってしまえばそれまでだ。
 事実、俺は後輩がこの世からいなくなっても生きていけるだろうという気がしている。
 実際、生きていくだろう。必要不可欠な存在などない。
 それは同時に"俺"すらも必要じゃないということだ。誰よりもまず俺が"俺"を必要としていないのだ。

 俺が世界を見るための媒介者に過ぎない"俺"という道具を、俺は必要としていない。不要な道具だ。
 俺はもう何ひとつ見ていたくなんてない。何もかも忘れたい。記憶もいらない。消え去ってしまいたい。
 だから「俺」は不要だ。

308:2012/05/10(木) 14:44:44.13 ID:

 手首は変わらず落ちていた。赤黒い断面が覗く。鏡の傍には何もなかった。
 魅力的なものもなければ恐ろしいものもなかった。手首だけがあった。痕跡だけがあった。

 それは何ももたらさない。

 俺は手首をつかむ。ひどく冷たかった。俺は体育館裏の切り株の近くに向かう。手首をそこに埋めることにした。
 用務員室でスコップを借りて穴を掘った。深い穴だ。穴の底に立つと地面が臍くらいの高さになった。
 手首を投げ入れ、穴を埋める。埋葬だ。そしてこれは逃避でもある。俺は手首を埋葬すると同時に、現実を覆い隠そうとしていた。

 何もかも忘れて、このまま退屈の熱砂に沈み込む。何の感覚ももたらさない世界に向かう。
 つまりこれはまじないだった。俺は呪いを掛けていた。

 本来なら意味を持たないはずの行為に意味づけする行為。特別でない行為に特別な意味を与え、勝手にそれを信じる行為。
 
 俺は手首を埋めることで、もう二度と自分の心の底を掘り返すものが現れないことを願った。ティアは何も言わなかった。

309:2012/05/10(木) 14:45:20.40 ID:




 作業を終えてスコップを用務員室に戻す。手を洗ってから、俺は手首を埋めた場所をもう一度覗いた
 埋めてみると、土の色が変わっている以外は、なんの変化も見られなかった。
 結局そういうことだ。何ももたらさない。

 俺は溜め息をついて、それから学校の敷地を出た。コーヒーを飲みたい気分だったので喫茶店に向かう。
 
 店の中は相変わらず閑古鳥が鳴いていて、店主を除くとたった一人の客しかいなかった。
 顔なじみの女は俺に気付くと意地悪そうに笑った。

 俺はカウンター席に腰を下ろしてコーヒーを注文した。隣の女と何かを話そうとしたけれど、話すことはなにひとつなかった。
 ここ数日、俺を変化させていた何かが消え失せてしまった。

 世界を滅ぼされるのは気に入らないと、俺はいつだったか思った。けれど、今となってはどうでもいい。
 いや、最初からどうでもいいのだ。どちらかといえば、これがニュートラルな状態だ。

 所詮、俺には何もできない。結局何も変えられない。たったひとりの友人ですら見殺しにし、たったひとりの妹すらも慰められないような人間には。
 とうに、世界は俺に愛想を尽かしている。誰も彼も。所詮、俺はそういう存在だ。

310:2012/05/10(木) 14:45:54.08 ID:

「拗ねてるの?」

 女は言った。どうやら俺に向かって言ったらしいが、興味が湧かなかった。

「ふてくされてるの?」

「割とね」

「へえ」

 興味深そうに笑う。俺の頭の中に形容しがたい怒りがふつふつとわき上がってきた。
 じゃあどうしろっていうんだ? 確かに俺は甘ったれてるし拗ねているしふて腐れているけど、それがどうした?
 結局のところ相対的な価値しか持ちえないなら、どんな風に言いつくろっても生きていたところで仕方がないのだ。
 所詮は無価値なのだ。生きていたところで仕方ない。

 にもかかわらずどうして生きることを是としていられるのだろう。その方が「良い」ように思えるのだ?
 俺はそんなふうに感じられることなんて一度もなかった。

311:2012/05/10(木) 14:46:49.69 ID:

 生まれてこのかた、世界は理不尽で不条理で唐突だった。もちろん楽しいこともあったが、それすらも価値を持たないものだ。
 こんな悪趣味な世界にどうして俺は生まれなければならなかったのだろう。
 考えるのはいつもそのことだ。ましてや何故生きていかねばならない?
 まったく無価値で悪趣味で不条理な世界。なぜ俺たちはこんな場所にこんなふうに生まれたのだろう?

「ガキ」

 と女は言った。なんとでも言え。俺はコーヒーを啜る。

「私、もう行くわ」

 女は勘定を済ませて立ち上がった。出ていくとき、彼女は不意に俺の頭をぽんと叩く。
 俺は振り向かなかったし、何も言わなかった。
 あの人は何にも分かっちゃいないのだ。

312:2012/05/10(木) 14:47:18.47 ID:



 
「おや」

 と店主は声をあげた。
 彼の視線の先はカウンターの上、水色の携帯電話が置きっぱなしだ。

「さっきのお客さんのだな。ねえ、君、ちょっと届けてきてくれない?」

「なんで俺が?」

「人手がないから」

「嫌だよ。携帯なんてなくたってどうにかなるし、忘れたって気付いたなら自分で取りに来るだろ」

「どうにかならないかもしれない。携帯っていうのは特にね、必要だから持ち歩いている人が大半なのさ」

313:2012/05/10(木) 14:47:52.08 ID:

「必要?」

 冗談よせよ、と俺は思った。

「携帯が必要って、そんなわけないだろ? なくたって全然かまわないものだよ。
 仮に生きていくために必要だったとしても、持ちたくないものを"仕方ない"と妥協してまで持ち歩く必要なんてない。
 俺たちにはそこまでして生きていく理由なんてないだろ。そうまでして生きなければならないほど、人生って奴は素晴らしくない」

「どうでもいいさ、そんなの。理由なんて惰性でも妥協でもかまわないけど、必要と思って持ち歩く人はいるんだよ。
 人生って奴は別に素晴らしくもなんともないけど、素晴らしくないからといって嘆くほどのものでもないんだ。別にね」

 店主は俺を追い出すかわりにコーヒーを奢りにしてくれると言った。俺は仕方なく彼に従う。
 みんなおかしいのだ。俺のことを鼻で笑う。俺が切実に思っている疑問を、子供っぽい思いつきだと冷笑する。
 
 俺は店を出て女の背中を探した。

 街には人が溢れている。これで人が消えているなんて嘘だろう?
 減るならもっと減ればいい。人類なんて三百人くらいでもかまわないのだ。
 それも可能な限り良い人間を集めればいい。クズはみんな沈めばいい。俺も沈もう。

 でも、三百人しか人間がいなくなったら、今度はその中にクズが生まれる。そいつらも淘汰される。二百人になる。
 二百人の中にもクズが生まれ、百人になり、五十人になり、二十五人になり、十二人になり、六人になり、三人になり、二人になり、一人になる。
 残ったひとりが神様だ。

