1:2013/11/15(金) 00:23:41.84 ID:
お前らを可愛がってくれたじいちゃんばあちゃんの若き時の記憶、このスレで甦らせてやれ

2:2013/11/15(金) 00:24:31.23 ID:
ばあちゃんが電話交換手の仕事してたらしい
超絶ブラックで気がつくと寝ながら仕事をしていたらしい
4:2013/11/15(金) 00:26:40.71 ID:
祖母は死んだ祖父に変わって俺の父ちゃんを食わせていくために体を売って食いつないだ
6:2013/11/15(金) 00:27:51.64 ID:
父ちゃんが自分で道を決められるようになった時にはもう
祖母は他界していた
両親に恩返し出来なかったことが最大の心残りだと父ちゃんは涙を流しながら語った
5:2013/11/15(金) 00:27:19.24 ID:
曾祖父が満州鉄道の経営責任者だったから、祖父はちいさいころ満州にいたらしい

そこでは日本人であるだけで貴族扱いで、学校は馬車で行ってたんだと。
それと、実は俺の祖父は3男で、上に二人、曾祖父とロシア人の子供がいて
実は俺にはロシア人の鳩子がいることを告げられた
7:2013/11/15(金) 00:28:31.38 ID:
昭和30年頃まで戸籍を持たない山の漂流民「サンカ」が
農村だった爺さん家にほうきや竹細工製品を売りに来てた
9:2013/11/15(金) 00:31:44.66 ID:
俺の祖母の父親が大日本帝国海軍音楽隊の指揮者だったらしい

1910~1940までの旗艦には全部乗ったことがあるんだと

曽祖父の仕事の都合上、祖母は呉、舞鶴、横須賀に引っ越したり戻ってきたりばっかりだったって。


で、曽祖父が退職してから広島に引っ越して、そこで原爆を生で見たらしい

あとちょっと家が中心部だったら吹き飛んでた
11:2013/11/15(金) 00:34:56.00 ID:
母方の祖母の兄貴が人間魚雷に乗る予定日は

昭和20年8月16日だったんだって

人間魚雷で亡くなった先人さん、靖国神社で安らかにお休みください

毎年お参りしてます
14:2013/11/15(金) 00:36:56.16 ID:
>>11
俺の祖父が特攻隊に行く予定は15日の夜だったんだと。

当時は本当に国のために自分の命をささげる人しかいなかったんだって
13:2013/11/15(金) 00:36:24.58 ID:
航空特攻と違って回天は敵を発見してから乗り込んで発射だから
正確には搭乗予定の回天を乗せた潜水艦の出撃日が16日だったんじゃないかな
16:2013/11/15(金) 00:38:36.75 ID:
>>13
ばあちゃんの山形弁が聞き取れなくて15年間謎だった部分が解決したぜ
ありがとよ
17:2013/11/15(金) 00:40:49.47 ID:
東京から70km程離れているが、東京から食糧を求めて買い出しにくる人が結構いた話
B29が低空を通過してビビりながら隠れていた話
畑のきゅうりを食って赤痢にかかって死ぬ一歩手前までいった話
軍属になるべく大学で勉強しており招集を免除されていたけど、招集がかかる直前で終戦になった話
その後渋々農家になった話

田舎だからこんくらいだわ。田舎の食糧事情は都会ほど酷くはなかったみたいだね
22:2013/11/15(金) 00:45:08.43 ID:
>>17
うちは着物や布団もって米と交換してくれって人が結構きたみたい

今でも戦前の蔵残ってるけど
梯子かけないといけない二階に板壁あるんだけど 板とったら米の貯蔵庫っていう
ニンジャ屋敷みたいな細工残ってる
24:2013/11/15(金) 00:47:53.27 ID:
>>22
わざわざ来るのもすげーよな。まあそこまで酷かったんだろうが
米を隠しておく仕掛けなのかな?
25:2013/11/15(金) 00:50:59.88 ID:
>>24
本当に酷かったみたい

板壁は米隠す仕掛けだね
29:2013/11/15(金) 00:53:53.51 ID:
>>25
そんな仕掛けわざわざ物資のない戦後すぐに作るかなあ
もしかしてもっと昔に年貢ちょろまかすための仕掛けだったんじゃ(笑)
38:2013/11/15(金) 01:15:29.88 ID:
近所にいた人のお話だと、田舎だから食べるもんも困らなかったし空襲も無いし、
別に悲惨なムードは無かったとのこと

旅先でたまたま出会った爺さんはシベリアに抑留されてたらしい
あんまり語りたくなさそうだったから詳しく聞かなかったけど
20:2013/11/15(金) 00:44:43.18 ID:
爺ちゃんはシベリアに行く途中で病気になり日本に返された
その時一緒だった部隊の人達は全滅
『自分だけ生き残ってしまった』と泣いたらしい
と、ドイツ人の友達に話したら『生き残ってラッキー、とは思わないのか?』って言われた
23:2013/11/15(金) 00:46:52.01 ID:
>>20

アーリア人どうした
26:2013/11/15(金) 00:51:25.71 ID:
戦時中に帝都にいた人たちの生存率ってすごく低そうだよな
今の東京が俺みたいな都民3世ばっかりなのは、
やっぱり田舎の方がみんな生きてたってことかな
28:2013/11/15(金) 00:52:32.90 ID:
その日は自治会の集まりで町内会の草刈りが朝からあった
しかし、背中に乳児を背負っていた母親も参加していたが、その日はとにかく泣いてしょうがなかったらしい
町内会の人達に今日は泣き止まないみたいだから帰りなさいと促された
帰った時にピカドン
現場にいた人は亡くなってしまったそうな
その乳児は今の俺のオヤジ
今こうして俺が2ちゃんに書きこめるのもオヤジが泣いたおかげだ
30:2013/11/15(金) 00:53:55.23 ID:
>>28ほう...間一髪
33:2013/11/15(金) 00:58:06.49 ID:
>>28
当時の広島って、中心部は燃えやすい木造建築が全部あらかじめ壊されてたんだ

祖母は毎日隣の家の人から手押し車を借りて中心部の木材を集めに行ってたらしい。

でもなんか8/6日だけ隣の人が機嫌悪くて貸してくれなくて、中心部に行けなかったんだと

ちなみにその木材採取地が原爆ドームのすぐ近く
35:2013/11/15(金) 01:06:13.35 ID:
広島県北部の山村だった祖父母の家
近くにあったお寺の本堂には病院が満杯で行き場の無い原爆負傷者が担ぎ込まれていた。

一人また一人と被災者はなくなり境内の臨時火葬場からは毎日煙がたなびいていたそうだ。
23-30人お寺に担ぎ込まれていた負傷者は全員死亡
36:2013/11/15(金) 01:08:06.71 ID:
村の消防団は広島市内の死体整理に動員された。
破壊消火用の飛び口で死体を引っかけて山を作り
軍隊が油を掛けて焼いていたそう。
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