314:2012/05/10(木) 14:48:22.45 ID:

 俺は街を歩いた。もう外は夜だった。電灯と看板に照らされた街。ひどく空しい。
 眠るべきだ。
 みんな眠ってしまうべきだ。夜は特に。

 俺は右と左のどちらに行こうか迷った。どちらにも女はいない気がした。それでも追いかけなければならない。
 右と左なら左の方が好きなので、右に向かった(俺にはそういう好みと傾向がある)。

 歩いていると、いつのまにか靄がかかったように視界が不明瞭になる。
 俺はいつからかこの夜道を歩いている。飲み込まれている。
 こんなふうにして孤独に――いや、隣にはティアがいるのだが、それでも孤独に――歩いている。

 不意に、鼻先を甘い匂いがかすめる。
 足を止める。通り過ぎようとしたが後ろ髪を引かれた。どうやら、路地の方かららしい。
 匂い。甘い匂い。けれど、どうしてだろう。俺はその光景を覗いてはいけないような気がした。

315:2012/05/10(木) 14:48:50.78 ID:


 ――甘い匂い。
 
 路地は暗く、視界はきかない。匂いのする方へ近づいていく。一歩一歩。 
 現実から遊離している。いやそもそも、どこが現実なのか、俺にはまったくわからないのだが。
 ……そうだったか? 違う。俺は目に映るものを現実として扱おうとしたのだ。
 だからこれは現実だ。遊離しているような感覚すらも現実というだけにすぎない。

 足に水が触れた。なんだろう、と思う。跳ねるような音に、俺は下を向く。何かの塊があった。
 地面は水溜りに濡れている。雨が最後に降ったのがいつだったのかは分からない。
 俺が目を覚ます前まで、雨が降っていたとか? ……それなら、街中で水溜りを見つけたはずだ。

 だからきっと、この水溜りは水溜りではなくて――
 
 甘い匂いの発生源は、どうやら足元の水たまりらしい。触れてみると、それは生温かでべっとりとした感触を伴った。

 ――血だまりなのだ。

316:2012/05/10(木) 14:49:17.47 ID:

 心臓が鈍く脈動する。息を呑んだ。
 何かの塊だと思っていたのは、どうやら人の身体らしい。

 気付けば、何者かの気配がする。ティアが何も言わずに舞った。

 影から這い出る影のように、影で出来た細工のように、暗い路地裏に、黒犬がにじり寄っていた。
 カリオストロ、と俺は思う。
 俺は目の前の肉塊の貌を見ることにした。

 女だ。かすかに息を続けている。見覚えのある顔。ついさっきまで一緒にいた――。
 けれど、この血液の量は、地面を浸すほどの血だまりは、充満した甘い匂いは、既に死そのものだ。

 犬のがなり声。俺は身動きが取れなかった。
 こんなことが何度も繰り返されている。
“追いつかれてしまう”。

320:2012/05/11(金) 14:07:45.00 ID:




 自然科学部の部室には、シラノが横たわっていた。
 犬が鼻を鳴らす音が聞こえる。俺は彼女に歩み寄り、息があることを確認すると部室を出た。
 
 廊下を歩いて、ふと振り返ると、血の足跡がついていた。シラノの血。
 今、目の前で何かが起こりつつある。俺の中から現実感というものが奪われつつあった。
 現実のように見えるものを、俺はすべて信じるようにしてきた。

 でも、目の前のこれは本当に現実なのだろうか。今では、それすらも疑わしく感じられる。

 屋上にはスズメがいて、フェンスの向こうに目を向けている。いつもなら街を見下ろしている瞳が、今日は空を見上げていた。
 
「終わりそう」

 とスズメは言った。

「なにが?」

「世界」

 俺は溜め息をついた。

321:2012/05/11(金) 14:08:20.15 ID:

 もう何もかもどうでもよかった。明日隕石が落ちてこようがかまわない。
 何もかも、俺の中の手触りは失われていく。そもそもこんなふうに立っている今だって、俺はちゃんと覚醒しているのか?
 
「拗ねないでよ」

「拗ねてなんかないよ」

「そう?」

 彼女はバカにするように笑う。
 ――いや、ひょっとしたら、彼女はいつもと同じ微笑をたたえているだけで、馬鹿にされているように感じるのは俺の受け止め方の問題なのか。 

「何が起こってるんだろう?」と俺はスズメに訊ねた。

「みんな死んでしまいそうだよ。どんどんと血なまぐさいことになってる。いつのまにこんなことになっていたんだろう?」

322:2012/05/11(金) 14:08:55.57 ID:

「最初からだよ」と彼女は答える。

「ずっと前から、みんな傷ついてるの。たくさん血を流してる。それでも歩いていたの。気付かないふりをして。
 それでなんとかなっていたし、なんとかしないといけなかった。でも、もうだめなの。
"ここ"はもうすぐおしまいよ。みんな逃げ場所を失ってしまう」

「"ここ"って、何の話?」

「"ガラテアの領域"」

「……それってなに?」

「これまでなんとかなっていたけど、もうだめだって思った人が逃げ込む場所」

「逃げ込む場所?」

「みんな逃げてきたの。君の友だちも、そうじゃない人も。でも、それももうおしまい。カリオストロがきてしまったから」

「じゃあやっぱり、ここは現実じゃなかったんだ」

「"冥界"もね。どっちも、君が望んだものだよ」

323:2012/05/11(金) 14:09:24.49 ID:


「俺?」

「君が望んだようにしてきたの。だから、今ある結果だって、君が用意したものなの」

「まさか」

 俺は笑った。

「そんなわけない。俺がどうしてこんなことを望むんだ? こんなふうに何もかもを曖昧にごまかしたような場所を。
 俺はさまざまなことを忘れているし、さまざまなものを失っている。未だに立ち尽くしている。わけがわからないままだ。
 俺が望む通りになるなら、どうしてわざわざこんなふうにしなきゃいけない?」

「最初は違ったよ。君の思い通りの場所になった。そこそこ楽しかったはずだよ。
 でも、そのうち飽きてきたんだろうね。このままじゃだめだ、って思ったんだと思う。
 だから、今みたいなことになったの」

「答えになってない。どうして俺がこんな状況を望んだりするんだ」

324:2012/05/11(金) 14:09:58.55 ID:

「何もかもを曖昧にごまかしたい。いろんなことを忘れたい。
 何もかもなくしてしまいたい。たちどまってしまいたい。何も分かりたくない。
 そう思ったからじゃない?」

 俺は何も言い返せなかった。彼女の言っていることはめちゃくちゃだ。現実的じゃない。
 でも、もう俺の中から現実感は失われていた。夢の中を徘徊しているような浮遊感だけがある。

「それでもやっぱり、ダメだと思ったんだと思う。だから思い出そうとしたのよ、必死に。
 冥界なんて場所を作り上げて、自分で、現実とよく似た場所を作り上げて、そこを目の当たりにして、思い出そうとしたの。
 きっとね、そんなふうに立ち向かおうとしたのよ。結局、心は折れてしまったみたいだけど」

 俺の心臓がうるさく鼓動しはじめた。ティアはどこに行ったんだ? この女を黙らせてほしい。
 こいつは俺が聞きたくないことをさっきからべらべらと喋っている。これ以上話を聞いていては駄目なのだ。

325:2012/05/11(金) 14:10:31.67 ID:

「お前はカリオストロだな!」

 俺は叫んだ。

「お前がカリオストロなんだ! 俺を騙そうとしているな! 山師が! たかだか冥王が、俺を騙そうとしているな!
 侮るな! 俺がお前なんかに騙されるわけがないだろう! だらだらとどうでもいいことを並べやがって!
 お前の言葉なんて信じない! お前の言葉を信じれば、あの冥界が本当に近いってことになるじゃないか!」

「それで合ってるよ」

 スズメは戸惑った様子もなく笑う。理由もなく怒りが込み上げてきた。

「じゃあ、後輩はなんなんだ、どうして俺の近くにあいつがいる?」

「君がそう望んだから。現実では、君の日常に彼女はいない」

 俺が言い返そうとするが、彼女は自分の発言でそれを遮った。

「同様に君がトンボと呼んでいる男子も、存在しない。シラノとハカセはいるけど、別に仲は良くないね。
 ここには偶然迷い込んだだけ。現実には"自然科学部"は存在しないし、君は文芸部に所属している。
 文芸部の活動が思うようにいかないのも、君が逃げてきた原因のひとつみたいだけど」

 俺はここに来て、スズメがこれまでとはまったく違う意図で俺と話していることに気付いた。
 彼女はこの場で何かを終わらせようとしている。

326:2012/05/11(金) 14:11:09.08 ID:

「トンボが存在しない?」

「……語弊があったら言いかえる。今は、いない」

「じゃあ、トンボは、あいつは、やっぱり……」

「死んだ。七月の終わり頃にね」

 スズメが笑う。いっそう強い風が吹いた。
 俺は呼吸を忘れた。視界に映る一切のものから意味が剥奪されている気がした。
 どこにも俺の心を揺さぶるものはなく、どこにも俺を慰めてくれるものなかった。

 この世界の何もかもが、何もかもを苛んでいる。何もかもが苛みあっている。

 トンボは仔猫を苛んだ。そして彼もまた苛まれた。たったそれだけのことだ。
 俺はなぜだか急に泣き出したい気持ちになった。けれど涙は流れなかった。
 何も言えなかった。スズメも何も言わなかった。

327:2012/05/11(金) 14:11:47.95 ID:




 蝉の鳴き声が異様にうるさい、暑い夏の日だった。

 道路の向こうが蜃気楼で歪み、街路樹の葉陰が鮮やかに地面を彩り、道路には車の通る気配もしなかった。

 俺はそのとき学校にいた。
 吹奏楽部の練習の音が、人の気配のしない校舎に冴え冴えと響いていた。
 開け放たれた窓からは少しの風すらも吹き込まず、グラウンドからは運動部の掛け声だけが聞こえる。
 昼下がりの太陽の日差しは、時間の割には白く明るい。 
 
 そこではあらゆる時間が止まっているように思えた。
 その日だけではない、どこまでも透き通るような夏が、永遠に続いていくかのように思えた。そんな日だ。
 
 けれどその日、トンボは死んだ。
 屋上から飛び降りてアスファルトに頭をぶつけた。
 彼は何かに殺された。それが何なのかは分からない。
 きわめて意志的に彼は死んだが、その意志を作り出したのは彼自身ではなく“環境”だったろう。
 つまりそれは“俺”を含んだ世界のことだ。
 
 結局彼は自分自身を赦せなかった。赦すだけのものを、世界に見いだせなかった。
 
328:2012/05/11(金) 14:12:14.92 ID:




 スズメは笑う。

「そういえば、君はどうして“ジョー”って呼ばれていたの?」

「あだ名。苗字の最初の文字を音読みして」

「他にあだ名はあった?」

「あったよ。別に、なんてことのないあだ名だったけど。あだ名のつけかたは同じだった」

「誰がそれを使っていたの?」

「……」

 きいくん、と、幼馴染は俺をそう呼んだ。

329:2012/05/11(金) 14:12:40.50 ID:




 魔法使いの事務所には、シラノと喫茶店の女が眠っている。
 目を覚まさない。怪我自体は魔法使いがすべて治した(直すと言った方が正解かもしれない)。

 けれど目をさまさない。彼女たちも、もう目をさましたくないのかもしれない。
 スズメの言葉を信じるなら、誰も彼もがここに逃げ込んできたのだ。
 
 それがどんな形、どんな理由で起こるものなのかは分からない。
 何が原因で起こったことなのかは、まったく説明されていない。
 けれど実際、みんな逃げてきて、ここで会った。

 そうしてひどく打ちひしがれていて、いまなお傷を増やし続けている。

「ここじゃないどこか」なんて、結局どこにもなかった。

330:2012/05/11(金) 14:13:07.92 ID:




 トンボはあの日、クラスメイトのひとりにこう言われたらしい。

「猫を捨てたくせに!」

 いったいどういう話の流れで、そんな言葉が出たのか。
 彼がどうしてそんなことを知っていたのか。
 
 わからないけれど、その言葉が彼を屋上に駆り立てたのだろう。

 とはいえ、発言した人間だけを責めることはできない。トンボは結局生きることに不向きな人間だった。

 トンボは猫を捨てたが、猫を捨てることは悪くない。
 そのことで誰かに咎められることの方がおかしい。
 人間はそもそも生命を踏みにじっているからだ。

 そう思って、俺はそのクラスメイトを呪った。トンボを殺したクラスメイトを呪った。
 他の誰が彼を庇っても、俺だけはそれを続けなくてはと思った。

 だが、ずっと考えているとそのうち気付く。

331:2012/05/11(金) 14:14:01.91 ID:

 仮に“猫を捨てるのは悪くない”とする。根拠は“人間はもともと命を踏みにじっているから”だ。
 だが、そうだとすると、クラスメイトもまた“悪くない”ことになる。
 トンボは踏みにじられたが、結局彼の命もまた、子猫と変わらぬひとつのものでしかない。
 数だけに的を絞って言えば、トンボの方が悪だ。

 だから、“猫を捨てるのは悪くない”とすると、“トンボを殺すのも悪くない”ことになってしまう。
 
 反対に“トンボを殺したのが悪い”とすると、それは“命を踏みにじることは悪い”と認めることになり、結果的にトンボに悪を認めることになる。
 するとトンボは“死んでも仕方ない人間だった”ことになりかねない。
 俺は、どう足掻いても「彼を庇うこと」と「彼を傷つけた人間を恨むこと」を同時にできない。
 
 トンボは悪くなかった。死ぬ必要なんてなかった。じゃあトンボを死ぬ原因を作った彼も悪くないことになる。
 でも、それはおかしい。

332:2012/05/11(金) 14:14:41.47 ID:

 俺は言いようもなく悲しかった。ただただ悲しかった。初めてこのことに気付いた時、俺は声を失ってさめざめと泣いた。
 それからもう二度とトンボには会えないのだと思うと、どうしようもなく寂しかった。

 俺と彼は特別な友人でもなんでもない。ほとんど関わり合いがなかった。
 じゃあ、俺と彼がもう少し仲の良い友人同士であったなら、彼は死なずに済んだだろうか?
 彼は悪いことをたしかにしたけれど、それでも生きていこうと思うだけのものを、この世界に汲みとることができただろうか。

 俺はその努力を怠った。最初から死ぬと分かっていたらもちろんもっと努力しただろう。
 でも分からなかったし、死ぬと分かっているから始める努力なんてゴミだ。

 だから俺は無力なのだ。この世は地獄よりも地獄的なのだ。

 論理の上では自らの誤りを認めながらも、俺はトンボを殺した人間につらく当たった。
 お前のせいでトンボが死んだと何度言いかけたか分からない。それはもちろん自分のことを棚にあげる恰好の言い訳になった。

 やがて彼は学校に来なくなった。夏が終わる頃に、彼は学校をやめた。
 俺はこの世に害しかなさない。

 それでも、身勝手なのだろうけれど、俺は強い怒りを感じている。
 鮮烈で痛切な怒りを感じている。
 
 どうしてこんなことが起こるんだ?
333:2012/05/11(金) 14:15:43.09 ID:
つづく
334:2012/05/11(金) 15:51:23.15 ID:
1乙
335:2012/05/12(土) 22:35:37.18 ID:




 何も怖くない。
 もっと言えば、今となっては、何も起こっていないのと同じだ。 
 
 ここが現実でないならば、どんなことも。


 どうしてスズメの言葉をこんなに単純に信じたのだろう。
 俺は、彼女に対して可能な限り正直であろうと思っている。

 なぜかは分からないけれど、何かにそう強いられているような気もする。

 シラノは死んでいない。トンボはいない。ハカセはどこかに行った。後輩は存在しない。
 もうそばには誰もいなかった。

 いや、最初から誰もいなかったのかもしれない。

336:2012/05/12(土) 22:36:07.71 ID:

 俺は溜め息をつく。ティアの声が聞こえた。
 鈴の音のように響く声。俺の脳に直接入り込むような声。

「大丈夫よ」

 俺は今どこにいるのだろうか。
 何も思い出せない。

 さまざまなことがあまりにも露骨に示されている。
 にも関わらず、俺はそれに気付けない。気付かないふりをしている。

 けれどおそらく、この世界が隠していることは、誰にとっても分かりきったことなのだ。
 
 種明かしが遅いミステリーは退屈でしかないように。
 過剰な情報に対して見合った解決をもたらさない問題も退屈である。

 もはや何もかも分かりきっている。

337:2012/05/12(土) 22:36:41.76 ID:




 黒スーツの男の死体は児童公園に転がっていた。
 彼のアタッシュケースはどこかに行ってしまったらしい。少なくともこの場には残っていなかった。
 殺し屋の彼が、誰かを殺すことによって得た金。彼はその金で自分の死を買おうとした。
 彼が金を払って殺してもらったのか、殺されて金を奪われたのかは分からない。

 いずれにせよ黒スーツは死んでいたし、そのことは、もはや何の意味も持たない。
 なぜならここは現実ではないからだ。

 最初から現実ではなかったからだ。

 死が陳腐になっていく。
 意味が失われていく。
 だがそれは"ここ"での話だ。
 現実じゃない。
 
 そんな場所で何かが起こって、どうなるっていうんだろう。
 俺の中の現実感はとうに失われている。

338:2012/05/12(土) 22:37:33.92 ID:

 目の前にはいくつかの死が転がっていた。
 黒スーツの死、シラノの死、女の死、トンボの死、みんな死んでいく。
 
 何の区別もつかない。どこにも誰もいない。
 
 もしこの世界が夢だとすると、スズメの言葉も夢だということになる。
 つまりこの世界が現実ではないとするスズメの言葉を信じる理由がない。

 あるひとつの事柄が明かされると、必ずと言っていいほどその事柄を否定する言葉が立ち現れる。反復。ブーメラン的否定。

 かつて死は甘美な幻想だった。そこにある種の救いを見出すことは可能だった。
 だが今となっては死すらも平坦だった。俺の現実はどんどんと何か別のものに浸食されている。

 そうか、と俺は納得する。俺はついに溺れたのだ。熱砂に沈んだのだ。
 だからこんな愚にもつかぬ考え事に熱中している。そこにのみ俺の救いがあった。それ以外はゴミみたいなものだった。

 ティア、俺は現実なんてもう二度と見ない。わけがわからないままでいよう。それでいいんだろう?

 何もかもから目を逸らしていよう。どうせこの街に本当のものなんて何ひとつないんだ。これでいいだろう?

339:2012/05/12(土) 22:38:20.23 ID:

 第一、仮にこれが夢だったとして、俺はもう二度と覚醒することが不可能なのだ。
 だって、こんな現実めいた夢のあとでは、現実ですら夢のように感じてしまう。
 俺はもう二度と目の前の現実を信頼することができなくなってしまった。

 眠っていよう。眠るべきだ。誰がなんと言おうと。本当に? 本当に。

 目の前の死が陳腐で無価値であるということは、同時に目の前の現実が途方もなく無意味だということだ。

 いつからこんなことになったんだろう。いつから俺の現実は無価値になってしまったのだろう?

 最初から。

 頭がずきずきと痛む。
 俺はまだ何かを忘れている。何かを思い出せていない。

 俺は必要とされていない人間だ。目を覚まさなくてもかまわないはずの人間だ。俺は……無価値な人間だ。
 誰にとっても等しく。

 ……本当に?

 行きつ戻りつの話が混乱をもたらすように。
 俺の思考は論理的に機能していないのに。
340:2012/05/12(土) 22:39:14.28 ID:




 魔法使いの事務所には誰もいなくなっていた。

「みんなはどこへ?」

 と訊ねるが、答えはない。魔法使いすらいなかった。
 仕方なく、俺は街に出る。コンビニに入ってハンバーガーと弁当とホットドッグと栄養ドリンクを買った。
「あたためますか?」と訊ねられたので、すべてを温めるようにと言った。
 店員は三つの電子レンジを巧みに使いこなしレジ袋に品物を突っ込んだ。
「ドリンクはあたためなくていいのかな?」
 と俺が訊ねると、彼は蛇の皮でも踏んだような顔をした。

 会計を済ませた後、ティアがハンバーガーを食べたいというのでもう一度レジに並び直した。
 レジはひどく混雑していた。ふたつのレジカウンターに四、五人の人間が並んでいた。
 みなカゴに商品を入れて順番を待っている。俺がそれを待っているように。

341:2012/05/12(土) 22:40:01.20 ID:

 さっきと同じ店員が、「あたためますか?」と訊ねてきたので、俺はティアに「どうする?」と訊ねた。
 彼女が頷いたので「お願いします」と言った。
 店員はやっぱり蛇の皮でも踏んだような顔をしていた。カウンターの内側に蛇が這っているのかもしれない。

「悪いんだけどスプーンをもらえる?」と俺が言うと、店員は怪訝な顔をしたがすぐにしたがってくれた。
 だが店員が出したのはフォークだった。「これはフォークだよね?」と俺が問うと、彼は首をかしげて「スプーンですよ」と言った。
「俺の記憶が正しければ、スプーンは先がまるいものだったと思う。これはとがっている」
「いえ、これはまるいですよ。まるいのでスプーンです」
「いや、とがっているよ」
「まるいですよ。……フォークもお付けいたしますか?」
「お願いします」
 俺はうなずいた。結局どっちがスプーンでどっちがフォークなのだろう。俺と彼のどちらが間違っているのだろう。

 児童公園から黒スーツの死体が消えていた。俺は溜め息をついて空を見上げる。
 物思いにふけりたいタイミングというものが絶えず存在している。
 
 俺は枯れている。本当にそうだ。俺にはナイーブさが足りない。憂鬱さが足りない。メランコリックが足りない。
 本当にそうだ。俺という人間には、そういったうるおいが足りない。良くも悪くも。だから枯れている。

 街は書き割りだったし、時間は焼き増しだったし、人物は使いまわしだった。ぜんぶ嘘だったのだ。
 この世界に信用できることがらは何ひとつ存在しなかった。
 俺はハンバーガーをかじりながらコンビニエンスストアについて思いを巡らせた。二十四時間年中無休という永遠。

 いつでも開かれているというのは、いつも閉じているというのとさして変わらない。俺はそう思う。
 もしも世界が永遠に朝だったら、世界は別に明るくも暗くもないだろう。

342:2012/05/12(土) 22:40:36.85 ID:

 どうだろう、と俺は思った。スズメは俺が「思い出そうとした」と言った。
 でもきっと違う。俺は思い出したくなんてなかった。ずっとこんなふうに何もかもを曖昧にしたかったのだ。

 誰も俺を求めてなんていないし、俺にとっては何もかもが無価値だ。世界がそういうものであることを望んでいたのだ。
 結局俺はその程度で逃げ出す人間だったし、たかだか自分の命ひとつだって、何かのために擲つことができない人間だった。

 それが悪いとか良いとか言うのではない。そういう次元ではなく、もう俺は自分自身という人間にほとほと愛想を尽くしていた。

 俺は栄養ドリンクを飲んでビンをその場に捨てた。今俺が車に乗っていたら何の意味もなくクラクションを劈かせただろう。そういう気分だ。
 
 街には大勢の人間がいる気がしたが、誰も彼も俺のことをちらりとも見ていない。
 俺にとってこの街が無意味であるように、街にとっても俺は無意味な存在なのだ。
 そのことを嘆くには、俺には努力というものが足りない。心の底から何かを悲しむには、俺という人間はあまりに努力を知らずにいすぎる。

 溜め息をつく。もう何度目の溜め息だろう。数えることにも飽きてしまった。それくらい溜め息をついたのだ。
 でも、どうして溜め息をつくのだろう。別に憂鬱でもなければ疲れてもいない。溜め息をつく理由なんてない。
 ところで俺はどうしてたかだか溜め息のことをこんなに考えているのだろう? 所詮溜め息は溜め息に過ぎない。理由なんてなんだっていいのだ。

 この調子だ、と俺は思った。こんなふうに意味のないことをだらだらと考え続けていればいいのだ。止まることなく。
 ただただこんなふうに考え続けていればいい。公園の鉄棒とか錆びついた赤みのこととか夕陽が雲に隠れて滲んでいることとか。
 そんなことをただただこんなふうに考え続けていればいい。それだけで地球は回るのだし、時間は流れる。
 そのうち俺は死ぬ。そうすれば、頭の奥の痛みも忘れられる。そのはずだ。

343:2012/05/12(土) 22:41:08.16 ID:

 何もかも消えてしまえばいいのだ、と俺は思った。

「何もかも消えてしまえばいいのだ!」

 そして俺だけが残ろう。今ならカリオストロに従ったってよかった。彼の代わりに人間をひとりひとり殺してしまおう。殺し尽くしてしまおう。
 そうして最後に俺が自ら死ねばいい。人間は全滅だ。世界は救われた。

 地球はやがて新たな生命を生み出しあたらしい生態系が発展する。今度はなめくじが発展する。根拠は別にない。
 そうしてやがてなめくじは滅ぶ。なめくじが滅んだあとには蝙蝠の天下だ。その次は海豚だ。猿の天下はもう少しあとだろう。

 俺がそんなことを考えていたせいか、不思議と街から人が消え始めていた。
 みんな俺を置いてどこにいったんだ? 結局こんなふうに置き去りにされるんだ。どうせ。何の意味もない。

 けれど、俺はそもそも置き去りにされない努力をしていなかったので仕方ない。

 いつからこんなことになったのだろう? 俺はいつのまにかこんなことばかり考えている。
 いつから?

 ――待て、と俺は思う。

 本当にいつからこんなことになったんだ? 明らかに俺の精神は異常をきたしている。
 俺の身に何かが起こっていて、俺の中に何かが忍び込んでいて、俺の中で何かが蠢いている。

 名状しがたい不安が募る。

 俺は……何をしているのだ?

344:2012/05/12(土) 22:42:19.06 ID:

 ベンチの下から啜り泣きが聞こえた。捨てられた犬の鳴き声。その声が誰かに似ている気がした。
 目がさめるような感覚。

 カリオストロ、と思った。あの山師。ひょっとしたら俺は今、彼の罠の中にいるのかもしれない。
 唐突な感覚だった。突然、本当に唐突にそんなことを思う。すると符合するように不自然な記憶が取り戻されている。

 スズメの言い分を信じるなら、この景色はすべて現実ではない。と同時に、俺の望んだとおりのものだ。
 ならばカリオストロという存在もまた、俺が望んだものに過ぎない。
 この目の前に起こっている現実でさえ、俺がそう望んだものでしかない。

 俺は世界に絶望的なものであってほしかったのだ。

 うまく適応する自信がないから、適応する価値がないものなのだと思い込もうとしたのだ。
 
 本当にそれでいいのだろうか? 俺はそれで後悔しないのか?
 いやそんなことよりも――俺は何かを忘れている。おそらくは大事なことを。

345:2012/05/12(土) 22:42:47.67 ID:

 俺は忘れている、と痛切に思う。異様に鋭い感覚が俺の背筋を切り裂いていく。
 静寂とか沈黙とかそういうものをざっくり切り裂く何かだ。

 目がさめるような音。劈き。クラクション。そういう種類の感覚。唐突で、何に由来するかまったくわからない感覚。

 その感覚が俺の中の何かを壊した。波止場を津波が襲った。防波堤を決壊させた。そういう種類の感覚。

 俺は今の今まで自分の境遇を嘆きはしても、自分を取り巻く問題について考えようとしたことは一度もなかった。
 俺は怠惰だった。なにひとつ解決しようとしなかった。問題について真剣に思いを巡らせもしなかった。

 俺がしたのは「どうしてこうなったのだ?」というどうとでも答えられるような疑問を繰り返すだけだ。
 そうしてこうなったのは俺のせいじゃないと言い訳した。システムのせいだと。
 
 俺にはそんなことよりずっと痛切に考えなければならないことがあったはずなのだ。どうして今の今までそれを忘れていたんだろう。

346:2012/05/12(土) 22:43:27.97 ID:

 考えている振りを続けるだけで得られるものはない。俺はもう一度手を伸ばそうと誓ったはずなのだ。
 たとえトンボを殺したのが俺自身であろうと、今はそれを棚上げしておくべきだ。誰がなんと言おうと。

 俺は自分の頬を叩いて立ち上がった。俺は忘れていることを思い出さなければいけない。
 遠くの方から誰かがすすり泣く声が聞こえる。その音をどうして今まで聞き流していられたんだろう。

 俺はもうこんな場所は嫌だと思ったはずだ。
 俺はこんな場所から抜け出そうと思ったはずだ。
 俺はもう一度ここから抜け出せると信じたはずだ。

 大丈夫、何の問題もない。本当だ。なにひとつ心配じゃない。
 確かめに行かなくてはならない。さまざまな問題を。俺を取り巻く問題を。嘆くことをやめて。
 そうすることでしか始まらない。そういう問題がある。俺は何かを取り戻しつつある。唐突に。

347:2012/05/12(土) 22:43:55.15 ID:




 何が起こっているのかは俺自身まったくわかっていない。けれど状況はたしかな変化を見せているし、俺も変化を望んでいる。
 魔法使いの事務所に行く。彼女はたしかにそこにいた。少女がいた。女もいた。シラノもいた。黒スーツもいた。
 みんな一様に眠っている。おそらく目を覚ますとしたら、少女だけだろう。
 
 魔法使いはソファに腰かけて煙草を吸っている。ピース。

「こいつらの怪我ね、ヤガタの仕業」

「……ヤガタ?」

「私の同業者、っつーのかな。あんたが蹴り飛ばした黒い犬。あれね、ヤガタの魔法」

「は?」

 違う。あれはカリオストロの――カリオストロの……?

「ま、カリオストロと無関係ではないよ。あんたが言うカリオストロとも無関係じゃない」

 女は溜め息のように煙をこぼし、憂鬱そうに笑った。

348:2012/05/12(土) 22:44:25.02 ID:

「もうさ、そういう問題じゃないみたい。あんただけの問題じゃなくなってる。いつのまにか。なんだってこんなことしたのさ」

「俺のせいみたいに言うなよ」

「あんたのせいだよ、八割くらいは」

 俺は肩をすくめた。

「あいつも何かを探してる。巨人の城で財宝を漁ったジャックみたいに、めざとく。見つけたのかもしれない」
 
「見つけた?」

「相手をね」

「なんの?」

「そりゃ、復讐でしょう」

 女が気安く言うので、俺はこめかみを掻いた。
 俺の仕草を見て、彼女は不意に目を細める。

349:2012/05/12(土) 22:44:51.54 ID:

「なんか変わった?」

「なにが?」

「あんた。ちょっといい感じになってる」

「冗談だろ」

「八割くらいはね」

 八割、と俺は笑った。

350:2012/05/12(土) 22:45:47.61 ID:


 ヤガタ。どうして今更そんな人間が出てきたりする? 話は収束に向かっていたのに。
 耳元でティアが叫んでいる。俺は聞こえないふりをした。
 目をつぶるのはもうやめた。絶望<カリオストロ>も現実逃避<ガラテア>も、今はいらない。

 俺にはそんなことよりずっと真剣に、考えなければならないことがあるのだ。
 遠くの方から聞こえる啜り泣き。その声の主を、もう一度みつけなくてはいけない。

 そうすることでしか取り戻せない。もう一度日の下に出ることができない。

 手を伸ばす。
 掴む。
 切実に願う。あの啜り泣きを、俺は止めなくてはならないのだ。
351:2012/05/12(土) 22:46:31.94 ID:
つづく
352:2012/05/12(土) 22:49:14.75 ID:
355:2012/05/13(日) 23:37:09.93 ID:




"ズレ"る。唐突だった。俺は教室に立っている。自分の学校の自分の教室。
 グラウンドの方から、ざわめきが伝わってくる。大勢の人が騒いでいる。
 何があったんだろう。何かがあったのだ。

 ――俺はそれを既に知っている。

 教室には誰も残っていなかった。俺はMP3プレイヤーの再生を止める。
 
 立ち上がって窓の外を見下ろす。不穏な気配が空気を伝う。

 トンボは落ちて死んだ。あっさりと。トマトだってスイカだって、落ちれば潰れるし砕ける。あっさりと。
 トンボだって変わらない。

 彼は頭を刎ね飛ばされて死んだ。
 彼を殺したのが何なのかは分からない。

 けれど、それは俺に無関係ではないものだ。
 俺が見過ごしてきたものだ。
 俺はそのことに痛烈な怒りを感じている。
 
 彼を殺したのが俺だったなら、俺はその代償に、俺自身を殺し尽くしてしまわねければならないのだ。

356:2012/05/13(日) 23:37:38.27 ID:





 気配が変わる。月が見える。夜だった。"ズレ"た。俺は混乱しなかった。もはや何が起こっても驚きはない。
 映画のシーンが切り替わるようなものだ。現実じゃない。シーンの切り替わりごとに驚いていては、映画など見ていられない。
 
 問題は、この光景が俺に何を伝えようとしているかだ。
 俺に何を思い出させようとしているかだ。

 目を見開く。見る。

 シラノ。彼女の姿が見える。木々が夜風にざわめく。明かりは遠く、人の気配はない。
 どこかの竹林……見覚えのある場所。

 シラノは泣いていた。

 なぜ彼女が泣くのだろう。何が悲しいのだろう。

357:2012/05/13(日) 23:38:24.42 ID:

 俺は息をひそめる。

 まだだ、と思う。彼女じゃない。これは俺とは無関係だ。
 俺が探している声の主は、彼女ではない。

 俺は彼女について、何ひとつ知らないのだから。

 シラノ、悪いけどお前のことなんて考えている余裕はないんだ。
 俺は今、自分のことで精一杯なんだ。だから、今はお前が泣いていたってどうすることもできない。
 第一、俺が本心からお前の涙を止めようとしても、きっと無理だと思う。

 だから、シラノ。今のお前は俺にとって、“手がかり”でしかないんだ。悪いな。

 シラノは泣く。さめざめと泣く。この世の誰もがそうするように切実に涙を流す。
 どうして彼女は泣いているのだろう。

358:2012/05/13(日) 23:39:02.55 ID:




“ズレ”る。

 暗い部屋だった。妙な匂いがする。俺は灯りのスイッチを探して電気をつける。
 明るくなると、窓の外の暗さがはっきりと際立った。夜。
 
 床が赤かった。
 死体が転がっていた。陳腐だ。

 俺は部屋を出た。廊下にもひとつ、これは女のものだろう。
 階段を下りる。リビングにもひとつ。これは男のもの、ずいぶんと歳を取っている。

 三つの死体があった。
 
 リビングでは子供が泣いていた。男の子。小学生くらいの。
 ふと物音に気付き、玄関に向かう。

 黒い、大きな背中。俺はそれが誰なのかすぐに分かった。

 立ち尽くして、何分かが過ぎただろうか。玄関の扉がひらく。

 シラノが顔を出す。

「ただいま」と言って溜め息をつき、疲れたように笑う。
 あと少しで、彼女は目の当たりにすることになる。おそらくは現実を。
 
 何もかもが遠ざかる。

359:2012/05/13(日) 23:39:27.65 ID:


   

“ズレ”る。


 安い仕事だった、と彼は思う。
 たいした仕事ではないし、後片付けは別の人間がやるという。任されたのはまさしく“それ”だけ。
 
 相変わらず気分はよくない。豚の屠殺もこんな気分なのだろうか。
 いや――大義名分があるぶん、そっちの方がマシなのかもしれない。

 仕事を早々に済ませると、彼は足早に現場を出ることにした。
 子供が泣いていたが、たいした問題にはならない。すぐに始末されるだろう。

 殺人現場を片付けるだけの労力があるなら、殺す方がよっぽど容易だろうに、なぜわざわざ人に頼むんだ?
 彼は少しだけ考えたが、金持ちや権力者の考えることなんてわかったものじゃない。
 想像したくもないやり取りがあるに違いないのだ。

 彼は子供だけは殺さなかった。だからどうというわけではないが、子供を殺したことはない。
 おそらくは、そこが彼のもっとも罪深い部分だろう。

372:2012/05/14(月) 00:26:26.82 ID:

 仕事は終わりだ。早く帰ろう。こんな生活をいつから続けていたんだっけ。さっさと帰ろう。

 彼は帰る。
 帰路の途中、車に拾われ、運ばれる。
 溜め息をつくと、疲れがじわりと体に広がっていく。気が抜けたのだろうか。

 死にてえなあ、と彼は呟いた。
 死にてえなあ。
 死にてえなあ。
 
 ぼんやりと体を覆っていく。

 もし死ぬのなら――あいつに殺してもらうのがいい。
 あの女……同業者……あの気取り屋の……けれど……。
 死に方まで望み通りになるほど、俺は神様に愛されちゃいないだろう。

 彼は苦笑した。別に愛されたかったわけではないが。
 じゃあ、どうなりたかったんだろう?
 いったいどうなることを望んでいたんだろう?
 彼の思考は睡魔に覆われていく。

 何もかもが遠ざかっていく。 

360:2012/05/13(日) 23:39:53.86 ID:




“ズレ”る。

 遥か彼方から聞こえる啜り泣き。
 時間だろうか、距離だろうか、どこから聞こえるのだろう。

 その声に俺の心はかき乱される。何も考えられなくなる。最初から考えてなんていないのだけれど、何も考えられなくなる。

 だって俺は彼女のことが好きだったのだ。彼女の笑顔を取り戻せるなら世界のすべてを敵に回したってかまわないと思っていた。
 子供のときはずっと。でも無駄だった。俺がどんなにわめいても、彼女の暗闇は振り払えなかった。

 俺にはどうすることもできなかった。むなしさとか悲しみとか寂しさとか、そういったものが彼女を苛んでいた。
 それは誰のせいでもない。彼女自身の問題だった。俺はそのことが何よりも悲しかった。
 俺のせいじゃないということは、俺には解決することができないということだ。
 手助けすらも困難だと言うことだ。

 俺は彼女になにかひとつだって影響を与えることができなかった。何かひとつだって与えることができなかった。
 良い思い出なんてひとつだって作ってやれなかった。
 でも、仕方ないんだよ、精一杯やったんだ。俺なりに。でも駄目なんだ。どうしたって無理なんだ。

 言い訳は連なる。重なっていく。頭の中の黒板が白いチョークで塗りつぶされている。文字。言い訳。
 俺の痕跡。俺の怠惰の痕跡。俺が精一杯考えて考えて、塗りつぶした黒板。
 彼女の啜り泣き。

361:2012/05/13(日) 23:40:22.21 ID:

 俺はその声を止めたかったはずなのに。

 逃げたのだ。
 置き去りにしたのだ。
 彼女を、あの現実に。彼女を苛む空間に。置き去りにした。
 あんな家に、彼女を取り残してきた。

 逃げ出したのだ。

 だって俺は生きてるのがつらいんだもん、逃げたってしょうがないじゃん。
 第一さ、身の回りの人間なんていたところでしょうがねえんだよ。どうにもなんねえんだよ。俺はなんもできねえし。
 そうだろ? いままで俺に何かが出来たことなんてあったか? ねえじゃん。なにひとつない。
  
 そんなもんだよ。俺がいたってどうにもなんないんだ。いなくなったって誰も泣かない。
 あいつが欲しがってるのは俺じゃない。俺にはどうすることもできなかった。
 しょせん俺は“ついで”なのだ。“おまけ”なのだ。
 
 いたっていなくたって変わらない。

 第一俺だってつらいんだ。俺に優しくしてくれない人間に、俺がどうして優しくしないといけないんだ?

362:2012/05/13(日) 23:41:24.56 ID:

 俺は誰も愛してなんていない。自分すらも愛していない。
 そういや何かで読んだ。自分を愛せない人間は人を愛せないんだって。人を愛せない人は人に愛してもらえないんだって。
 でもこんな話も読んだ。人に愛してもらえる自分を発見することでしか、自分を愛することはできないんだって。

 じゃあ愛って奴はどっから生まれるんだ?

 まぁそんなんはどうでもいい。非常にどうでもいい。
 なんせ俺は死にたい。死にたいっていうのは生きたいって言うのと同じ意味だって誰かが言ってた。
 でもそれって絶対間違いだと思う。

 たしかに“死にたい”はそのまま“死にたい”って意味じゃないかもしれない。でも、だからって“生きたい”ってことにはならんでしょう。
 あんた、“眠い”って言ってる人間に、“眠いってことは起きていたいってことだよ!”って言う?
 言わんだろう、そういう場合もあるかもしれないけど。

 うまくいかねーし、人生やめてーな、ってのが“死にたい”だよ。
 たしかに逆説的にいえば、「上手に生きたい」って意味にはなる。
 でも理想的な人生なんてねーよ。現実的じゃねーよ。達成できないんだよ、完璧なんて。
 完璧主義者で神経質な奴が「しにてーなー」って言うの。こういう情緒、分かる? 

 ところで俺はさっきから誰に話しかけているんだろう?
 
363:2012/05/13(日) 23:41:50.61 ID:

「世界はクソだ。戦争がはびこっているから。だから滅びるべきだ」って言う人間にさ、
「戦争のない世界を望んでいるからそんなことを言うのだ」って言って、何になるんだ?
 実際に戦争はなくせるか? なくせない。
 
 人殺しはなくなるか?
 なくならない。
 嘘は?
 なくならない。
 貧困。虐待。民族紛争。
 なくならない。
 おそらく人類が滅ぶその瞬間までなくならない。

「戦争がはびこってるからクソだ。滅びろ」
 戦争をなくすには人類を滅ぼすしかない。
 
 幸せな人生を望んでいたとしても、不幸なことばっかりしかなくて、そんでこれからも不幸以外なさそうだって思ったら。
 人間は死ぬ。
 あっさり死ぬ。
 トマトとかスイカみたいに潰れて砕けて弾ける。

364:2012/05/13(日) 23:42:27.86 ID:

 みんな死ぬ。残ったひとりは神様で、そいつを最後に人が滅ぶ。

 でも俺はそんなことどうでもいい。俺は自分のことしか考えていない人間なのだ。
 だからみんな死んでもいい。
 世界なんて滅んだっていい。

 どうせ俺には誰も助けてやれない。
 あの啜り泣きを、俺は止められない。

 黒板が塗りつぶされる。言い訳でまっしろに。歪んでいく。
 
 どうだっていいや。

 死にてえなあ。
 死にてえなあ。
 死にてえなあ。

 もうやめちゃおうかなぁ。

365:2012/05/13(日) 23:42:57.32 ID:



  
 俺はバカでマヌケで猿よりも愚かだった。俺は猿になりたかった。猿は賢い。多くを望まない。あらかじめ何もかもを頭に備えている。

 人間はクソだ。
 教えてもらわないと飯も食えない。○○○○もできない。習慣づけないと夜眠ることだって出来やしない。
 本当だ。人間は本能をとっくに失っている。生殖本能なんてない。
 子供を欲しがるのは、子供が幸福の象徴であるかのような文化があるからだ。
 人間はとっくに動物じゃない。機械だ。
 猿にオナニーを教えたら死ぬまで続けるっていう話を聞いて猿をバカにする奴がいる。
 それはエラーだ。納得できる。
 だが、何かから獲得した知識で年がら年中オナニーして○○○○してる人間って奴はなんなんだ? 賢いのか?
 どうやら賢いらしい。馬鹿か。馬鹿だろ。死ね。

 人間にとっては異性愛ですら文化のひとつでしかない。男らしさ、女らしさというものも国によって真逆だったりする。
 人間はなにひとつ本能的なものを持っていない。ただ生きているだけだ。本能? ない。すべて学習したものだ。

 だから生きている意味が分からなくなるのだ。子孫を繁殖するために生きている人間なんていない。いるか? いねえよ。いねえ。
 子孫を残すのは本能じゃない。システム。文化。ミーム。単なる慣習。イニシエーション。 

366:2012/05/13(日) 23:43:50.11 ID:

 俺たちは犬だ。電流を流されて動けなくなった。電流が避けられないと気付くと、回避しようとしなくなった。
 回避する手段すら探さなくなった。ただ黙って電流に耐えている。マーティン・セリグマンの動物実験。安い新書の知識。
 
 泣いても誰も来ないと知った赤ん坊が泣かなくなるように。
 世界がなにひとつ変わらないから、俺はもう変えようとしなくなった。

 手を伸ばさなくなった。声を出さなくなった。
 どこにいっても何をしても変わらない。
 だったら……どこにも行く必要なんてないし、何もしなくてもいい。
 いなくたっていい。死んだっていい。
 どうせ何も変えられないんだし。

 みんなしんじまえ。

 クラクションを劈かせたって、一日に四、五人斬り殺したっておさまらないような憤り。
 どうせ無駄だ。拗ねて寝ちまおう。明日はこない。今日がぜんぶだ。無期懲役。終身刑。さよなら、おやすみ。

 それでいいはずだ。
 
 ――けれど、どうしてだろう。
 この頭痛は、それではやみそうにない。耳の奥の啜り泣きも……途絶えてはくれない。 

 もう泣くのはやめてくれ。
 どうしたら泣き止んでくれる?
 俺に何ができるんだ?

367:2012/05/13(日) 23:44:15.80 ID:




 街から人が消えた。
 俺は誰もいない街を歩いている。
 途中で歩くのに嫌気がさして、適当な家から自転車を借りて走ることにした。
 
 ぐんぐん進む。何の意味もなくベルを鳴らす。ちりんちりん。あはは、こりゃいいや。
 そんで、俺は坂を上る。ひいひい言って昇る。こんなふうに体を動かしたのはいつぶりだろーか。
 もう何年も動かしちゃいない。こりかたまってる。肉体。俺の肉体。俺が軽んじてきた自分自身。
 俺は考え事をやめた。不毛なんだよ、考え事は。

 不意に向日葵が見たくなった。もう一度だけ向日葵がみたくなった。そのあとは死んだってかまわない。

 向日葵畑には心当たりがある。あの広い場所。空間。真っ黄色な空間。太陽と青い空。天に背を伸ばす向日葵。
 うなだれたりすることもあるけど、毎年奴らは咲き誇る。すっげえ奴らだと心底思う。すっげえ。真似できねえ。

 なもんで、俺は向日葵が好きだった。すっげえ好きだった。どんくらい好きかっていうと、あのあれ、思い出せない。まぁいいや。

368:2012/05/13(日) 23:45:07.53 ID:

 俺は自転車で坂をくだる。ペダルが空気の抵抗でひとりでに回る。ぐるんぐるん。足にぶつかる。いてえよ。
 肌に風を感じる。寒いくらいの冷たさ。心地よい。

 俺の人生はなんで失敗ばっかなんだろう、とふと考える。なんで何をやってもうまくいかないんだろう。どこに行っても馴染めないんだろう。

 みんなこんな感じなんだろうか。俺は悲しくなったけど、そういえば考え事は不毛だった。

 俺はペダルを漕ぎ漕ぎ坂を上る。また坂か、とぼんやり考える。でも気分がいい。なぜだろう。
 俺は向日葵を目指す。ずっと彼方に存在するはずの向日葵畑。

 あとちょっと。この坂を越えて、曲り道をくねくねまがって、そんで道なりに坂を昇れば、そこはもう向日葵畑。

 けれど。

 夏はとうに終わっていたし、向日葵は刈り取られてトラックで運ばれてゴミと一緒に燃やされていた。
 笑い話にはなりそうにもない。

369:2012/05/13(日) 23:46:00.46 ID:
つづく
370:2012/05/14(月) 00:18:35.26 ID:
元スレ: